序章・弐
二本の角を額に生やした鹿に似た獣、セグコーンを背負ったオーク族狩人アルネーロは時折足を止めて周囲を警戒しながら妖魔の森を真っ直ぐに突き進んでいた。
その遥か後方では血抜きのために付けられた傷から滴るセグコーンの血を導に後をつける丈太郎の姿があった。
アルネーロの警戒範囲の外から後を追う丈太郎に気づくことなく自身の住まう集落へと急ぐ。
木々を掻き分けニ時間ほど森の中を進み川へと辿り着く。丈太郎が最初に向かおうとしていた川とは別の川だ。その川を越えた先には長い時間を掛けて何度も往復したことで地面が踏み固められてできた細い道があり、アルネーロの歩みが早まった。
後方からアルネーロを追う丈太郎は既にアルネーロの姿を見失っており、傷口から滴っていた二本角ことセグコーンの血も既に抜けきっていてそれを追うのは不可能だった。しかし道を急ぐことを優先したアルネーロはここまでに多くの痕跡を残しており、それを確りと確認していた丈太郎はその痕跡を頼りに追跡を行っていた。
故にアルネーロの歩行速度が上がっても丈太郎はその行方を見失うこともなくゆっくりとその後を追うことができていた。
そして歩行速度を上げてからまた三十分ほどが過ぎると急に森が開けた。森を抜けたわけではなく木々を切り開き先端を尖らせた杭を支柱とした木の柵で森とを隔てた集落が其処にはあった。
「アルネーロ、早カッタナ。シカモセグコーンヲ獲ッテ来タノカ!」
集落の入り口にて番をしていたオークが帰還したアルネーロを出迎えその背に背負われた獲物に喜色の声をあげる。その声を聞き付けたのか集落から数人のオーク達がゾロゾロと姿を現してくる。
「流石ハアルネーロダ、大物ヲ獲ッテ来タナ」
「コンナニ立派ナ角ヲ持ツセグコーンヲ見ルノハ久シブリダ」
「解体場ノ連中ニ伝エロ、アルネーロガ大物ヲ獲ッテ来タトナ!」
次々と掛けられる称賛の声。それに頷きを返しながら獲物を下ろすとそれをすぐ側にいたオークに押し付けるように渡す。
「スマヌ、長ニ報告セネバナラヌコトガアルノダ。コイツハ任セル」
「オオット、危ナイ、急ニ放サナイデクレ。シカシオ前ガ人ニ任セルトハ大事カ?」
「分カラヌ。正直ソノ判断モ付カヌ」
だからこそ急いでいると告げられてセグコーンを渡されたオークが横に退いて道を譲る。
「長ハ大テントニ居ル。西ノ隠レ里カラ客人ガ来ラレテイルノダ」
目的の人物の居場所を告げられて一つ頷くとアルネーロは寄ってきた集落の仲間を掻き分けながら里の中央に張られた大きなテントに近付き、その出入口から中へと声をかけた。
「長、アルネーロダ。急ギ伝エタイ事ガアル」
声を掛けたテントの中で人が動く気配が二つ。
「入レ」
低い声で許可が下りる。
もう一度声をかけてテントの入り口をまくり上げて中へと入る。
テントの中央に設置された囲炉裏に掛けられた鍋から湯気が登りその鍋から柄杓で救ったお湯を急須へと注いでお茶を用意しているのは、鉄のごとき体毛に包まれた巨躯に丸太のごとき四肢を備えた集落一の戦士であり集落の長である十二代目猪戒坊。戦いとなれば自身の身長を越す長大な鉄棍を手に一騎当千の働きを見せ、見た目の通り鉄のごとき体毛で敵の攻撃弾く戦場の盾と称される戦士である。
そんな猪戒坊の趣味が自らの手で育て焙煎した茶を楽しむことだというのだから人の趣向というものは分からないとアルネーロいつも思っていた。
「座レ」
どうやら用意していた茶はアルネーロのための物らしく、空いてる場所に湯飲みと座布団を用意してアルネーロに進めてくる。
「失礼します」
猪戒坊の用意する茶はとても美味く、この集落で猪戒坊から茶を勧められて断る者はいない。それに茶を勧めて来たときの猪戒坊は出された茶を一口でも付けない限り話を聞いてくれないと言うこともありアルネーロは素直に湯飲みに手を伸ばして一口で飲み干した。
「デ、何ガアッタ」
長に尋ねられるがアルネーロは体ごと長の隣に座っていた人物に顔を向けて両手をついて頭を下げた。
「挨拶ガ遅レテ申シ訳ナイ西ノ長様」
そこにいたのは褐色の肌にわずかに尖った耳を持つ女性だった。年の頃は20半ばで銀色の長い髪を後頭部で纏め烏羽色の着物を身に纏っていた。同族である妻を誰よりも美しいと思っているアルネーロであったが、この女性は異種族であるはずなのに彼の雄の部分を惹き付けて止まない妖艶さを漂わせていた。が、一度視線を外して顔を上げてみればその妖艶さは夢か幻だったかのように消え失せている。会ったことは数度しかないがこれもまたいつもの事でありその都度狐にでもつままれた気分にさせられる。
「構いませんよアルネーロ。猪戒坊が茶を出したのですもの、それを置いて私に挨拶などすればどれほど機嫌が斜めになるか分かったものではありませんものね」
着物の袖で口許を隠して鈴を転がすような声で笑う女性は見た目こそ若けれど、この集落より西にあると言う隠里を纏める立場にあり彼が幼い頃元より祖父が物心付いた時には既にこの姿でその地位に就いていたらしく、話によれば三百年は同じ姿を維持しているというある種の化け物のような存在である。
「あら?なにか失礼なことでも思い浮かべませんでしたか?」
「ッ!?ナ、ナンノ事デショウカ!?」
脳裏に浮かんだ情報を慌てて吹き散らして惚けて見せるが、目元で笑みを浮かべながら笑っていない瞳に貫かれアルネーロは蛇に睨まれた蛙のような心持ちにされてしまう。
「アルネーロヲカラカウノハソコマデニシテクレ。ソレト、イクラナンデモソンナ些細な事程度デ機嫌ヲ傾ケナドモウセンゾ」
「うふふ、"もう"ですか。そんな"些細"な事で白鱗童子と殴りあいの喧嘩をした人とは思えない言葉ですね」
「ク、古イ話ヲ………。一体何十年前ノ話ヲシテイル。ダイタイアノ時トテ白鱗ノガオレヲ馬鹿ニシテキタノガ原因ダゾ」
憮然とした表情で反論する猪戒坊に「同じことです」と微笑を向ける。
「さて、アルネーロから急ぎの報告があるようですし、私は席を外しましょうか?」
「イエ、西ノ長様ガイラシタノデシタチョウド良イ、一緒ニ聞イテ頂キタイ」
「女将殿モ一緒ニカ」
猪戒坊と西の長ぼ表情が引き締まり崩していた姿勢をただした。
「妖魔ノ森ニテ常在ラザルモノト遭遇シマシタ」
言葉短にそう告げると二人の眼が細められる。その視線に続けるよう促され自分が遭遇した体験について淡々と客観的に語るアルネーロ。自身の予想や推測のような不確かな者は交えず、ただ実際に起きたことを語る。自身の意見を語るのは問われた時と全てを語り終えたあとに添えるのみ。集落に住まう者全てが徹底していることだ。
さして長くもない報告を終えて二人の反応を伺っていたアルネーロに先に声を掛けたのは西の長だった。
「アルネーロに問います。貴方がそれに仕掛けられたものについてどう感じたのかを語りなさい」
「………ショウシチョウノ鳴キ真似ハ危ウク騙サレルトコロデシタ。モシモ番鳴キノ返シモ完璧ニ模倣サレテイタラ見破レナカッタト思ウ」
「鶏鳴ノ術カ………、ソレモアルネーロヲ欺ケルホドノ精度ノ」
「こちらに来られて間もなかったのでしょうね。それほどの腕ならばもう少し周囲に気を回して観察していれば気づけたでしょうに。おそらくは周囲に気を配れないほど混乱しているのでしょうが、そこは減点ですね」
感慨深げに頷く猪戒坊とは対照的に辛口の評価が西の長の口から成されるが、着物の袖で隠された口許は楽しげに笑っている。
「直グサマ弓ヲ構エテ矢ヲ向ケマシタガ、何カガ周囲ヲ薙イダヨウニ見エマシタ。ソレニヨリ大量ノ木ノ葉ガ舞散リ、ソノ中カラ白イ何カガ俺ノ顔ヲ目掛ケテ襲イカカッテ来タヨウニ見エマシタ。イエ、俺ニハソレガ白イ蛇ニ見エタ。蛇ガ襲イカカッテ来タト思イトッサニ顔ヲ庇ッタ直後ニ、恐ラクハ水ヲ目元ニ掛ケラレ恥ズカシクモソレヲ白蛇ノ毒液ト勘違イシ、悲鳴ヲ上ゲテ尻餅ヲ付イテイマシタ」
「木遁・木の葉隠れの術に陰遁・蛇騙しの術と水遁・飛沫打ちの術ですか。鶏鳴の術が破られたと見るや即座に次の手を続けざまに打ってきたようですね。素晴らしい判断力と評価しましょう。御館様ではこうはいかなかったでしょうね。鶏鳴の術どころかいきなり襲いかかって来るでしょうし」
あの三流は、と毒を吐き出しながら記憶に残る誰かを嘲笑い西の長は視線をアルネーロに戻した。
「私がここにいたのは行幸でしたね。たまには猪戒坊の茶の誘いに乗ってみるものです」
「トナレバヤハリ?」
「えぇ、若様でしょう。森の境を監視する者から侵入者の報せはありませんから」
ご苦労様と労を労いながら西の長が立ち上がりそれに猪戒坊が続く。
「若様を出迎えなければ行けませんね」
「ナラバ遭遇シタ場所マデ俺ガ案内シマス」
一息遅れて立ち上がったアルネーロがそう申し出るも西の長は微笑を浮かべて首を左右に振って歩きだす。
「それには及びませんよ。若様なら既にここに居られるはずですから」
「若様ノ腕前ガオ前ノ話ノ通リナラバ、若様ハ逃走シタト見セテオ前ノ警戒範囲ノ直グ外カラ監視シテイタハズ。情報ヲ報告スル事ヲ優先シタオ前ノ痕跡ヲ追ウコトナド容易イダロウ」
猪戒坊もそれに続いたらて立ち上がるのを見てアルネーロは驚き慌てて二人を見上げる。
「ダ、ダガ跡ヲ追ワレテイル気配ハ………」
「言ッタダロウ?オ前ノ警戒範囲の外カラノ追跡ダ。
例エバノ話ダガ、モシモオ前ト同等ノ腕ヲ持つ狩人ガ獲物ヲ担イダ状態デ移動ヲ優先シタ場合、オ前ニハソノ跡ヲ追ウコトガデキナイト思ウカ?」
「ムッ………」
猪戒坊の問いに声を詰まらせるアルネーロ。集落でも自分の狩人としての実力は上位にあると自負している身としてはそのような問いをされてはできないとは言えなかった。
「とは言えその程度の実力があって欲しいという私達の願望が混じっていることも否定はできませんが。御館様の時は酷いものでしたから」
僅かに身体ごと振り返りながら苦笑してから西の長がテントを出る。それに続き猪戒坊がニメートル半はある巨体を窮屈そうに屈めてテントを出ていくのを見てアルネーロも慌ててその跡を追った。
「ですが本当に、今代の若様は腕がよろしいようで」
テントを出たアルネーロの目に写ったのは、集落の入り口からは外れた森の中へと視線を向ける西の長と、彼女の言葉に同意して同じ方向へと視線を向ける猪戒坊の姿だった。
時を僅かに戻して丈太郎がアルネーロの痕跡を追って川へと辿り着いた頃。枝の上からも確認できる痕跡が川の中へと続いているのを確認した丈太郎は一度その足を止めて川の向かい岸へと視線を凝らしていた。
「飛び石がいくらかあるな。これを辿って向こう岸に渡ったんだろうけど、まだ新しい水の跡が多少残ってるな」
それだけならばさっさと向こう岸に渡って追跡を続けるところだったが、追っていた痕跡のみに視野を狭めていたらまた先の二の舞になるところだっただろう。向こう岸を注意深く観察する彼の目には追跡対象だった獣人の残したものとはまた別の痕跡が写っていた。
「あの獣人、だけじゃない。この先に彼の属する里か村かがあるな。
さしずめこの川は彼らの生活用水ってところか」
川の石を集めて作られた簡単な堰や川岸の低木の所々に通りの多さを示す折れた跡があり、ここが頻繁に使用されていることが窺えた。
「あれからここまで気付かれずに跡を追えたんだし、今さらつまらないミスで見つかりたくないからな」
向こう岸にある幾つかの痕跡を確りと頭に叩き込み、身を隠していた枝の葉の数枚に傷を付けて川下へと移動を始める。
別に追跡を諦めたというわけではなく、向こう岸に痕跡が見えなくなりそこからさらに下ったところで枝を強く蹴り向かい岸から川へと突き出ている太めの枝へと跳び移り、より高い位置にある枝へと登って生い茂った葉々の中に身を隠して枝から枝へと息を殺して再び川上へと移動していく。
「ここだな」
そうして戻ってきた痕跡のある川岸で樹上から目を凝らして細かな痕跡を改めて探しはじめる。それで分かるのはこの川を利用しているのがかなりの人数だということ。それは折れた枝の位置や、地面に付いた複数の足跡から推察できる。ただしその足跡の向かう方向が川と森の奥との二方向のみであり同じ足跡一つとってもその種類は多く、川の向こうで推測した通り相当数が生活する場所が、村や里がこの森の中にあることを予想させる。
「こんな森の中の里か。隠れ里ってやつだな。となると外から来る輩に対する警戒も強いかもしれないな」
この世界について何一つ知らない現状少しでもいいから情報を得たいと考える丈太郎だったが、ここまで来て今さらすぎる気もするがこのまま近づくべきか悩んでいた。
何せ相手訛りが強けれども日本語を話していたのだ。言葉が通じる以上接触して情報を得たいところではあるが相手が友好的であると楽観視する気にはなれない。
リスクを負って接触するべきか、それとも接触を回避して別の場所に移動するべきか。丈太郎の頭を大いに悩ませる。
「はぁ、どっちを選択するにしろ判断材料が足りないんだよな」
大きくため息を吐いて思い出すのは忍とは元来どのような存在か。昨今の製作物では派手な忍法で敵と戦うものばかりだが、本来の忍とは草のもの。乱波、透波、影とも呼び確かに戦闘や暗殺など任務もあっただろうが本質は情報を収集して届けることで、戦闘技術などその為の手段の一つでしかない。
ちなみに昨今の忍者漫画が嫌いなわけではない
「そう、忍の本分は情報収集だ」
判断材料となる情報が少ないならば集めるまでだ。多少のリスクなど、それを犯してこその忍の本文である。
「危険がなんだ、とにかく今は情報が欲しい。
まずは相手を観察して情報を集めてそれから接触するかどうかをを考える」
何をするにしてもまずは情報の収集。この世界についての情報が無い以上必ずどこかで危険を犯してでも踏み込む必要が出てくるのだ。相手の警戒範囲に入り込み情報を収集する程度がなんだというのだ。
「よし、行こう」
そう腹を括って枝を跳び移り、周囲に気を配りながら地上に残る足跡を辿っていく。その移動速度は川向こうでの追跡時のものと比べと非常にゆっくりとしたものだったが、まるでそよ風が通っただけかのごとく枝を繁らす葉をほとんど揺らすこともなく、静かにただ静かに樹上を移動していく姿はまさしく影そのものだった。
そうして枝の上を移動していくことしばらくして、人の足で踏み固められた道の先に開けた場所が見えてくる。
「あそこか」
道と開けた空間とが交差するその場所に大柄な人影があることを確認して足を止める。あいにくと逆光気味で分かるのはシルエットのみだったが、その大きな影に追跡対象の獣人かその同類と見て辿っていた道から脇へと逸れる。
いくら忍んでいるからといってわざわざ真正面から近づく必要はない。それに相手を観察するならばそれに適した場所を探すべきだ。
道無き樹上の路を素早く静かに移動しながら視線を開けた場所へと向ける。そこにあったのは予想よりの僅かに小さな里、いや集落とでも呼ぶべき場所だった。
敷地事態はそこそこの広さがあるものの建っている建造物は木造の小屋と言うには大きな、住居と言うには小さなものが片手で数えられる程度。それ以外は何枚もの毛皮を繋ぎ合わせて作られた大きなテントが二十前後と言ったところか。それが地面に突き立てられ尖った先端を天へと向けたなん十本もの杭でできた壁とも柵とも言えない仕切りに森と区切られた空間に収められていた。
規模から言えば村と呼ぶべきかもしれないが住居らしき物がテントしかなく、その姿は集落と呼ぶのがしっくりと来る。
「あれじゃ暑さは凌げても寒さは最低限しか無理なんじゃ、あぁいや、あの自前の毛皮で寒さに強いのかもしれないな」
視界に映るテントの間を行き来する何人もの獣人たちを見て考えを改める。そこにいたには先に遭遇したのと同じ猪に似た頭部を持った獣人と呼ぶべき人々。
「やっぱり猪の獣人の集落、って感じだな。とりあえずこのまま一周してどこか忍ぶ場所を探、うっ!?」
集落から視線を戻して次の枝へと跳び移ろうとしたところで丈太郎は眉をしかめてそれを止める。表情を険しくしながら水の入ったペットボトルを取り出して跳び移ろうとしていた木の枝から慎重に葉を一枚生え際から摘み取る。そしてそれに鼻を近づけて臭いを嗅げば千切った訳でもないというのにかなり強いが鼻腔を刺激する。葉の芯から葉そのものに降れて少し力を込めればその臭いはより強くなり、それ以上触れないように葉を投げ捨てて臭いが付いてしまった指を水で素早く洗い臭いを取り除く。
「木遁、忍殺し………」
忍術として世間に知られる遁術とは、本来は諜報活動を行う忍が敵から姿を眩まし逃げ延びるための技術の総称である。だが中には戦闘の補助に使えるものや防衛のための術も僅ながら存在する。丈太郎が呟いた木遁・忍殺しもその一つだ。
木遁・忍殺しとは拠点の周囲に触れると強い臭いを発する木々を紛れさせておき、忍び込むために潜むものにその臭いを付着させて発見及び追跡を用意にするための防衛忍術のことで、人間よりも鼻の良い番犬たちに臭いを覚えさせることで早期に侵入者を発見し多くの暗殺や情報の漏洩を防いだ地味ではあるが実績があり殺意の高い術だ。
集落を軽く確認した範囲では番犬はいないように見えたが、そもそも猪が鼻の良い動物だ。猪の頭部を持つ獣人である彼らには必要が無いのかもしれない。
急ぎこの場を離れるべきだと行動に移ろうとする丈太郎だったが、それは少しばかり遅かったようだ。
集落の中心に張られた一番大きなテントの入り口が捲り上げられ、中から三つの人影が現れる。最後に現れたのは彼が追っていた獣人の狩人だが問題なのは先に現れた二人だった。
一人は獣人の大柄な獣人の狩人よりさらに巨大な同種の獣人で、遠くから一目見ただけで自身よりも遥かに腕の立つ実力差であることを肌で感じることができた。もう一人は僅かに耳の尖った人とあまり変わりの無いように見える二十代半ばほどの美女だったが、丈太郎の直感は先の獣人とは比べ物になら無いほどの警鐘を鳴らしていた。
一目見ただけでは実力のほどは分からない。十分に下せる程度の実力のように見えたと思えば、次の瞬間にはとてもではないが叶わぬ力量をも感じさせる。だがそれ以上に視線が離れようとしなかった。離れていても色香を感じさせられるような錯覚。きわめて健康的な青少年である自覚はあるが、それを差し置いても自身の性的な興奮を沸き立たせ、自然と視線を向けて離せなくなるという不自然。思考が甘く蕩けるような錯覚に丈太郎は自身の唇に歯を突き立てていた。
(不味い不味い不味い、この女は不味い、絶対に勝てない。
くそ、これはなんだ。仕草?匂い?色香?どれもが男を誘う蜜のような………、そうだ、以前本で見た、くノ一の、淫遁の術、の、類いか!?)
気付いたときには目があっていた。巨駆の獣人と褐色肌の美女と。
逃げられない。そう感じたとたんに今まで離せなかったのが嘘のように視線を剃らし枝の上で身体を丸める。
全身から吹き出る汗に荒く張る呼吸を抑え、もう一度二人へと視線を向けると視線が吸い込まれるような感覚は無くなっていた。
『どうぞこちらへ』
女性の口が確かにそう動いた。大きく開かれたわけではないがこの位置からでもしっかりとその動きを確認することができた。読唇術でなんと言っているのかを確認すると女性は微笑み踵を返し、獣人の男が背後に控えていた狩人に何事かを指示して出てきたテントへと二人して戻っていく。同じくテントから出てきた狩人は一度目を細めて丈太郎の方へと視線を向けてから集落の入り口へと駆けていった。
圧倒的な実力差のある二人がテントの中へと戻り今なら逃げ切ることはできるかと考えるが、丈太郎はすぐに首を振ってその考えを否定する。存在を知られた以上どうしようとも二人からは逃げ切れないと勘が告げている。彼の師でもある父、正太郎と対峙した時に感じるものと同質の感覚に苦笑して身を隠していた枝の上に立ち上がる。
「腹を括るか」
未だに水をたっぷりと含んだ手拭いの結び目を解いて一閃すると、手拭いに保たれたいた水分が一瞬で吹き飛ばされる。もう一閃すればそれだけで湿っていた布地が乾き、相変わらずの速乾性に笑みを浮かべながら手拭いを畳んで懐にしまう。
再び集落の入り口の方へと枝を渡り、その途中で数本の忍殺しを発見して先に感じた確信を確かなものにする。
「自然に生えたものじゃない、ちゃんと計算した上で植えられている。間違いないここの集落は俺の家と関係がある。親父か、じいちゃんか、その両方か………」
集落の入り口へと続く道へと降り立ち一度大きく深呼吸をする。肺の中の空気を絞りだし一度空にして数秒維持して、二人に規格外との邂逅に動揺していた心を調える。
「蛇が出るか鬼が出るか………」
呟きながら自身が無意識に笑っていることに気付かず、丈太郎は集落の入り口へと歩きだす。
入り口には先の狩人と門番が待っており、門番の方が驚いた表情を浮かべるも直ぐにそれを隠して身を避けて観察する視線を丈太郎へと向ける。
「ツイテ来テクレ」
丈太郎の姿を見て一瞬悔しそうな表情をした狩人が一言だけそう告げて歩きだす。丈太郎は一つ頷いて無言でその後に続いた。