コロンブスの卵
定期試験が終わった後は、数日間のお休みが設けられている。でもそれは無事に試験を乗り切った人たちだけの話で、赤点を取った生徒には補習が課せられる。
『でも、試験返却は終業式の日だよね。その前にどうやって赤点取ったって分かるの?』
私は一応、補習とは縁がなかったので、それがずっと不思議だった。昨日のデート中、小松君に聞いてみたら、
『個別に連絡が来るんだよ。採点は試験当日か次の日には終わるらしいからな』
『へえ、そうなんだ』
やはり当事者に聞くのが一番だと、妙に感心してしまった。
そんなことを思い出しているうちに、学校に着いた。今はお昼前。補習は午前中で終わるらしいから、そろそろだ。
人気の少ない昇降口で上履きに履き替える。生徒会室の横を通る時、一瞬弥生の顔を見たいと思ったけど、我慢した。今彼女に会ったら、甘えてしまう。自分の決意が揺らいでしまいそうな気がした。
私は深呼吸し、2階へ向かった。すれ違う生徒はいない。補習がある数日の間も一応試験期間だから、部活動はまだ始まっていないのだ。
第2講義室の前まで来ても、静けさが辺りを覆っていた。だけど、確かに中に人がいるのが分かる。紙がこすれる音や、シャーペンを走らせる音がわずかに聞こえてくる。先生の声や、板書の音はない。最後にまとめテストでもしているのかな。
と、チャイムが鳴った。
「はい、そこまで」
先生らしき男の人の声がして、急に教室の中が騒がしくなった。
まずプリントの束を抱えた先生が出てきた。廊下でポツンと立つ私に一瞥をくれて、何も言わずに立ち去っていった。それから、次々と生徒が出てくる。開放感に頬が緩んでいる人、眉間にしわを刻んでいる人。その面持ちは様々だ。
あらかた生徒が立ち去った頃合いで、教室を覗いてみた。数人が談笑しているのみ――そこに小松君もいた。他のクラスのお友達かな。
「え、星埜。どうして」
彼は驚いたようだった。そういえば、肝心の彼に話すのを忘れていた。
「今から、ちょっと時間大丈夫?」
「ああ、いいけど――」
小松君は、そこで周りの友人の笑みに気付き、少し怒ったように「なんだよ」と呟いた。彼らの冷やかしはあからさまなものではなかったけど、私も照れてしまった。
教室に、二人きり。
ついにこの時が来た。
「あのね、私」
まっすぐに小松君を見つめる。彼も真剣な表情になった。深い色の瞳。やや上気した頬。固く結ばれた唇。
するとなんだか見入ってしまって、言葉がつっかえた。えと、えっと。言わなきゃいけないことは単純なのに、思考が遠回りを始めてしまう。あれ。私、どうしちゃったんだろう。こんなに難しいなんて。
たった一言。好き、と伝えることが。
完全に固まってしまった私に対して、小松君は、ふっと微笑んだ。
「分かったよ。じゃあ、こうしよう。
俺がもう一度言うから、それに返事してよ。おっけい?」
補習の後だからか、それとも緊張しているから、小松君は変な言い回しになった。それが可笑しくて、少しだけ緊張が解けたようだった。
私は、こくんと頷く。情けない話だけど、それはとてもありがたい申し出だった。
小松君は胸に左手を当てて、ぐっと握りしめた。数秒の後、すっと息を吸い込むと、ゆっくりと、言葉を吐き出した。
「星埜苺さん。君のことが好きです。付き合ってください」
そして、その手を差し出してきた。視線をまっすぐに合わせながら。
さあ、ここまでお膳立てもらったんだ。後は私だけ。
私は視線を外し、彼の手を見つめた。そして、同じように左手を伸ばす。
差し出してきた、左手に向けて。
腕時計は、着けていない。
――え。
一瞬、時間が止まったような気がした。世界から音が消え、視界がモノクロになる。だけど、それは気のせいで。すぐに五感は復活した。教室の置き時計は秒針の音を響かせているし、小松君の手は昨日繋いだときから変わっていない。
いや。昨日は、逆だった。繋いだのは、確か右手。私の左側にいた小松君。腕時計同士が、コツンと当たって――。
左右が、逆だった。
いつの間にか、鼓動が早くなっていた。額を、冷や汗が伝う。
私は伸ばしかけた左手を中空にとどめていた。震えている。もう片方の手で押さえるけど、震えは止まらなかった。右手で、腕時計のところをぎゅっと押さえつける。
小松君は、そんな私の異変に気付いたようだった。軽く首を傾げている。
私は、やっとの事で、喉から渇いた言葉を絞り出した。
「小松君って、左利きなの?」
彼の答えは、なんてこともないと言いたげに、素っ気なかった。
「ん、そうだけど」
急に地面が揺れたような感覚に襲われた。視界が狭くなっていく。耳鳴りもするようだ。
小松君は、左利きだった。腕時計は右手にしている。
左利き?
たかが、それだけのことだ。なのに、どうしてこんなに気にかかるんだ。
その時私の脳裏に、あの光景が浮かんだ。第4講義室の、私が座っていた机。
あの文通は、机の左端で行われた。最初に、周りをはばかるように、左端ギリギリの所に小さく書いた文字に合わせて、「クーロン君」もその下に文字を続けてくれた。右利きの私はその位置でも問題なく書ける。でも左利きだったら? あんな端っこでは書きづらい。頑張って書けたとして、あえてそうする意味は?
小松君は、私の沈黙を違う意味に捉えたようだった。
「あ、こういう時って右手じゃないと失礼なんだっけ。ごめん、つい癖で――」
「ねえ。一つ確認させて」
言葉を遮る。小松君は気を悪くした様子もなく、いいよと笑った。
私はすぐそばの黒板まで歩いて行く。さっきの補習の板書が所狭しと並んでいる。手頃なチョークを一つ取り上げ、手が震えるのをこらえながら、たくさんの英語が書かれた横に、新たなアルファベットを記していく。
綴りは暗記していた。
『Coulomb’s clone』
「これを読み上げて」
「なんだ、急に」
「いいから」
小松君は数秒後、何かに気付いたようだった。
「ああ、あれか。星埜が机に書いていたやつ」
そして、笑みを浮かべた。
爽やかだと思っていたそれは、急に嫌らしく目に映った。
「『コロンブスの卵』だろ?」




