百合心中
戦前、女学校というものが制度化され、そこに通う10代の女学生達は、男のいない環境で、勉学に励んだり、家事・裁縫といった花嫁修業的なことも学んでいたという。
ところで、当時女学校の中で、「エス」という関係が流行していたという。
簡単に言えば、後輩の女の子が先輩の女の子にあこがれを抱くことで発生する、お互いに成長を促すような、精神的なつながりのことだ。(そういえば少し前、そんな設定のライトノベルがあったような気がする)
大半のエスは、学校を卒業すれば自然解消されるようなものだったらしい。
というのも、女学校の目的は、良妻賢母を育成することであり、女学校に通うような良家のお嬢様ともなると、大抵結婚相手が親により幼い頃から決められていて、卒業後もそんな関係にこだわる必要などないからである。
エスの関係は、男のいない閉鎖空間における、代替的な関係。
そしてこれは当事者の中でほほえましい思い出となって、心の箱の中にしまわれ続ける……。
しかし――本気で、相手のことを想い、この関係を継続しようと願う女の子も例外的にいたらしい。
だが当時は、結婚相手なんて親の意向で勝手に決められるようなご時世だから、たとえ異性恋愛だとしてもそれは認められない。まして女同士なんて――。
――好きでもない男と一緒に過ごすのなんてイヤだ!
――あの子と永遠に一緒にいたい!
そう願う少女たちは、時間を止めて今の関係を永遠に続けることを選んだ。
そう……心中を起こし、肉体から精神を解放し、この恋愛が認められない世界を離れていったという。
昔、大正から昭和の女学校について調べることがあって、そのことを知識として持っていた。
相手を巻き込んで死ぬなんて……と当時は思ったけれども、今の私なら彼女たちに共感できるような気がする。
*
次の世界に移動し、以前の世界と同様にうるりの部屋を訪れて、一緒に朝ご飯を食べる。
球技大会も無事優勝し、大活躍した私は帰りのホームルームでクラスメイトからの暖かい拍手を受けていた。
放課後、クラスメイトたちは各々教室を出て行って、残されたのは私とうるりの二人だけになった。
私は窓の外から見える景色を呆然と眺めていた。今日は運動部の活動もお休みで、校庭にはほとんど人はいなかった。
「どしたの、ぼんやりして。もしかして、燃え尽きちゃった? 今日の更紗、すごかったからねー」
私の隣へと並んで立つうるり。
「……ちょっと考え事してるの」
「考え事? 何か悩みでもあるの?」
「うん……」
一呼吸置いてから、隣の彼女へと顔を向けた。
「うるりは、私のことどう思ってる?」
「えっ、どうしたのいきなり。ボクは、更紗のこと親友だって思ってるけど」
「親友……か。じゃあさ、それ以上の関係になりたいって思ったことはある?」
「それ以上って……」
「恋人」
うるりをまっすぐと見下ろす。
「……恋人って。冗談だよね。なんだか今日の更紗、ちょっと怖いよ?」
「冗談じゃないよ!」
大声で叫ぶと、うるりは肩をびくんと跳ねさせた。
「私は親友っていう関係じゃ我慢できない。うるりのことを世界一想っているから、恋人同士になって付き合いたいの! 手をつないで登校したり、デートしたり、キスしたり……」
今度は言葉で、自分の純粋な気持ちを吐露する。
しかしうるりは暗い表情をしてうつむいたまま、
「……ゴメン。ボクは、更紗とそういう関係になれない」
そう言って、教室を飛び出していってしまった。
告白して拒絶される日常。
私はもう、この結果に絶望するようなことはなかった。
だってうるりは悪くないんだもの。世界が悪いんだから。
この告白は、後腐れがないようにしておくための布石。
後は予定通りに、私がうるりを優しい世界へと導いてやればいい――。
翌朝は一人で登校した。いつもは決まった時刻にうるりの家の前で待ち合わせをする約束だけれども、さすがにそうする勇気はなかった。そしてそれはうるりも同じだろう。
そうして一人で教室に入った瞬間――。
ホームルーム前の教室はいつもとてもにぎやかなのに、今朝は驚くほど静かだった。
ちらほら教室の隅で、クスクスと笑い声を上げる子たちもいる。
露骨に、私を指差してくる子もいる。
そして教室前面の黒板を見て、私は全てを察した。
昨日の放課後までは、「3-2 バレーボール 優勝おめでとう!」と色とりどりのチョークで書かれていたのが、今朝は「天川更紗はレズ女」という心ない文章に変わっていた。その周りに、小さな文字で「死ね」「消えろ」とか「ガチ百合」「うるりが可哀想」とか書かれている。
それを見て、私はもはや「辛い」とか「悲しい」といった、正常な感情が湧いてこなかった。
ただ、この世界に対する呆れしか出てこなかった。
昨日の放課後、私が告白した瞬間、おそらく廊下に誰かがいて、こっそりと聞き耳を立てていたんだ。
それがたまたまクラスの中心人物で、もしくはメールとかで中心人物まで伝播して、こういう状況になった。
教室の中で、露骨にニヤニヤしている連中がいた。
二人の取り巻きを囲って、脚を組み偉そうに机に座る女。
私の予想では、彼女――興味がないので、苗字すら分からない――がこのくだらない取り組みの主犯格。
やっぱり……そうなんだよね。
この世界は腐っているんだ。
何も悪いことしていないのに、一方的に糾弾されるんだ。
ちなみに私の机の上には、白い百合の花が一輪咲いていた。
どうもご丁寧に。わざわざこのために買ったのかな?
百合の花は、女の子同士の恋愛を指す隠語であることを差し引いても、好きな花だった。白くて綺麗で、ラッパのような形をした花弁の形が美しいと思っていたから。
そうだ、うるりは――。
教室中を見回すと、彼女がまだ登校していない事に気づく。
もうそろそろ朝のホームルームが始まろうとしているのに、……もしかして今日はお休み?
不意に、腕を何かに掴まれる感覚。
私の目の前で、主犯格と思しき例の名前も知らない女が、にらみをきかせていた。
きっと彼女は、どういうわけか私を恨んでいて、今回の「いたずら」を実行して、泣きじゃくって黒板の文字を必死に消したりということを望んでいたに違いない。でもそんな予定通りに私が動かなかったことにイライラきているのだろう。
「あんたさぁ……」
「うるさい。邪魔」
こんな女どうでもいい。
私は手を振り払うと、きびすを返して、教室を飛び出た。
廊下を駆けて、来た道を戻る。
例の計画は、金曜日に実行予定だった。
この世界の終わりに、私とうるりが華々しく散るつもりだった。
でもこんな残酷で最低な世界に、彼女をこれ以上生かしてはおけない。
うるり、待っててね。
いま、楽にしてあげるからね……!
*
うるりの両親は共働きで、もし彼女がサボりなどではなく、体調不良で学校を休んでいたのならば、家には彼女しかいないはずだった。
インターホンを鳴らして彼女を玄関に呼ぶことも考えたが、玄関で面と向かうのはとても気まずかった。
だから二階の自室からベランダを通って、彼女の部屋に侵入することに決めた。
窓には鍵が掛かっていなかったので、ノックなどもせずそのまま部屋に入る。
するとベッドで横になっているうるりの姿が目に入った。
顔にはほんのりと赤みが差していて、目頭はしっとりと濡れていた。
窓を開ける音で彼女は瞳を開いて、私の存在に気がついたようだった。
「さ、更紗? 学校はどうしたの?」
横たわったまま、うるりは問いかけた。
「それはこっちのセリフだよ。学校にいなかったんだから。もしかして家にいるんじゃないかって思って」
ゆっくりとゆっくりと、彼女が休むベッドへと近づいて行く。
そのたびに心臓が跳ね上がる思いだった。
肩に掛けたスクールバッグが、まるで鉛でも入っているかのようにずしりと重く感じる。
「……ゴメン。ちょっと体調が悪くって。連絡もできなくって」
「連絡……できなかったじゃなくて、連絡したくなかったんでしょ?」
昨日、あんなことがあったから、気まずくって電話でもメールでも連絡しづらかったんだ。
私も彼女と同じだから。
これまでずっと親友としてやってきて、あの告白で関係が壊れてしまって、自ら死を選ぶほどの思いだったから。
掛け布団を剥がすと、パジャマ姿の無防備な姿が露わになる。
体調不良のせいもあってか、今日のうるりはとても弱々しかった。
私は子供を看病する母親のような優しい表情を作って、ベッドに腰掛けた。
「熱、出てるの?」
「……うん。38度弱かな。ちょっと意識もぼんやりしてて、今日はお休みの気分」
顔を紅くしながら、うるりは微笑を浮かべて答えた。
体調が優れない原因は、きっと私だ。私の告白なのだろう。
うるりは優しい子だから、告白を断ったことを真剣に悩んでくれて、それで風邪をひいてしまったに違いない。もしかすると夜も寝られずに、一晩中悩みに悩んでくれたかもしれない。
「あのさ……昨日のことだけど」
うるりが小声で言う。
「うん」
「言葉足らずだったかもしれない。ボク、更紗のことは好きだよ? ……その、恋人同士にはなれないけど、これまで通り友達同士としてやっていけたらいいなって思ってるんだ」
うるりは私を嫌ってなんかいない。むしろ好いてくれている。
それは純粋に嬉しいけれども――でも同時にもどかしくもある。
こんなに近くにいるのに、……決して私のものにはなってくれないんだから!!
「……友達っていう関係じゃ、もう満足できないの」
上半身を素早く半回転させ、ベッドの上に飛び乗ると、そのまま腰の辺りに馬乗りになる。
左肩のスクールバッグに手を突っ込んで、この瞬間のために自宅のキッチンから拝借した刃渡り18cmの包丁を手にして、うるりの頭上に掲げた。
空いた左手で彼女の右腕を押さえつけると、うるりは自身の置かれた状態をようやく判断できたのか、左腕を伸ばして、包丁を手にした私の右手を押さえて、全身をじたばたと動かし始めた。
「更紗!? どうしたの、いきなりこんなことして!? 怖いよ、その包丁……。早くしまってよ!!」
「ダメだよ、うるり。これはね、私たちを新しい世界へと導く、幸せのチケットなんだよ?」
「な、何言ってるの?」
「私、うるりのことが好きで好きで仕方ないの。それでね……何を言っているんだろうって思われるかもしれないけど、うるりへの告白と死を繰り返してきて、ようやく理解したんだ。うるりも私も悪くない。世界が悪いんだって。うるりが私と恋人同士になれないのって、『女の子同士だから』なんだよね? そしてその思想に毒された人たちが、それをバカにして拒絶するからなんだよね? 今朝、学校に行ったらね、教室の黒板には、うるりを好きでいる私を誹謗中傷する書き込みでいっぱいだった。きっと昨日の放課後、誰かがこっそりと私の告白を聞いていたんだと思う。前々から、この世界からうるりを解放してあげなければいけないって思っていたけど、その瞬間私の頭の中で何かがはじけて、一刻も早く世界から飛び立たなければいけないんだって悟った。だから――お願い、一緒に死のう。そして、私たちの関係を誰も咎めることのない優しい世界へと飛び立とう?」
それだけ言って、邪魔なうるりの手を簡単に引きはがす。まるで赤子の腕をひねるが如くだった。極限状態に陥っているから、バカみたいな力が出ているのだと思う。
そして私は彼女の喉元に鋭い刃を勢いよく突き刺した。
彼女の泣き叫ぶ声。
激しく私の体を叩く拳。
そんなものはもう気にもならなかった。
包丁を引き抜くと、ぱっくりと開いた傷口から噴水のように温かい血飛沫が吹き出て、彼女の体もパジャマもベッドも制服姿の私も、傍らのクマのぬいぐるみも、全てを真っ赤に染めた。
必死にもがいていた彼女の動きもやがて停止する。
私は抜け殻となった彼女の唇を奪う。
涙がどっとあふれ出てきて、血だまりに一滴、また一滴とこぼれ落ちていく。
どうして私たちは、こんなすれ違ってしまうんだろう。
ただ普通の女の子として、普通に仲良くなって、普通に恋して、普通に日常を送りたかったのに。
でも仕方ないんだ。
ここはそういう世界だから。
これは私の、呪われた世界から脱出するための頑張り物語なんだから。
自身の喉元へと刃先を突き付けると、ためらうことなく突き刺して、うるりに重なるようにくずおれた。
これで……いいんだ。
これで私たちは救われる。
悲しみのない、優しい世界へ――!