転機
(弱いから、弱いからこんな深夜まで……。)
なんて言うことを深夜特有のテンションで考え始める。
(強ければ、この仕事も定時までに終わったはずだ。強ければ、そもそも上司に残業を強制されることもないはずだ。強ければ、こんな会社にも入らなかったはずだ。強ければ……。)
吸殻が乗り切らなくなった灰皿に、ジェンガのように、そっと新たな吸殻を積む。内心、気付いてはいたが、吸殻の火の粉が無視されたように感じたのか、憤る様に燃え膨らむ。過重な労働の末、冷静な判断という物が少々うるさく感じて、暗いオフィスで鬱陶しいモニターが私を見てくれと懇願してくるのもあって、私は資料の最終確認を優先させた。視線の軌跡にあった時刻表示を流れるように確認する。午前2時40分。背後に睡魔という悪魔が立っている様な気がして、せっかく用意したのに冷えきってしまったコーヒーをすする。その香りが今まで慣れていた灰の香りを一掃した。カップを、ことん、と机に置く音が響く。香りが再び吸殻の山に更新される頃には、斜め読みでのチェックが済んでいた。
(今日は帰ろう。帰って寝て、また明日やればいい。なんたって、帰宅中の俺は最強だ。)
シャットダウンの文字にカーソルを合わせた矢先、ふとマウスに覆い被さる右手に、熱を感じた。露骨に、背筋を冷たいものが走る感覚がした。積み重なった火の粉達は、私の愚行を結束して抗議するように膨れきって、立派な焔へ成長を遂げていた。視界にそれが入った途端、まず消すことを考えた。ここから1番近い水場はこのオフィスの隅にある水道である。灰皿を掴む。
「っつぁ!!」あまりにも熱いからか、一周して冷たく感じて、灰皿を放す。
灰皿は、金属製である。熱伝導でそれすらも、焔の一部となっていた。放たれた吸殻達は、デスクの上で散乱していた。酸素を渇望していた山の内側にいた吸殻が思う存分酸素を吸い込んだようで、焔は、はためきながら人一人では対処出来ない大きさまで膨らんでいく。
(終わった……。明日になったらクビどころか……。)
自分の命の危機よりも、会社員としての自分の危機を心配していた自分が憎かった。消化器を使わなかったのも、そのせいだろう。
(くそ……くそ……。俺は心も弱いのか……消化器を使っていれば……。)
焔は火柱となり天井の溝に流れ込むように燃え広がるのを、私はただ傍観することしか出来なかった。煙は間もなく充満して、息が苦しく感じる頃には、炎で照らされているオフィスも薄暗く見えた。それまで逃げ出さなかったのは、逃げた先の生活の見通しがたたなかったからだろう。誠に残念ながら、この世界は命1つで生き抜けるほど甘くない。助かったところで債務に追われる日々が続く。やがて空気は熱くなり、肺が痛む。決心が鈍り、酸素を求めて窓へ駆ける。足に上手く力が入らず、もつれて倒れ込んだ。
(あぁ……くそ……俺は……弱い。)
景色が、車窓から眺めるように流れていく。目に止まったのは、アニメでみた主人公達である。皆、強くて逞しく、プライドを持って生きている。標本のようなその姿に、弱い私が惹かれるのも当然だ。なかでも異彩を放っていたのは、転生系の主人公。元いた世界を捨てて、新たな世界で生き生きと冒険して、仲間を見つけて、大成する。実に魅力的なプロセスだ。走馬灯とは、過去の記憶から命の危機を脱するためのヒントを見つけるべく見えるものらしい。
ふたたび立ち上がり、ふらつきながら窓へ、ゆっくりと歩き出す。
(あぁ……転生するまで頑張る……かな。)
浮遊感が体を覆い、世界は暗転した。