Coulomb's clone
「えー、まずは復習からだ。光の干渉は、波の原理を知っておかなければ、理解することはできない――」
1週間はあっという間に過ぎる。退屈な授業を神妙に聞いて、クラスメイトに適当に相づちをうって、笑みを浮かべていれば。波のように受け流し、流されていれば。本質的には一人でも、孤独を感じることはない。
「一人だなんて、寂しいこと言わないでよ。僕が付いているだろ?」
訂正。うるさいお目付け役もいることだし。
(お新ちゃんのせいで、友達が出来ないんだよ)
と、心にもないことを言ってみる。そう。友達がいないのは、私が避けているだけ。
普段はそれで平気だ。だけど時折、まさに波の重ね合わせで、振幅が倍増した時。私の気分は谷のどん底へ落ちる。
今の私は余生を過ごしているようなものだった。この前の誕生日には、期待の他にも、タイムリミットとしての意味もあった。未来を嘱望されていた兄と同じ年になる前に、彼の遺志を継げるようになろうと。素晴らしいSFを書けるようになろうと。
はは、タイムリミットどうこう以前に、とっくにダメになってたけどね。
文章を書かなくなって、どのくらいになるだろうか。捨ててしまった夢を想うと、胸がなんとも言えぬ軋みを立てる。最近は小説すら読まなくなっていた。
「でもこの部屋は不思議だね。どこの部活が使っているのかな」
お新ちゃんが授業中に話しかけてくるのは日常茶飯事だ。私も真面目に聴講する気はないので、彼の雑談に付き合うことにした。
(こんなところ使わないでしょ。物置みたいなのに)
選択授業の関係で、この狭苦しい部屋で週に1度、私は退屈な物理の授業を受ける。SF好きだから、という冗談みたいな理由で選択した。身も入らないわけだ。
「言えてる。だけどほら、後ろに色々置いてあるよ」
(ほら、って言われても、見えない)
一応、周りの目は気になる。授業中にいきなり振り向いたりはできない。
当たり前だけど、お新ちゃんのことは誰にも話したことがない。小学生の私でも、なんとなく分かっていた。兄がまだ死んでいないことは、秘密にしなければならないと。それに、言っても信じてはもらえないだろうと。
私自身が信じることを止めたのは、いつ頃からだっけ。
「あ!」
唐突に、お新ちゃんが叫び声をあげた
「ねえ、机を見てごらんよ!」
(なによ、うっとおしい――)
だけど私は、すぐに「驚きに目を見開い」ていた。すごい、小説の登場人物くらいしかしない動作だと思っていたのに。
それは、もうすっかり忘れていたもの。先週書いた『死にたい』の文字。
の、下にあった。
端的に言えば、続きが記されていたのだ。机の左端に書かれた文字の、すぐ下。返事であることは明らかだった。
誰かに見られていた――その事実より、内容に驚いた。
うそ。
『喜べ。君は人間だ』
そう書いてあったのだ。1週間前には存在しなかった文字。特徴の無い筆跡で、だけど異様な存在感とともに、その文字は存在していた。
「うーん、自殺志願者にかける言葉としてはずれているような……」
違うよ、お新ちゃん。この返事は、その道に詳しい人間にだけ分かる一種の符号。あるSF小説の一節だったのだ。
20世紀に発表されたその小説の原題は『Coulomb's clone』。『クーロンズ・クローン』だ。ファンからは、「クークロ」という略称で親しまれている。F・K・デックの隠れた名作SFなのだ。
「苺、笑ってるね?」
はっとして、私は口元を押さえた。ほんとだ。口角がつり上がっている。おかしいな、授業中なんだから真顔に戻らないと、と思いつつも、私の口はだらしなくにやけたままだった。
愉快なのだ、と気付いた。こんな気持ちはいつぶりだろう。思わぬところで同好の士と巡り会ったから? そうか、まだ私は嫌いじゃなかったんだ。好きなままだったんだ、SFのことが。物語が。
「返事を書こうよ」
お新ちゃんが囁いた。従うのは癪だけれど、断る理由もなかった。
私は先週と同じように、文字を書き記した。今度は少し長めに、2行分。
『→「Coulomb's clone」』(クーロンズ・クローン)
『ところで、あなたが読んでいるこの本にも――』