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机上の時空論  作者: 御法 度
21/24

コロンブスの卵

 

 定期試験が終わった後は、数日間のお休みが設けられている。でもそれは無事に試験を乗り切った人たちだけの話で、赤点を取った生徒には補習が課せられる。

『でも、試験返却は終業式の日だよね。その前にどうやって赤点取ったって分かるの?』

 私は一応、補習とは縁がなかったので、それがずっと不思議だった。昨日のデート中、小松君に聞いてみたら、

『個別に連絡が来るんだよ。採点は試験当日か次の日には終わるらしいからな』

『へえ、そうなんだ』

 やはり当事者に聞くのが一番だと、妙に感心してしまった。

 そんなことを思い出しているうちに、学校に着いた。今はお昼前。補習は午前中で終わるらしいから、そろそろだ。

 人気の少ない昇降口で上履きに履き替える。生徒会室の横を通る時、一瞬弥生の顔を見たいと思ったけど、我慢した。今彼女に会ったら、甘えてしまう。自分の決意が揺らいでしまいそうな気がした。

 私は深呼吸し、2階へ向かった。すれ違う生徒はいない。補習がある数日の間も一応試験期間だから、部活動はまだ始まっていないのだ。

 第2講義室の前まで来ても、静けさが辺りを覆っていた。だけど、確かに中に人がいるのが分かる。紙がこすれる音や、シャーペンを走らせる音がわずかに聞こえてくる。先生の声や、板書の音はない。最後にまとめテストでもしているのかな。

 と、チャイムが鳴った。

「はい、そこまで」

 先生らしき男の人の声がして、急に教室の中が騒がしくなった。

 まずプリントの束を抱えた先生が出てきた。廊下でポツンと立つ私に一瞥をくれて、何も言わずに立ち去っていった。それから、次々と生徒が出てくる。開放感に頬が緩んでいる人、眉間にしわを刻んでいる人。その面持ちは様々だ。

 あらかた生徒が立ち去った頃合いで、教室を覗いてみた。数人が談笑しているのみ――そこに小松君もいた。他のクラスのお友達かな。

「え、星埜。どうして」

 彼は驚いたようだった。そういえば、肝心の彼に話すのを忘れていた。

「今から、ちょっと時間大丈夫?」

「ああ、いいけど――」

 小松君は、そこで周りの友人の笑みに気付き、少し怒ったように「なんだよ」と呟いた。彼らの冷やかしはあからさまなものではなかったけど、私も照れてしまった。

 教室に、二人きり。

 ついにこの時が来た。

「あのね、私」

 まっすぐに小松君を見つめる。彼も真剣な表情になった。深い色の瞳。やや上気した頬。固く結ばれた唇。

 するとなんだか見入ってしまって、言葉がつっかえた。えと、えっと。言わなきゃいけないことは単純なのに、思考が遠回りを始めてしまう。あれ。私、どうしちゃったんだろう。こんなに難しいなんて。

 たった一言。好き、と伝えることが。

 完全に固まってしまった私に対して、小松君は、ふっと微笑んだ。

「分かったよ。じゃあ、こうしよう。

 俺がもう一度言うから、それに返事してよ。おっけい?」

 補習の後だからか、それとも緊張しているから、小松君は変な言い回しになった。それが可笑しくて、少しだけ緊張が解けたようだった。

 私は、こくんと頷く。情けない話だけど、それはとてもありがたい申し出だった。

 小松君は胸に左手を当てて、ぐっと握りしめた。数秒の後、すっと息を吸い込むと、ゆっくりと、言葉を吐き出した。

「星埜苺さん。君のことが好きです。付き合ってください」

 そして、その手を差し出してきた。視線をまっすぐに合わせながら。

 さあ、ここまでお膳立てもらったんだ。後は私だけ。

 私は視線を外し、彼の手を見つめた。そして、同じように左手を伸ばす。

 差し出してきた、()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()

 ――え。

 一瞬、時間が止まったような気がした。世界から音が消え、視界がモノクロになる。だけど、それは気のせいで。すぐに五感は復活した。教室の置き時計は秒針の音を響かせているし、小松君の手は昨日繋いだときから変わっていない。

 いや。昨日は、()()()()。繋いだのは、確か右手。私の左側にいた小松君。腕時計同士が、コツンと当たって――。

 左右が、逆だった。

 いつの間にか、鼓動が早くなっていた。額を、冷や汗が伝う。

 私は伸ばしかけた左手を中空にとどめていた。震えている。もう片方の手で押さえるけど、震えは止まらなかった。右手で、腕時計のところをぎゅっと押さえつける。

 小松君は、そんな私の異変に気付いたようだった。軽く首を傾げている。

 私は、やっとの事で、喉から渇いた言葉を絞り出した。

()()()()()()()()()()()?」

 彼の答えは、なんてこともないと言いたげに、素っ気なかった。

「ん、そうだけど」

 急に地面が揺れたような感覚に襲われた。視界が狭くなっていく。耳鳴りもするようだ。

 小松君は、左利きだった。腕時計は右手にしている。

 左利き?

 たかが、それだけのことだ。なのに、どうしてこんなに気にかかるんだ。

 その時私の脳裏に、あの光景が浮かんだ。第4講義室の、私が座っていた机。

 あの文通は、()()()()()行われた。最初に、周りをはばかるように、左端ギリギリの所に小さく書いた文字に合わせて、「クーロン君」もその下に文字を続けてくれた。右利きの私はその位置でも問題なく書ける。でも左利きだったら? あんな端っこでは書きづらい。頑張って書けたとして、あえてそうする意味は?

 小松君は、私の沈黙を違う意味に捉えたようだった。

「あ、こういう時って右手じゃないと失礼なんだっけ。ごめん、つい癖で――」

「ねえ。一つ確認させて」

 言葉を遮る。小松君は気を悪くした様子もなく、いいよと笑った。

 私はすぐそばの黒板まで歩いて行く。さっきの補習の板書が所狭しと並んでいる。手頃なチョークを一つ取り上げ、手が震えるのをこらえながら、たくさんの英語が書かれた横に、新たなアルファベットを記していく。

 綴りは暗記していた。

Coulomb’sクーロンズ cloneクローン

「これを読み上げて」

「なんだ、急に」

「いいから」

 小松君は数秒後、何かに気付いたようだった。

「ああ、あれか。星埜が机に書いていたやつ」

 そして、笑みを浮かべた。

 爽やかだと思っていたそれは、急に嫌らしく目に映った。

「『コロンブスの卵』だろ?」






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