レールの先
「今日はいつにも増してルンルンだね」
「まあね」
21日、金曜日。私は久しぶりに、早めに昼食を切り上げ一人で第4講義室に来ていた。今日は筒井さんは「仕事」があるらしく、お昼は別々だったのだ。小松君も別の男子に誘われて食堂へ行くようだったし。
部活の用事だったのかな。思えば、私は彼女たちが何部に所属しているのかを知らない。急に仲良くなったものだから、そういった基本的なパーソナルデータは交換できていなかった。今度聞いてみよう。
さて、そういったことがあっても、私は落ち込んだりはしなかった。まあ寂しくないと言えば強がりになるけど、むしろお新ちゃんの指摘通り、私はワクワクすらしていた。
クーロン君は、チョコを喜んでくれただろうか? 気恥ずかしい気持ち以上に、やはり彼の返事が楽しみだったのだ。
私ははやる気持ちを抑え、いつもの窓際の一番後ろの席に向かった。
どんな言葉を返してくれるのだろう。
でもやっぱり、ちょっとキザだったかな。
うーん、格好付けた言葉を書くのはクーロン君もだし、お互い様かな……。
ジグザグに机の間を進み、最短距離で、目的の位置を目指す。身体の向きを変えるたびに、私の気持ちは揺れ動いた。
だけど。
「……あれ?」
一目見て、異常に気が付いた。
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
『 』
文字は消えていたのだ。 今までの1ヶ月以上のやり取りが、全て無くなっていた。好きな本の名前も、台詞も、クーロン君の言葉も。全ての始まりだった、私の『死にたい』という文字も……。
「うそ。こんなのって」
念のため、周りの机も確認してみた。だけど、落書きのある机は、どこにもなかった。それに、目の前の机の僅かな汚れや傷は、毎週私が見慣れているものに他ならない。
事実は変わらなかった。文字は消えていた。いや。
「あちゃあ、これはやられたね。大掃除があったから」
そうか。消されたんだ。お新ちゃんに指摘され、私の思考が加速する。大掃除。ひどく埃っぽい物置のようなこの講義室も、学期に一度くらいは掃除されているのだろう。どこかのクラスが担当していたのだ。
私は勘違いをしていたのかもしれない。いつまでも、楽しい時間が続くと。
そんなわけない。考えてみれば、もう授業も終わりなのだ。来週からは学期末試験が始まる。今日が、この教室を使う、最後の日だった。
そのチャンスが無くなってしまった。知りたかった。どんな反応を示すか。聞きたかった。絵とはいえ、心を込めて描いたチョコの、感想を。
へなへなと、倒れ込むようにして席に着く。よく見れば、うっすらと黒い汚れが残っていた。滲んだ鉛筆の跡だ。当然、文字と判別できるようなものではない。
「濡れた雑巾で、適当に拭いて回ったんだろうね。そうなると内容は見られていなかった、ってことだから、まだ良かったじゃないか――」
「良くない!」
思わず叫んでいた。
「どこが『良かった』なの!? だって、こんなの」
いずれはこうなる運命だった。あくまでも学校のものだから。そもそも、机に落書きをするのは褒められた行為ではなかったのだ。私が文句を言うのはおかしいかもしれない。だけど、私は喪失感を覚えずにはいられなかった。
こんな、ひどい。残渣を掬うように机を撫でても、指先が黒く汚れただけだった。
クーロン君とのやり取り全てをも、汚されたような。貶されたような気がして。
全て、なくなった。
「苺。落ち着こう?
そんなことはないよ。なくなったりしないよ。苺の言葉も、彼の言葉も」
「……うん」
他人がいない場所だからとはいえ、いささか冷静さを欠いていた。あまりにも子供っぽかったかもしれない。
(ごめん。言い過ぎた)
それだけで、お新ちゃんは許してくれた。その優しさが、時に憎らしくなる。私は深層心理で、自分に甘いらしい。
「ほら。新しい言葉を書けばいいよ。その気になればいつだって見に来れる。クーロン君も同じだ。きっと、また伝わる」
私はふらふらと立ち上がった。廊下に行って雑巾を濡らし、綺麗に机を拭いた。指先がかじかんだけれど、構わない。丁寧に、炭の汚れを拭った。
手を動かしながら、私は頭の中で文章を練っていた。伝えるべきことは決まっている。あとはどんな言葉に乗せるか。
それは、おすすめの本から名言を探し出す過程に、似ているような気がした。
机が乾ききった頃には、もう文章は固まっていた。落書きはいけないことかもしれないけど……使わせてください。あと少しだけですから。
私は、机の左端。ちょうど、最初に言葉を書いたところに、文字を綴った。
あの時は自らに絶望していた。今は違う。私は踏み出そうとしている。
恐れる気持ちはある。不安だ。でも。
たとえレールが無くなっても。今は、その先を信じることができそうなんだ。
鼓動は早鐘を打ち、私の心を揺らし続けた。
『知りたい 君のこと』




