鏡
【八月一日】
・古い手鏡一点。銀製。薔薇の花の彫刻が施された、美しい品。持ち込まれた方にいわく、もとは欧州のさる王城に住んでいたある王妃の持ちものであったとのこと。
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その手鏡は、王妃が嫁入り前から大切にしていたものだった。鏡は、いつでも王妃のかたわらでその人生を映し出してきた――幸福だった娘時代も。希望に満ちた婚約時代も。そして、屈辱と失望にまみれた退屈な今も。
王妃の結婚相手、つまり城の主である王は、ひどく身勝手な男だった。正式な妃を持ちながら、美しい娘を見つけては次々と恋人の座に据えた。
王妃は、表向き夫のありさまには沈黙していた――王妃としての誇りが、彼女に口を開かせなかった。若くてかわいいだけの小娘が、王妃として認められた自分より優れているはずがない。そんな小娘に嫉妬して取り乱すなど、王妃にあるまじきことだ! 何人もの候補の中から選びだされた女こそ自分であるという自覚は、彼女に本音を押し隠すことを強いた。鏡だけが、変わらずに彼女を映していた。
ところが、そんな王妃の忍耐をあざ笑うかのような、とんでもない事件が起こった。王のグラスに毒が盛られたのだ。そして、その首謀者の疑いが、あろうことか王妃にかけられた。次々と王宮に現れる王の恋人たちのふるまいに耐えかねてのことではないかと、噂が立った。
王妃にしてみれば、とんだ濡れ衣だった――そして、この上ない屈辱だった。〈嫉妬〉こそは王妃がもっとも遠ざけようとしていた感情だというのに、犯してもいない罪が〈嫉妬〉を理由に押しつけられたのだから。
王妃は塔に幽閉され、すぐに死刑を宣告された。裁判は一方的なもので、まるで最初から判決が決まっていたかのように、王妃は魔女に身を落とすこととなった。
まったくの八方ふさがりに追い込まれた王妃だったが、彼女にはたったひとり味方が残っていた。エスターというその侍女は、王妃が若い頃からずっとそばに仕えてきた誠実な女性だった。王妃はこのエスターを信頼していたし、エスターは王妃を心から敬愛していた。王妃の髪を整えるのも、衣装を手入れするのも、宝石の管理も、牢に入れられたあとの食事の世話も、みなエスターに一任されていた(というより、他に〈魔女〉の世話をしたがるものなどいなかったのだ)。
王が近いうちに新しく妃を迎えるという話を王妃に伝えたのも、エスターだった。結婚の日取りは、なんと王妃が火刑台に上がるその日だった。結婚式の余興に、おぞましい〈魔女〉の処刑を広く公開しようという心づもりがあるに違いなかった。
これほどひどい話があるだろうか? 王は大勢の恋人のうちのひとりに本気に――王としては、だが――なり、どうした風の吹き回しか、結婚しようという気を起こしたらしかった。そのために、邪魔な王妃を魔女に仕立て上げ、彼女を慕う領民たちからの非難を回避することにしたのだ。
王妃は、エスターとともに一晩を泣き明かした。そして、例の鏡をこっそり持ち出してくるようエスターに頼んだ。これは、難しい話ではなかった――それなりに大きいが、手鏡だ。それに、次の王妃に選ばれた恋人は、前の王妃の持ちものには大して興味がなかったから。
王妃はそれから毎日、玉座に座っていた頃のように気に入りの鏡を見ながらエスターに髪を整えてもらった。思い出話はときに恨み言に変わり、しばしば涙が混じったが、この世でもっとも親しいものたちをかたわらに置いて、王妃は決して孤独ではなかった。
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いよいよ王の婚礼が執り行われる、つまり、王妃が処刑される日の朝、エスターがうなだれながら王妃の最期の身支度を整えようしたとき、一瞬――本当に一瞬、鏡に映った王妃がエスターを見てにっこり笑った。エスターは、朝日が反射したせいで見間違えたのだと思った。なぜなら、その輝くような一瞬の笑顔の前と後には、どちらもやつれて血の気のない、青白い王妃の顔が悲しげに映し出されているだけだったからだ。
「お妃さま。おぐしを結い終わりました」
エスターはこみ上げてくるものをこらえて王妃の背に話しかけた。この気高い主人の命が、王の身勝手な不貞な代償として間もなく差し出されようとしている! そう思えば、彼女は泣かずにいられなかった。そして、王妃が火刑台に上げられるのとともに、自分はこの塔から身を投げようという決意をひそかに固めていた。
エスターを振り向いた王妃はやはり青白い顔をしていたが、いくぶん和らいだ表情で言った。
「ありがとう、エスター。この鏡は、元の通りにお部屋に戻しておいてちょうだい。わたくしには、もう必要ないから」
エスターは涙ぐんでしまい、くぐもった返事をするしかなかった。これからは、あの鼻持ちならない新しい王妃が、この鏡を使う。いや、きちんと使われるかどうかすら分からない。もしかしたら、その場で庭に捨てられてしまうかもしれない……粉々に割られてしまうかも……。
だが、王妃は頼みましたよ、とエスターに鏡を握らせた。
「あなたにしか、頼めません。次の持ち主がこの鏡を手にするまで、あなたが大切に手入れをしてください」
こうして王妃は火あぶりにされ、忠実なエスターと、美しい鏡だけがあとに残された。王妃はバルコニーに並んでこちらを見下ろす王と新しい王妃、火刑台を取り囲む兵士や領民たちを前にして信じがたいほど落ち着き払った気高い態度を崩さず、ほほえみすら浮かべて、かえって彼らを眺めているようですらあった。
エスターは主人の最期の言いつけを守るために、王妃の鏡を部屋にこっそり戻し、何食わぬ顔で新しい王妃に仕えた。新しい王妃は、前の王妃に可愛がられていたエスターのことが気に入らず、冷たくあたった。他の侍女たちも、〈魔女〉に仕え続けた同僚をあからさまに白い目で見た。
だが、エスターは大して気にしなかった。彼女は鏡の行く末を見届けたら、今度こそ主人のあとを追う気でいたからだ。
しばらく、鏡はそこにないかのように扱われ、エスターがときおり丁寧に磨く他は、誰も手を触れようとすらしなかった。
しかし、王妃の願いはふいに果たされることになった。新しい王妃の部屋にやって来た王が、鏡があるのに目を留めて手に取ったのだ。
「これは……」
王は訝しげに鏡の彫刻を見、それから、エスターが一日も欠かさず磨き続けた鏡面を覗き込んだ。そのときだ。
エスターの立っているところから、ちょうど鏡面が見えていた――鏡を覗いた王の顔が映るはずの場所に、青白い女の顔が映った。
それは、処刑の朝の王妃の顔だった。
王は一瞬、ひどく驚いたような素振りを見せたが、それは鏡面を盗み見ることのできたエスターにしか分からないほどの仕草でしかなかった。次の瞬間には、王は王に戻っていたのだから。
――いや、戻ったように見えただけだったのだ。
「どうなさいました? 」
新しい王妃が甘えた声で王にすり寄った。
「その鏡、〈魔女〉のものだったのですわ。本当は捨ててしまいたいのですけれど、あまりに不吉なので触るのも嫌で……」
「それはそうであろうな」
王はにっこりと笑って言った。
「鏡というのは、神聖な道具だ。人目があろうとなかろうと、常にまことをのみ映し出す。王妃を陥れて悦に入っているそなたが、触れられるはずはない」
侍女たちは、あっけに取られてしまった。新しい王妃などは耳を疑い、うろたえることもできずに凍りついた。
王は鏡を大切そうに胸に抱いた。
「わたしはどうかしていたのだ――あるいは、すべてはこれなる魔女の企みだったのかもしれぬ。わたしは今、この鏡に触れ、正気を取り戻した。王妃は潔白だ。この女こそが、邪なる魔女なのだ! 」
王は結婚したばかりの新しい王妃を拷問し、魔女だと自白させた上で火あぶりにした挙句、焼け残った体を衆人の目に晒した。そして、先に魔女として処刑され、打ち棄てられていた元の王妃のために美しい墓を建て、改めて国を挙げての葬儀を執り行った。以後、この王は人が変わったように恋人たちとの関係を清算し、二度と妃を娶ることなく、のちの世まで名君と称えられるほどの優れた君主となった。
元の王妃に尽くした、あのエスターただひとりを誰よりも信頼してそばに置いていた、という。