生い茂る青葉――1st Anniversary――
暑い――とにかく暑い。先日まで降っていた雨が上がったのは喜ばしいことなのだが、何も気温まで上がることないじゃないか。お天道様ってのは本当に気まぐれだよな。
車のキーを片手に外へ出た武を、爆発したように強力な太陽が強い光で襲ってきた。
薄手でもジリジリとくる長袖のシャツを捲り上げ運転席のドアを開ける。ムワッとした熱い空気、車内なのに陽炎ができそうだ。ハンドルもシートも鉄板で焼いたのかと思えるくらい熱せられている。カップホルダーには昨日取り忘れたお茶のペットボトルが収まっていたが、どうせ温いであろう中身を口にする気にはなれなかった。
「ん?」
小刻みな振動を感じズボンの右ポケットをまさぐった。取り出した携帯電話がイルミネーションでメールの着信を伝えている。
休日の午前9時、職場には連絡をよこすなと言ってある。昔の同僚なら海の上だろうし旧友はアドレスさえ知らない。車屋あたりか? それとも間違いメール?
発信者を確認すると「千早」。内容は『エアコンが効いたら行く~』
おい。
車内のエアコンが効くまでの間、冷やされた部屋の中で涼しく待っている気か。アクセサリーとしてつけてある温度計は30度を指している。外でこんがり焼かれるか、中で蒸し焼きにされるか選べと言われたような感じだ。
『早く来ないと置いてくぞ』
滴り落ちてくる汗を拭いながら、おとなしく道連れになれとメールを返す。
待っていたのかと思えるほど次のメールは素早くやってきた。
『言うこと聞かないと撃っちゃうぞ♪』
普通なら「あっそう」とでも返しておけばよいのであるが、これが普通でないから困ったものだ。
あまり知られていないのだが、予備役者には制限付きでの帯銃が認められている。そしてデジタル式の金庫に仕舞ってあるシグサワーP220であるが、いくら最新式の金庫でも正しい暗証番号が入力されれば簡単に開いてしまうのである。つまり生活を共にしている妻には敵わない、ということだ。
千早じゃ本当に撃ちかねないしなぁ……
愛車ごと穴だらけにされては困るので、武は諦めてエンジンを掛けた。エアコンを最大にセットしながら車内の熱い空気を逃がそうと窓を開ける。車庫のアスファルトから発せられる熱とエンジンの排熱が混じり合って小さな蜃気楼を作り出しているのを見ると、暖機という言葉がバカらしく思えてきた。
そのまま数分、フロントガラスの前を千早が横切った。栗色の髪を肩あたりまで伸ばし、空色の涼しげなワンピースを着ている。細い左肩からは白色のバッグ、バスケット風のあれは去年の誕生日にプレゼントしたやつだったかな。
「おおー! さすが武、私のために涼しい空間を……」
「そりゃ9ミリ弾でポコポコ穴を開けられちゃ堪らないからな」
千早がシートベルトを締めたのを確認すると、ギヤをニュートラルからローに入れパーキングブレーキのレバーを下した。
結婚式を挙げてから1年――海軍がらみの処理があったり、エレナが突撃訪問してきたり、おかげで家じゅう薬莢だらけになったりとドタバタしていた。おかげで新婚旅行どころか自宅でゆっくりすることもできなかったのだ。
今日はその埋め合わせ、久しぶりになる千早と二人きりのデートである。
甲府南インターから名古屋方面へ。高速道路の壁越しに水の張られた田んぼが見え、水面が太陽光を跳ね返しキラキラと輝いている。斜め前には家族連れのミニバン。目的地が待ち遠しいのか、子供二人が窓から外をキョロキョロと見回していた。運転席から見ることの出来る、小さな休日の風景だ。
「なあ千早……本当によかったのか?」
「ふえっ?」
携帯を弄っていた千早、独特の返事と共に顔を上げる。
「いい思い出があるわけじゃないだろ? あの場所は」
「それはそうだけど……」
あの場所――千早にとって忘れることの出来ない苦い思い出のある場所だ。自分の思いを相手に伝えた結果、すべてを拒否される結末を迎えた。終わりの始まりとなった、あの場所――
「俺は懐かしさがあって提案したけど、千早に苦しい思いをさせてまで行くような所じゃないからさ」
下から響いてくる走行音、一定の大きさを保っているエンジン音、静かだが切り裂くように聞こえてくる風切り音――二人の間にしばらくの沈黙が下りた。
「いいの」
携帯を両手で丁寧に折り畳み、視線を前へと移す千早。
「そろそろ向き合う時だと思っていたから。逃げ続けてきた過去を見つめ返して、これからの事を改めて考えていこうと思うの」
「江口……ごめん、口に出すべきじゃなかったな」
「謝ることじゃないよ。江口君との一件も見直さなきゃならないと思ってる。それに……」
チラッと千早の方を向いた武、武を見つめる千早。一緒だったが二人の視線が重なった。
「私には武がいるから」
ニコッと笑顔を浮かべる千早。冷たくなりかけていた空気が解け武の顔にも笑みが浮かんだ。
「なんだか照れくさいな」
「そう? じゃあ今のナシ~」
「お、俺のトキメキを返してくれぇ」
「あははは」
高速道路を走る車内を笑い声が満たしていった。
中央道から名古屋環状線に入り港明インターで降りたら南へ。高校生の頃、バスと地下鉄を乗り継いでやってきたこの地――名古屋港水族館に二人はやってきたのだ。顔に吹き付けてくる潮風の匂いも、目の前に広がる真っ青な海も変わってはいない。
左手で千早と手を繋ぎ、家族連れで賑わう水族館の入場ゲートをくぐるとーー
「わあ!」
入ってすぐ、目の前の水槽からイルカが二人を出迎えてくれた。見ている内に一頭、もう一頭と細かな泡を纏いながら顔を擦り付けてくる。
去年改修工事を行った際に水槽の配置を一部変更しました――などと書かれた告知を入り口で見たのだが、入ったフロアはメインプールで満たされていた。イルカの向こうには悠々と泳ぐシャチが二頭。白黒のコントラストがプールの中でも映えていた。
「行こう武! こっち!」
なぜかわからないが、千早はひどく興奮していた。さっきまでお腹いっぱいで動けなかったのは誰なのか。
まあ高校生の頃に来たとき、千早は旅行の主催者だった。一生懸命みんなを引っ張ろうと自分の行きたい場所を我慢していたのかもしれない。
今日はその反動かな。
「行くから待てって」
千早の笑顔がまぶしかった。場を和ませるために作り出している笑顔ではなく、心の底から楽しんでいる正真正銘の笑顔だ。子供のようにはしゃぐ千早。我慢してるのに、俺まで笑いがこぼれちまうよ。
小さな手に引かれ薄暗い照明の下を歩いていく武。
南館に入ると、またしても目の前に大きな水槽が現れた。小さなアジから大きなエイまで様々な魚が遊弋している大水槽だ。一匹の大魚のように動き回るイワシ群れ。ゆっくりとカツオらしき魚が突っ込んだと思った瞬間、サッと散開し新たな群れを形成する。
下に目を落とせば、砂に隠れるようにジッとしているヒラメ。サンゴが岩に張り付きユラユラと揺れ動いている。その明るいグラデーションは水槽に色を与えていた。
「これは……マグロ?」
「それはカツオだ」
「これはアジね!」
「いやイワシ……」
狙ってやっているのか、それとも本当に間違えているのかわからないのが千早だ。スーパーでサケと間違えてサンマを買ってくるわ、イクラをニシンの卵と信じ込んでいたりする。食卓に影響するレベルであるから、その辺の常識は備えてくれと時々教え込んではいるのだが……
そのくせイソギンチャクとかホヤだとか魚に見えない動物には妙に詳しかったりする。
「これがハタゴイソギンチャクで、こっちがシライトイソギンチャクよ」
「どっちも同じイソギンチャクだろう……」
肌色というか触手のうごめく生物に対し、残念ながら素人にはまったく見分けがつかない。イソギンチャクだとわかるだけマシな方、ホヤに至っては存在すら知らなかった武なのだ。
水槽の奥に人の姿が見えた。なるほど、どうやら水槽は円柱状になっており対面へ回れるようになっているらしい。向こう側には鋭い歯をしたサメらしき魚の影が見える。
「武! 早く!」
千早の声に振り向く。が、声はすれど姿が見えない。どこへ行ったのかと周囲を見回す。
明るい水槽内を見やすくするため、照明を落とし薄暗くなっている館内。ところどころに水槽内の魚の種類が説明文と共に紹介されており、小学生くらいの男の子が興味深そうに読みふけっている。少し奥には数匹の標本。銀色に輝く魚と紅色が映える魚がスポットライトで照らし出されていた。
「どこ見てるのよー、こっちよ!」
なんだそこにいたのか。テンションも高ければ足も速いやつだな。
標本のさらに奥にある順路の表示、そのすぐ下で千早が両手を振っていた。空色のワンピースが落とされた照明と混ざり合い、明るい藍色みたいな不思議な色彩を作り出している。
「わかったわかった……」
半ば呆れつつ、そして千早の笑顔に安心しつつ武は水槽を離れた。
『ふかーく潜って……ハルカの大ジャーンプ!』
スピーカーから聞こえてくる声、プールサイドで高々と腕を上げる女性の飼育員の声だ。ほぼ同時に水面からイルカが飛び出す。体長2メートルほどで明るい灰色をしたイルカは身体に纏った水で太陽光を眩しく跳ね返し、再びプールの中へと戻っていく。
階段状に設置されたスタンドから、多くのどよめきとパチパチという拍手が送られる。驚きと感心の目でプールを見つめる観客の前へ、もっと褒めてと言いたそうに水面へとイルカが顔を出した。
「人間の言っていることを理解してるんだろーな」
「それじゃあ、言うこと聞かない武より優秀ね」
「俺はイルカより下なのかよ……」
武と千早はスタンド最前列の中央にいた。イルカショー開演時間の一時間も前から並び最前列を確保した二人。苦労の甲斐あって水しぶきのかかるほど近い距離でショーを楽しむことが出来たのだ。
二頭のイルカが飼育員の指示でプールサイドへと上がってくる。ヒレを手首のように使い、クルッと器用に一回転。スタンドに尾ビレを向けこれでもかというくらいの強い力でバシャバシャと水面を叩き始めた。高く上がる水しぶき。水滴が太陽の光を浴びキラキラと輝きながらプールへ、そしてスタンドへ降ってくる。
「わっわっ! イルカさんてば、ビショビショだよ~」
笑いながらタオルを取り出す千早。
よかった。ちゃんと楽しんでくれている。
あの時の千早はスタンドの隅っこに立ち、たった独りで寂しそうにショーを見ていた。イルカ可愛いねと言う相手も、濡れちゃったよ……と笑いあう友達もなしで――
でも今日は違う。
愛らしくこっちを向いているイルカに可愛いという感情を抱き、それを素直に伝えてくる。ビショ濡れになりながらも見せる笑顔は、純粋にショーを楽しんでいる証であった。過去にとらわれることなく、今この瞬間を楽しんでいる千早。
「どうしたの? そんなに濡れてる?」
「え? いや……そういうわけじゃ」
「あー! 武ったら透けてるのを見たでしょ! このヘンターイ!」
「誤解だって!」
タオルを投げつけてくる千早。
立ち見の観客がいるほど混み合っているのに、なんだか誰もいない気がした。どよめきも拍手もただのBGM、世界を構成しているバックの一つでしかない。三頭のイルカが右へ左へジャンプを繰り返し、それをスタンドの最前列中央で武と千早だけが見ている――そんな気がするのだ。
ひときわ大きな水しぶきを上げ、キラキラと輝いたイルカが水面から躍り出た。鼻先から尾ビレの全身を使って三日月を形作りながらの大ジャンプ。数メートルの高さにある赤いボールをチョン、素早く水面下へと戻っていく。
横で、見た!? 今の見たよね!? と興奮しながら呼びかけてくる千早。
ああ見てたよ、まるで俺たちだけに見せているようなジャンプだったな――
楽しい時間は風のように過ぎていった。
二人は車に乗り帰路へついている。後ろには袋いっぱいになるまで買い込んだお土産。千早は橋本さんや晴奈ちゃんにあげるんだと、「名古屋港水族館へ行ってきました」と入っているクッキーを数箱買っていた。どこに行ってきた分かるようにしろとは言ったものの、ここまで分かり易くしなくてもいいだろうに…
「千早」
「ん? なあに?」
「昔のこと――見つめ直せたか?」
暑かった今日も太陽が沈むと同時に落ち着きを取り戻し、車内はエアコンを入れなくても過ごしやすい温度となった。星が瞬く澄んだ夜空、その下には小さな街のネオンサインが赤や黄色や緑色と様々なバリエーションで発光している。そんな夜景を見下ろしながら、車は中央道を走っていた。
「うん……」
しばらくの沈黙の後、千早が口を開く。
「江口君と会って、江口君が気になり始めて、近づこうと色々考えて、告白してみたけど結局突き放されちゃって――」
「……」
「その日から、私はいらない人間なんだって思い始めちゃって、精神的にどんどん追い込まれて――」
千早の声は小さく、しかしはっきりとしていて、心の底から声を送り出しているように聞こえた。普段の活発な千早の声ではなく、まだ静かだった高校生の頃の声だ。
「でも……最後の最後で武に助けられて、死んじゃダメだって言われたみたいで――とっても、嬉しかったんだよ?」
「俺に助けられたって言いたいのか? 千早が飛び……ああなるまで俺は気づけなかった人間だぞ?」
あの日から始まった千早の変化。わかりやすいSOSに気づくことの出来なかった武は、自身に対し少なからず罪悪感を抱いていた。その結果として、千早がマンションから飛び降りる場面を自らの目で見てしまったのだから。
俺がもっと早く気づいていれば、トラウマなんか持たなかったかもしれない……
「それでも最後には……気づいてくれたじゃない」
車はトンネルに入った。黄色っぽいライトが二人の視界を満たす。
「誰もが通り過ぎていく中、武だけは私を見てくれていた。武がいたからこそ、今の私があるの」
トンネルを抜け、再び夜空の下に出た。
だから――と千早が改まる。
「ありがとう、武。そして――これからもよろしくね」
チラッと千早に目を向ける。思った通り、千早も武を見つめていた。
可愛いというか美しく見えた。容姿だけでなく、心も性格もすべてが。小さくて子供っぽくて常に今現在の事しか考えていないような千早から、大人の美しさがほとばしっている。
結婚してよかったよ、千早。やっぱり俺も口に出すことこそ出来なくても千早の目の前なら正直になれるんだな。
武は左手をハンドルから話すと、千早の頭をポンポンと軽くたたいた。
「ああ。俺の方こそよろしくな」 クスッと軽い笑顔で返す千早。
車は甲府市の明るい夜景へと溶け込んでいった――