本当のこと
6年前のことだった。私がまだ11歳の時。もうすぐ小学6年生に進級しようという頃だった。
当時、私は初恋に浮かれていた。淡い恋心。クラスの男の子だった。どんな子だったのかは、もう覚えていない。後からアルバムを見返す機会があっても、誰かは分からなかった。その程度の気持ちだったのかもしれない。なにが私を、そこまで夢中にさせたのだろう。
その日も、今日みたいに二人で出かけていた。忘れもしない。3月8日の土曜日。
途中で、私たちはトイレに行った。その後、待たせていた男の子に駆け寄った。視界に入るだけで胸が弾んでいた。そんな自分に酔っている私がいたんだと思う。とにかく、私は周りが見えていなかった。
周囲への注意はおろそかになっていたところへ、歩道にトラックが突っ込んできた……。
「危ない!」
誰かの声が聞こえるのと、目の前が真っ暗になるのが同時だった。耳をつんざくクラクションの音。鼓膜を引っ掻くブレーキ音。私は全身に衝撃を感じた。息ができなくなっていた。どうやら頭も強く打ったようだった。
私は地面に倒れていた。全身が痛んだけど、かすり傷以上の怪我はしていないようだった。
目の前に、血まみれになったお兄ちゃんが横たわっていた……。
兄は高校の帰りだったの。ちょうど今の私たちと同じ年齢。私を見つけて、突き飛ばしたんだ。
トラックの運転手は、既に亡くなっていた。不整脈だったらしい。朦朧とする意識の中で、咄嗟にブレーキをかけたけど、間に合わなかったんだって。警察の現場検証から、そう結論づけられた。
その人を責める気持ちはない。かわいそうだと思った。
許せなかったのは、自分だった。
私の代わりに、兄が死んだ。
もちろん、誰もそんなことは言わなかった。
『あなたはあなた。そのまま生きればいい』
誰も私を責めなかったし、優秀な兄の代わりを求めたりもしなかった。
だから、私は自分で自分を責めた。
もし、あと少しでも兄が早く帰っていたら。電車が一本でも遅れていたら。歩く速さが違ったら。そもそも、私が、周りも見ずに駆け寄ったりしなければ。もっと注意していれば。初めての経験に浮かれたりしなければ……。
人を好きになんか、ならなければ。
私は自分を強く戒めた。世界は天才を失ってしまった。代わりに残されたのは、なんの才能もない、私。
中学時代は文芸部に入って、小説の勉強をいっぱいした。SF以外のジャンルの本もたくさん読んで、文章の技法もたくさん学んで……。目指したのは、兄の文章だった。大それたことを考えていたの。私に代わって命を落とした兄の構想を、文章にできたらいいなって。そしたら、自分が生き残った意味もあったんだと、信じられるような気がしたから。
でも、結局それは叶わなかった。私には才能なんてなかった。どうしたって兄の代わりにはなれなかった。出来損ないのクローンにすら、私はなれなかった。
だから、分かるでしょ。小松君。
「私に恋なんて、許されない」
じっと話を聞いてくれている。私は言葉が止まらなかった。
「生き長らえるを許されているだけ。私が恋をするなんて、やっぱりおこがましいのよ」
「そんなことない!」
珍しく、小松君が言葉を荒げた。しかし、表情は、裏腹に辛そうだった。
「好きになることが罪なんて考えたらダメだろう。星埜が、そんな、自分を責めることはないんだ」
「兄は私のせいで死んだの! 私が、周りも見ずに、浮かれていたから。小松君には分からないよ!」
言ってしまった。そんなことを突きつけたかったわけではない。彼の知らない過去の話をしても、どうしようもないというのに――。
「なら俺も同罪だよ」
「え」
「俺はそのことに関して、他人ってわけじゃない。
なぜなら、俺もその場にいたから」
私は信じられない気持ちで彼を見た。真剣な顔だ。でまかせを言っているようには見えない。小松君は、その時近くにいた? それは、どういう。
「その男の子は、俺だから」
「え!?」
そんな、嘘。
「嘘言わないで」
「本当だよ。その日星埜とデートしたのも、俺だったんだ」
小松君は、驚くようなことを言った。
「俺、小学校の一時期だけ、引っ越ししていたんだ。星埜の地元に。
事故の後、俺はすぐ転校した。それで、だんだんと忘れてしまったんだ。情けない話だけどさ。
高校で星埜のことを見て、どこかで見たことがあると思っていた。最初はそれだけだった。けど、1月に、机に落書きがあるのを見て。興味を持った。それが星埜だった。
その時に思い出したんだ」
「そんな、そんなわけないよ」
考えもしなかった。小松君があの時の。初恋の人だったなんて。
筒井さんは言っていた。彼は小学校では離れていたと。その時だけ私と同じ町に来ていたのだ。
アルバムに顔が無かったのも、卒業を迎える前に転校したのだとしたら、説明できる。
胸を撃ち抜かれたような気がした。
「本当は俺が守らないといけなかったんだ」
「いや、あれは私が悪くて、」
「誰が悪いとかじゃないよ」
優しい顔で小松君は言った。
「俺も一緒に背負うから」
力が抜けていくのを感じた。ずっと心の奥で張り詰めていた感情が。ほどけていく。
一番言ってほしかったことかもしれない。涙があふれて止まらなくなった。せっかくのお化粧も台無しだろう。ひどい顔になってしまっていると思う。
「ごめん。まだしんどいよな。答えを急かすとか、そんなつもりもないから」
「私こそ……」
涙が溢れて止まらなかった。
さっきまでは心地よかった彼の眼差しが。胸が弾むような優しい声が。一転して、辛いもののように思えた。
「返事、少しだけ待って」
「待つよ。いつまででも」
ずっと真っ暗だった心に、灯がともったようだった。




