03. 結論, おわりに
GBOを決行する日が来た。
幸い天候はよく、雲もない夜空の満月を眺められそうだった。いい日だ。
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ホームセンターで購入したコンクリートブロックは、必要な個数をすでに埠頭へと運んだ。
ロープもその脇に置き、ブルーシートで覆ってある。
仮に俺の死体が発見されたとしても、身元が判明しないよう、
免許証やクレジットカードなどを財布から取り出し、はさみで切り刻む。
冷蔵庫に残った生ものと一緒にゴミ袋へ突っ込む。
俺の計画に間違いがなければ、俺の体が海底から浮かぶことはない。
体内ガスの影響で浮かび上がったとしても、そのころにはめちゃくちゃになった水死体のはずだ。
身元が割れなければ、行旅死亡人として俺の死体は処理されるだろう。
PC, タブレット, スマホは、すべて回収業者へと送付した。
到着のメールなどは特に来ないようなので、これで問題ないだろう。
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そろそろ時間だ。
何度も確認した室内を最後に見渡す。
OK、生活痕が残るだけで、俺の生涯を辿れるものは、もう何も残っていない。
服装を確認する。
直近に購入したものではない。たとえ俺の死体が上がっても、
この服から俺の痕跡を辿ることはできないだろう。
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俺は、現金だけが入った財布をポケットに突っ込み、
ゴミ袋を持って部屋を出て、鍵を閉める。
扉の取っ手に、あらかじめ購入しておいた、
十分な量の酒瓶が入ったビニール袋をかける。
集積場にゴミ袋を放り、歩き出す。
近くのコンビニで冷えたビールを3本購入する。
財布の1,000円札で支払い、釣りを募金箱に入れる。
ビニールに入れたビールを提げて街路をふたたび歩く。
いったんアパートに戻る。戸にかけていたビニール袋を持ち上げる。
それなりの値のウイスキー、それなりの度数のウォッカが2瓶、
見繕いに見繕ったツマミ、100均で買ったロックグラス。
十分に酩酊できる量の酒をあらかじめ用意しておいた。
もうこの部屋に入ることは二度と無い。
特に感慨もなく、アパートの階段を下る。
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東へと歩く俺の背後に夕日がある。長く伸びる影を踏みつつ歩く。
愉快なものだ。世界が輝いて見える。
ただしこの輝きは、一切の面倒を振り切ったゆえの輝きだ。
ゆるく潮風が吹く、いい宵だった。
いい気分で埠頭へと向かう。
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徐々に潮騒が大きくなり、そのうち、海岸と埠頭の分かれ道にたどり着く。
さきほど買ったビールを1本取りだし、飲み始める。
ビールというのは、仕事をした後に飲んで美味いのではなく、
いい仕事をした後に飲んでこそ美味い。このビールは最高に美味い。
ビールを飲みつつ、埠頭へと進む。
いつもどおり、周囲には人の気配はない。
飲み終えたビールの缶を潰し、海へ放り投げる。
ビニール袋から新たなビールを取り出し、封を開ける。
日が暮れ、周囲が暗くなっていく。
想定どおりに水平線ぎりぎりに浮かんでいる満月に乾杯する。ここが俺の此岸である。
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ビールをあおりつつぶらぶら歩いているうちに、例の突堤のふもとにたどり着く。
倉庫の前のブルーシートをめくり、コンクリートブロックと
ロープがその場にあることを確認する。問題ない。
空いたビールの缶を潰して海に投げ入れる。
いくつかのブロックで簡易な椅子を組み、またいくかのブロックで簡易な机を作る。
机に、ウィスキー・グラス・つまみを並べる。これが最後の晩餐だ。
そういえば、まだビールが1本あったか。持ち上げるとややぬるくなっている。
まあいい、食前酒というやつだな。栓を開け、一気に飲み干す。
空いた缶を潰して海へと投げる。缶は地面を何度かバウンドし、海に落ちた。
コンクリートブロックの椅子に座る。
上等のサラミ、……スライスする道具がない。まあいい、かじればいい。
上等のオイルサーディン、……箸もフォークもない。まあいい、手でつまめばいい。
ウイスキーを開封し、ロックグラスに並々と注ぐ。
やや水平線の上に出た満月へと掲げる。琥珀色が美しい。
「これでさよならだな」
月に挨拶し、杯を空ける。
美味い。高い酒というのはやはり美味いものだ。
2杯目を注ぎ、一息に空ける。1杯30ml、残り10杯以上は楽しめる。
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牡蠣のオイル漬けの缶詰をあける。
牡蠣は俺の好物の1つだ。1つ手で摘み上げ口に放る。
かみしめるうちに口に広がるオイルの風味と牡蠣の旨みと潮の香りがたまらない。
牡蠣を飲み込みウイスキーをすする。アイリッシュのウイスキーのせいか、非常に相性がいい。
牡蠣の缶詰はもう1缶買ってある。
これは幸運だ。残りの牡蠣とウイスキーは、最後の晩餐に相応しい。
それからじっくり、残ったウイスキーを飲み下す。
時間を気にする必要はなかった。どうせ夜明けまで7時間もある。
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つまみがなくなり、視界が覚束なくなったころ、ウイスキーが空いた。
空瓶とつまみのゴミを海へと投げ捨てる。
そろそろいいだろう。
ふらつきながら、ブロックを2つずつ持っては、突堤の先へと持ち運ぶ。
ウォッカの瓶も開け、1往復するたびにウォッカをグラスに注いで飲む。
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ブロックとロープをすべて突堤の先に運んだ。それから、ウォッカ2瓶とグラスもだ。
すでに視界はぐらついているが、部屋で練習した通りに、また必要な個数分、
ブロックをロープで体に結びつけていく。
ときおりウォッカを飲みつつ作業を進める。
この作業だけは完遂させる必要がある。
どうにもふらつくが、脳の奥にはまだ冷静な部分が残っている。
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すべての準備が整った。
震える手で1本目のウオッカの瓶をすべて空け、空き瓶を海に放る。
ラストのウォッカ1瓶、これを空けたとき、俺はもうこの世界には居ない。
特に感慨もない。先立つ不幸をお許しください、などというフレーズが思い浮かぶが、
しかし、生きたくもない人生を生きる方が、明らかに不幸である。
――少なくとも、人生のある時期においては俺は幸福でした。
そんなもので充分だろう。そして俺は、すべてから解放される。
ウォッカをグラスに開けながらあおりつつ、満月を眺める。
各月齢における月の名前を思い返す。
日食が生じる理由と月食が生じる理由を思い浮かべる。
衛星の動きを説明するケプラーの法則の証明をなぞる。
地球から月までの距離を思い返す。その距離の測り方を思い出す。
月の地表面上での運動エネルギーを計算する。
DNAからアミノ酸のコドンが読みだされる過程を思い返す。
そうか、俺のDNAはここで途絶えるのか。それでいいじゃないか。
ああ、幸せだ。
こういう考えを巡らせることが幸せであるのは、
これ以降の生活が保障されたものだけの特権であると俺は気付く。
あるいは、先のことを考えぬバカ者の特権だ。
「俺はバカだったんだなあ」
コンクリートブロックを撫でる。
「まあ、いまもバカだがな」
くつくつと笑う。
ふと思い出し、ポケットから部屋の鍵を取り出す。
突堤の反対方向に、力の限り投げ飛ばす。
水面に落ちた音も聞こえなかった。
*
すべての酒を飲み切った。GBOは最終段階と言える。
それから15分間ほど、俺は体の力を抜いて、脳にやってくる考えをあまねく受け入れる。
そしてふと我に返る。もういいだろう。
「それじゃあな」
そう呟き、最後の力を振り絞って、すべてのコンクリートブロックを海へ落とす。
張力でロープが切れるのは困る。ブロックを落とすのとほぼ同時に、俺自身も海へと身を落とす。
期待していたとおり、ブロックがロープを引き、俺を海底に引き落としていくのが分かる。
肺に残る空気を吐くとあぶくとなり浮かんでいったが、すぐに見えなくなった。夜の海中は暗いのだな。
呼吸器に海水が満ちていき、意識が遠ざかっていくのを感じる。
これでさよならだ。
グッド・バイだ。
*
痕跡を残すことなく、1人の男は海に沈んだ。