死にたい
星埜苺。17歳。
生まれて初めて、教室の机に落書きをした。
「うわあ、悪いんだ。怒られちゃうよ、苺」
(別に大丈夫だよ)
たぶん。
ていうか、お新ちゃんだって。授業中でもお構いなしに話しかけてくるくせに。先生の声が聞こえないじゃん。
「どうせ、さっきから上の空じゃないか」
呆れ声を、今度は黙殺してやる。
今日は、2020年1月10日。新学期が始まって、最初の金曜日。
私はいつだって、正しい人間でありたいと思って生きてきた。それは兄によるところが大きいだろう。星埜新。6つ年上の兄は、誠実で優しい人間だった。物語が好きな人だった。幼い私の手を引いて。私にフィクション、それもSFの楽しさを教えてくれた。
兄が亡くなってからは、才能にあふれる、優等生の、兄みたいな人間でありたいと思った。両親もそれを望んでいるだろうと信じてもいた。
あの日、兄のお葬式のあった日、私の前に現れた、兄を名乗る存在。それがお新ちゃん。本当の兄ではないから、お新ちゃん。
「センスあるよね、苺は」
うるさい。
そんなこと、ない。
悲しいかな。非日常も、6年続けば日常になる。小学生だった私は、中学に上がり、兄と同じ高校に入り、あっという間に来年からは3年生だ。さすがに、こんな状況はあり得ないのだと悟っている。死んだ人間と会話できるなんて。兄の魂が私の身体に宿るなんて。
「本当かもしれないだろ? SFならよくあることだよ」
(うるさい)
こりゃ反抗期だな、と肩をすくめた(と、私は感じた)兄を無視する。SF。サイエンス・フィクション。いくらなんでも、こんな非科学的なことがあっていいはずがない。
実際の所は、私は精神異常者なのだろう。自分の中に誰かがいる幻覚を持っているだけのことだ。ただ、まともであるように擬態しているだけで。
例えば、成績は少し良い方だ。
「じゃあ……星埜! これはどっちになる?」
と、先生が、座席表を指でなぞりながら、私を指名した。どっちかもなにも、まず私は質問すら聞いていなかった。
「固定端だよ、苺」
「固定端です」
「正解だ」
と、まあ、こんな感じで。この、所かまわず話しかけてくる兄の亡霊が、今のような調子でほどほどに試験の答えを教えてくれるのだ。
実は入試の時だって。
兄の軌跡をなぞるようにして入学したこの高校で、今年からは最終学年。私はちょっと困っていた。これからはどうしよう。兄の人生というレールは、高2の3月で途切れてしまっているのだから。
本当は、少し期待していた。大きくなって、やがて兄の年齢に追いつけば、何か変わるのではないかと。例えば、時が止まったままの兄の声は聞こえなくなって、私は正常に戻れるのではないかと。この病気は治るのではないかと。
『17歳、おめでとう~』
見事に期待は外れた。誕生日の朝、誰よりも早く私を祝ったのは、私の幻覚。私は狂ったままだった。
「――たい」
さっき書いた言葉を、ぼそりと呟いてみる。一番後ろの窓際の席では、誰にも届かない。思考は渦を巻いて水底に沈んでいく。
机に落書きをしたのは、ほんの出来心からだ。ましてやこんな内容だなんて。
「本当に、そんなこと考えるのは、よくないよ」
お新ちゃんの言葉も、なんだかグルグルと頭の中を回っているようだ。
私が背中を丸めて、周りから気付かれないようにして書いた文字は、机の左端。今にも落っこちそうなところにあって。
それは、手首に刃筋を付けるのと、さして変わらない行為かもしれなかった。
『死にたい』