私が殺した
ひとしきり盛り上がった後、ふとした瞬間に、目が合った。深い色の瞳。あまりじっくり見ることはなかったけれど、落ち着きがあるんだね。
不思議な感覚だった。目の前に、何度も言葉を交わしたクーロン君がいる。弥生が言っていた通り小松君は、最近ニュースで聞かない日はないオリンピックの話題にも無頓着だった。クーロン君がSF以外の常識には疎いのは、机の文通でも感じていたことだ。
あんまり見つめていたからか、不思議そうな顔をされた。ちょっと恥ずかしくなって、誤魔化すように質問してみる。
「ねえ、去年までの私って、どんな風に見えてた?」
急な問いかけにも、小松君は丁寧に答えてくれた。
「そうだな。正直、あまり楽しそうじゃなかった」
「やっぱり……」
「以前の印象だからな?」
「うん。今は私、すごく楽しい」
心からそう思える。それは弥生や、小松君――クーロン君のおかげ。
「自分の見方次第で、世界は変わるんだなって。なんだ、簡単だったんだ、って。まあ、コロンブスの卵じゃないけどね」
すると、小松君はなぜか可笑しそうに笑った。
「あれ、変だった?」
「いや。やっぱりコロンブスが好きなのかなって」
「うーん、別に好きってほどではないけど……」
そんなこと言ったことあったかな? 一瞬だけ気になったけど、すぐに違和感は消え去った。
小松君は優しい人だ。どこか懐かしいような安心感もある。私の知っている誰かに、似ているような……。
そこでも思い浮かんだのは、兄のことだった。今日は主張が激しい。でもその通りだった。そうだ。小松君はお兄ちゃんに似ているんだ。私が大好きだった人に。
その時、私は確信した。
小松君のことが、好きだ。
会話に生じた少しの沈黙ののち、話題を探すように、小松君は、
「あのさ、机の、あれ」
頬が熱を持つのが分かった。ちょ、ちょっと待って。それを今話すの!?
「待って」
思えば、あそこで交わしたやり取りは歯の浮くような台詞ばかりだった。相手の顔が見えない気安さと、慣れない恋の高揚感のせいで、羞恥心が麻痺してしまっていた。文章にすると、どうしても恥ずかしい言葉遣いになってしまう。むしろそういった言い回しを選んで書いていたところがある。
最初に「死にたい」なんてことを書いてしまった手前、決まりが悪いのもあった。あんな恥ずかしいことをよく書けたものだ。
『知りたい 君のこと』
ああ、思い出すだけで死んでしまいそう。面と向かって話を持ち出されるのは、まだ早い。
「その話は……また今度」
「え、なんで?」
もう! 小松君だってあんな歯の浮くようなことを書いていたくせに。平気なんだろうか。
「だって、恥ずかしい」
それでようやく察したのか、小松も顔を赤くして頭をかいた。
「そっか。そうだよな」
まあ、そんなやりとりにも、心は弾んでいたけれど。
デートは、思った以上に楽しかった。まんざらでもなかった。頬がずっと熱くて、温室の蝶のようにふわふわと。
帰り道。どちらからともなく手を繋ごうとする。私の左手と、彼の右手。お互いの腕時計が当たって、コツンと音を立てた。
顔を見合わせて笑ってから、今度はゆっくり、だけどしっかり、手を繋いだ。痛いほどの存在を、左側に感じて。私は視線を上げられずに、靴の先ばかりを見つめてしまう。
わずかに触れ合った指先から、彼の熱が伝わってきて。心の芯から暖まっていくような気がした。
「俺、好きだよ。星埜のこと」
もう一度、彼はその言葉を口にしてくれた。立ち止まり、目が合う。今度は、不意打ちじゃない。十分に心構えはできていたはずだった。だけど。
急に、言葉が出なくなった。半開きになった口が、すうっと渇いていく。返事はもちろん、頷くことすらできなかった。
『本当に良いのか?』
私の中で、もう一人の私が責め立てる。お前はもう忘れたのか。忘れてなんかいない。平気なのか。全然、平気じゃない。
ずっと閉じ込めていた気持ちだった。誰かを想うということ。それは周りが見えなくなる危険性を、常に孕んでいて――。
金縛りに遭ったみたいになった私の中を、あの日の光景が駆け巡った。
『苺!』
どくん。
私は。
私は、恋に浮かれて。周りが見えなくなって。お兄ちゃんが、叫んで止めるのも聞かずに。あの子に向かっていって。
とても、酸っぱい臭いがする。
気付いた時には、道端にしゃがみこんでいた。身体中のパーツがバラバラに飛んでいきそう。私は胃の中のものを、次々と吐き出していた。呼吸が早い。喉がヒリヒリする。さっき食べたケーキ。映画館で飲んだソーダ。それらがドロドロと、汚く――。
醜い。
私そのものだ。薄汚れた人間。
今日の素敵な体験も、全部、側溝に流れていくような気がした。
小松君は、ぎこちない手つきで、背中をさすってくれていた。私は彼の目を見られなかった。心の準備ができているなんて、とんだ思い上がりだった。
「大丈夫か」
「……ごめんなさい。小松君は悪くないの」
悪いのは、ただひたすら私で。
「6年前の、今くらいの時期にね」
小松君は黙って耳を傾けてくれた。こんなにも優しい彼に、感謝の言葉も言えずに、私は。
そうやって罪を吐き出すことしかできなかった。
忘れもしない。2014年の、3月8日。土曜日。
その日、私は。
「私、お兄ちゃんを殺したの」
ついに、誰にも言わなかったことを、告白した。