机上の時空論
降りてきた階段とは逆方向へ向かう。あの人がまだ2階でぼうっとしているとも思えないけど、万が一にも顔を合わせたくはなかった。もう一つの階段を選び、再び上の階へ。変な脳内物質が出ているのか、一気に駆け上がっても、あまり疲れは感じなかった。
4階に達したところで、いったん立ち止まる。渡り廊下の先には第4講義室があるけど、その前に確認しておこう。階段に腰掛けて、ファイルを開いた。
あの物置のような第4講義室は、現在、移動教室の時だけ使われている。週に2度、物理と英語表現の時間。放課後に、どこかのクラブが活動場所として使っていることもない。部活動の名残として、教室の後ろにガラクタのような物品が置かれているだけだ。
将棋盤、外国のボードゲーム、文集、ビーチバレーのボール……。
明らかにおもちゃと思われるようなものもあったけど、あれらは、他の部活動が使わない備品を置いた結果ではないか。まさに物置のように、第4講義室を利用しているのではないか。
では、あれは? 一つだけあった、仲間はずれ。
文集。
弥生は言っていた。この高校に文芸部は存在していないと。それは現在の話で、昔は文芸部があったんじゃないか。あの文集の頃には。
そして、第4講義室に文集が置いてあったのは、そこが本来、文芸部の部室だったからではないか。
今更どうしてこんなことを考えるのか、自分でもよく分かっていなかった。だってあの教室が昔にどんな使われ方をしていようが、それが文芸部の部室であろうが、クーロン君に関係があるとは限らないもの。理性はそう訴えているのに、弥生を騙すような真似をしてまで、私は確かめようとしている。言ってしまえば、勘だった。
震える手で、ページをめくる。あった。何年か前の、文芸部の活動申請。活動場所は予想通り、第4講義室。
代表者の名前は――。
講義室の前まで来て初めて、鍵を取り忘れていたことに気が付いた。職員室まで戻るのは面倒だ。
だけど、鍵はかかっていなかった。そっか、ここも補習に使われていたんだっけ。昼からも使うのかな。
だとしたら、急がないと。時間はあまりない。弥生がいつ来るかも分からないし。
少しだけ考えて、私は教室の入り口を、内側から施錠した。
机の間をジグザグに進んで、例の席に向かう。足下がふらついたので、手をつきながら進んだ。そういえば、もうファイルを持っていない。どこかに捨ててきたんだろうか? ここまでの記憶が曖昧だ。
机には、文字が残されていた。
『知りたい 君のこと』
私の言葉。そして、その下にも。
『僕も、君に会いたい』
どくんと心臓が跳ねる。
嬉しい!
クーロン君も、そう思ってくれるんだ。良かった、拒絶されなくて。泣きそうなくらいホッとした。
不思議な心地だった。こうして机に向かい合うのは久しぶりだからかな。また、彼との文通を楽しんでいた。SFを紹介し合った日々。今日はどの作品を書こうか……。そうだ、クーロン君なら知っているよね。この前、映画を観に行ったの。恋愛映画だと思っていたんだけど、なんとSFだった! あなたのことだから、原作もチェック済みなんだろうな。どんな言葉を返してくれるんだろう。
……それは、現実逃避に似ていた。
私は教室の後ろから鉛筆を探し当て、席に着いた。クーロン君の返事の下に、ずっとそうしてきたように、題名を書いた。
『君の下垂体を食べたい』
私は正常な判断能力を失っていた。現実から目を背けたくて、楽しかった記憶にもう一度浸ろうとしているだけだった。そもそも、クーロン君がいつ返事を書くのかは分からずじまいだったじゃない。こんなところで待っていても間抜けなだけだ。
でも、私は待った。じっと机を見つめていた。
心のどこかで、理解していたのかもしれない。
しばらくして、返事が足されていった。……え?
信じられないことが起こった。目の前で、文字が浮かび上がっていく。
まるで、今誰かが、シャーペンを走らせているかのように。
「はは。あはは」
ここにきて、こんなファンタジーみたいなことって、あり? 参っちゃったな。これじゃあ、どれだけ探しても、本人を見つけられないわけだ。見えないんじゃあね。
もしくは。今、ここには存在していないだけか。
そこには、こう書いてあった。
『ごめん、分からない。カニバリズムか?
君はホラーも読むんだね』
頭がくらくらした。あれ、知らなかったの? クーロン君ほどの人なら当然チェックしていると思っていたのに、それにこの間二人で映画、観に行ったよね? いやあれは小松か。
私は、堪らなくなって、次の質問を書き込んでいた。どうしてか分からないけど、こっちのメッセージもリアルタイムで届くはずだ。
やっと、直接聞ける。
『あなたは誰?』
返事は間をおいて、書かれた。丁寧な筆跡で。
『2-3の星埜新』
「お兄ちゃん……」
私は鉛筆を取り落とした。そうだ。さっきも、あまりの衝撃に、階段のところでファイルを落としたんだ。この部屋を使っていた、6年前当時の文芸部部長の名前を見て。
同じだった。
『2年3組 星埜新』
ファイルにも、その名前が書かれていた。
「お兄ちゃんだったのね」
優しく、机の表面を撫でた。自分の座っている椅子をさする。
ここに、お兄ちゃんが座っていた。6年前の今日も。
クーロン君は、お兄ちゃんだったんだ……。
精神状態がまともじゃないからかな。ファンタジーみたいな、まるでSFの設定のような仮説を、私はすんなり受け入れていた。どういう理屈かは分からない。この机は、過去と繋がっているんだ。
しかも、6年前と。まだお兄ちゃんが生きていた時間と。
あはは。
私、おかしくなっちゃったのかな? これは幻覚?
でも、何度見ても机の上には、私が書いた以外の文字は綴られていて。しかも、それは次々と加えられている。私の手には何も書くものはないのに!
『どうやって書いたの?』
『手品?』
『君は誰?』
机の文字は、次々と書き足されていった。文字も少し乱れている。明らかに混乱しているのが分かって、悪いけれど、吹き出してしまった。
これは現実だ。
だって、私は。ずっと前から、壊れていた。
「気付いてしまったんだね」
幻聴がした。
「お新ちゃん。どこ行ってたのよ」
久しぶりに聞かせてくれた声は、どこか沈んでいた。彼は、詰まるところ、私の深層心理の代弁者だ。お新ちゃんがこの事実に驚いていないということは、私は心の奥底では、理解していたのかもしれない。
そうだよね。6年前の人なら、キミスイのことは知らないよね。映画はおろか、原作も発表されていないんじゃないだろうか。
発表と言えば、年間ベストSFに選ばれた『オリンピック』は一昨年の作品だった。6年前なら知ってるはずがないよね。しかも2014年ならオリンピックは冬だよね。羽野くんが大活躍した年だっけ。常識に疎いなんて思っちゃって、ごめんね。
お兄ちゃん。
お兄ちゃん。
今、お兄ちゃんは近くにいる。6年前、放課後にこの窓際の席で、お兄ちゃんは執筆をしていたのだろうか。それとも本を読んでいたのだろうか。知らない誰かとのやりとりに、胸をときめかせたりしていたのだろうか。はは、ごめんそれ私。
遠くに行ってしまったお兄ちゃん。あれほどそばに行きたいと願った人が、すぐそこにいる。机を介したその先に。時間を超えた先で。
生きている。
お兄ちゃんはここではまだ、生きている。
死んではいないんだ。
「苺、大丈夫かい?」
お新ちゃんの声は、聞いたことがないような悲壮な響きを含んでいた。
「どうしてそんなに悲しそうなの? お兄ちゃんがまだ生きているんだよ? これは凄いことだよ!」
だって――何度、願ったことか。
朝、一人で起きる時。
空になった兄の書斎に入る時。
本を読む時。
小説を書く時。
ご飯を食べる時。
夜、また一人で眠る時。
――神様、どうしてお兄ちゃんを死なせたのですか。
――どうして、私を生かしたのですか。
――どうか、代わりに私を。
それが、やっと叶うというのに。
この机が6年前に繋がっている。お兄ちゃんはまだ死んではいない。ということは、3月8日にはなっていない。
まだ間に合う。
私は床に転がった鉛筆を拾い、動揺しているであろうお兄ちゃんに返事を書いた。
『私も2年です
すべてを 直接お話しします』
私は静かに決意を決めた。
今まで死んだように生きてきた6年間の中で初めて、自分のやるべきことを理解していた。これ以上ないくらいはっきりと、道を示された気分。
「苺はそういう道を選ぶんだね」
「そうだよ、お新ちゃん」
何度考えたか分からない。
もしお兄ちゃんが生きていれば。
私では、ダメだったのだ。私は代わりにすらなれなかった。
それも今日で終わりだ。いや、今日という日すらなくなる。私が生きてきたこの6年が、全て無に帰す。それでも、私は選ぶ。お兄ちゃんが生き残る未来、いや、過去を。
こう書けば良いのだ。
「3月8日、土曜日の放課後、ここで待っている」と――。
それは、私を終わらせる言葉になるだろう。
土曜日、お兄ちゃんの命日に、この講義室で会う約束をすれば。彼は絶対にここに来る。こんな不思議な現象があって、彼が興味を惹かれないはずがない。
そこで彼は謎の文通相手に会うことはないだろう。待ちぼうけを食らうはずだ。お兄ちゃんには気の毒だけど、それで、私の目的は果たせられることになる。
お兄ちゃんは電車の時間を一本、遅らせることになる。
私を尾行することも、不注意な私を突き飛ばすこともなくなる。トラックに轢かれることも。
彼は助かるのだ。
「星埜新に事故のことを教える方法もあるよ? 尾行なんてせずに、小学生の苺を事故現場から遠ざけるよう言えばいいんだ」
「それはダメよ」
甘いね、お新ちゃんは。優しいとも言えるか。
「その方法が上手くいけばお兄ちゃんは助かるかもね。でも万が一、あの日の状況が再現されたとしたら、お兄ちゃんは必ず私を助けようとする。たとえその結果、自分の命が失われると知らされていても」
それが、星埜新。私のお兄ちゃんだから。
「デートを止めるよう昔の私に伝えてもらうのも、同じ。その日に何かが起こると勘づかれてしまう。そうなってしまえば、机を通してしか彼と繋がれない私には、もうどうしようもなくなる。
だから、そんな不確実な方法をとるわけにはいかないの。お兄ちゃんが助かる、少しでも可能性が高い道を選ばなきゃ」
それが自分を殺すことだとしても。
お新ちゃんはしばらくの沈黙の後、静かに言った。傷ついたような声だった。
「分かったよ、苺。もう説得はしない。
君にかけるべき言葉があるとしたら、そう……
『喜べ、君は人間だ』」
私はそれを、最大の賛辞と受け取ることにした。
その時、教室の外で声がした。
「苺、どうしたの!?」
弥生だ。続いて、ガタガタと扉を揺する音。鍵を閉めておいて良かった。こんなに早く講義室までたどり着くなんて。勘だろうか。やっぱり弥生は侮れない。
でも、まだ邪魔されるわけにはいかないの。
「早まっちゃだめよ、苺! ここを開けて!」
「星埜!」
小松君もいるみたい。二人して、私が飛び降りるとでも思っているんだろうか? そうかもしれない。わざわざ4階の部屋に立て籠もるなんて、尋常でない。定番は屋上だけどね。学校で一番空に近くて、死に近い場所。まあ、やろうとしていることは、そう変わらなかった。
私は死の一歩手前にいるのかもしれない。
「土曜日に待つ、か――つくづく考えたね、苺。
その言葉を書いたら、そこで歴史は変わる。君が生きてきた歴史は失われ、星埜新が生き延びた世界にシフトする。時空が変容する」
この文字を書いた瞬間、私はこの世界から消えてしまう。11歳で死んだことになる。弥生に会うこともなくなる。
それでも、私は。
パリンという耳障りな音がした。廊下側のガラスが割れたのだ。見ると、小松君が血塗れになりながら、講義室に入ってこようとしていた。
「星埜、さっきは済まなかった。謝らせてくれないか!」
ああ、彼は本当に。私のことを好きなんだね。そんなに、傷だらけになって。
でも君じゃない。
私が好きなのは。
生きていて欲しいのは。
「苺!」
絶叫した弥生に、私は柔らかく笑いかける。
ありがとう、私に声をかけてくれて。
こんな私を好きになってくれて。
胸が、チクリと痛む。
私は机をじっと見つめた。
用意した文面を書くのは簡単だ。視界の端では、小松君に続いて弥生も、開けた窓のサッシを乗り越えようとしている。
鉛筆を握る手に力を込める。
残された時間は、後わずかだ。
よりによって、エイプリルフールに投稿した話の題名があれなのは、ほんま……。
これまでお読みいただきありがとうございました。あと一話です。
どうぞ、最後までお見届けください。




