追憶
私たちは場所を変えた。第二部の舞台は、何を隠そう、私の家なのだ。
仕事でいつも両親がいない私の家は、二人でお菓子作りをするには最適だ。提案する時は勇気が必要だったけど、とても喜んでくれた筒井さんを見たら、よかったと思えた。
「でも本当によかったの?」
「大丈夫だよ。私だけだし」
「ふうん、一人っ子なんだ」
「まあ、ね。うん」
お邪魔しまーす、と元気良く我が家に足を踏み入れた筒井さんは、しかし、一瞬怪訝そうな表情になった。わずかに鼻をひくつかせているようだった。
「どうしたの?」
なにか不備があっただろうか。不安になって聞いたけど、筒井さんはすぐにいつも通りのスマイルで「なんでもないよ」と目をきゅっと細めた。
だけど、やっぱりなにかおかしかった。チョコを作っている間も、はしゃぎながらも、どこか本気で楽しめずにいるような。なんだか変な空気が流れていた。いつもと違うシチュエーション、という理由だけではなかった。
「あのさ、もしかしたら」
チョコを冷やしている間、筒井さんは唐突に、困ったような顔で切り出した。
「さっき私、嫌なこと聞いたかも」
「……ううん、いいよ。もうだいぶ前のことだから」
そっか、気付いたんだ。私は自分の至らなさを恥じた。もう少しこちらから気を遣うべきだったかもしれない。
筒井さんは鼻が利くようだ。さっき、玄関で嗅いだのは、微かに残るお線香の匂いだったんだろう。
「本当はね。兄がいたの」
それだけで聡明な彼女は悟ったに違いない。押し黙ってしまった筒井さんに対して、私はそんなに悪い気分ではなかった。むしろ、彼女には知って欲しいと思った。兄のことを。
「私が小学生の時に。事故で」
兄の最期を話そうと思った。
「今よりも少し暖かくなった、3月くらい。私は5年生の終わりだったんだけど、その時片思いの男の子がいたの」
「あら」
筒井さんは目を丸くした。だけど茶化しはしなかった。
「不思議と、顔は思い出せないんだけどね……。とても好きだったのは覚えているのに。
で、その子と遊びに行く機会があったんだけど、兄が後を着けていたのよ。当時兄は、私たちと同じ高2。信じられないよね」
「こんなに可愛い妹がいたら当然だよ」
真顔で返されたのには面食らった。
「えっと、そんなことしてるもんだから、轢かれちゃった。トラックに」
運転手の人も即死だったらしい。というか、先に心臓の発作で亡くなっていたそうだ。不運な事故だったと、何度も聞かされたけど、あの時のことは一生忘れないだろう。
幾度となく思った。もし、兄が私たちを尾行したりなんかしなければ。もし、誰かが兄を通報して、警察にご厄介になっていれば。兄の帰りが電車一つ分だけでもずれていれば。
あの事故の瞬間に、兄は居合わせなかった。絶対に、その方がよかったのに――。
「ごめんなさい、思い出させちゃって」
「いいんだって。むしろ、早めに言えてすっきりした」
私は笑う。自分で言っておきながら、背筋に寒気が走った。いつからこんな芸当ができるようになったんだろう。
「それと、兄は作家だったんだ。兄の書いた小説がすごい好きで、私も兄みたいになりたいなってずっと思ってた」
「それって、まさか『星埜新』?」
「そうだよ」
「うわあ、すごい! 苺に勧められた雑誌に載ってて、気になったから今読んでるよ!
そっか、苗字同じだもんね……」
「『カレイドスコープ』、読んでるんだ。私も大好きなの」
SFのことを知りたいと言う筒井さんに、私は入門書のような本を渡していたのだ。そうか、確かに兄の作品も取り上げられていた。
処女作にして、遺作。お兄ちゃんは生前、小さい私に様々なアイデアを語ってくれた。本当は、もっと多くの作品を残せたはずなのに。
「それでSFを好きになったの?」
「うん。……自分で小説を書いたりもした。でも全然ダメだった」
お兄ちゃんに憧れて。近づきたくて。
いや、それは贖罪だったのかもしれない。生き残ってしまった私が、生きていていい理由が欲しかったのかもしれない。
「兄の死は、歴史の損失よ。それに引き換え、私は、」
「そんなこと言わないで」
不意に、筒井さんは泣きそうな声になった。
「寂しいよ。私、今の星埜さんのこと好きだよ」
彼女は本当に良い人だ。私は笑ってありがとうを言った。
そんな一幕がありながらも、チョコ作りはまずまず成功したと言えた。久しぶりの手作りながら、まともな出来だった
「私さ、筒井さんが話しかけて来てくれて、嬉しかった」
駅まで送る道すがら、勇気を出してそう伝えると、筒井さんはとても複雑な顔をした。気まずそうな。
「ああ、もう。そんな純真なこと言われると心が痛むわ」
「え?」
「ううん、なんでもない。私も、思い切って星埜さんに声かけてよかった。こんなに仲良くなれるなんて思ってなかった。ありがとう」
帰り道で、また一人になる。なんだか随分久しぶりのような気がした。
(ねえ、お新ちゃん)
返事はない。いるのかいないのかも、はっきりとは分からない。でも私は、心の中で呼びかけ続ける。
(私って、ずるいよね)
こんなにも優しい筒井さんに、私は、まだ隠し事をしている。本当のことは明かしていないのだ。
さっき、無邪気に喜んでくれた彼女に申し訳ないと思う。上っ面だけで合わせている自分に、嫌気がさす。
最低だ。
「人はみんなそうだよ」
お新ちゃんがぼそりと呟いた。やっぱりいるじゃんか。
「肝心なことは、大事にしまっておく。そういうものさ」
「知ったような口きかないでよ」
幻覚のくせに。
だけど、それでも。痛みが和らいだのは確かだった。