その関係の名は・・・
パタパタ
ズルズル
夜も深まり、太陽が空を彩っている時よりも少ない人数の衛兵の姿だけが時折見受けられる、静かな王宮の廊下を二つの音が通り過ぎていく。
向かう先は、王宮の奥深く。
うっすらと光が漏れだす、リーグレイ国王の私室の一つに繋がる扉へと、二つの音は吸い込まれていった。
「失礼しま~す。陛下~。アクロ公爵の所の廊下で、立ったまま死後硬直するって器用な事をしていたんで連れてきました~。」
まだ青年には至っていない齢に位置するような、背の低い少年が二度ほど扉を叩き、無造作な所作で王の私室へと入っていく。
その肩には、少年よりも背が高い男が担がれ、その身長差のせいで足を床に引き摺られた状態で運ばれていた。
部屋の中で、部下であり、年の離れた友人でもある宰相や騎士団長など気心の知れた者達で、のんびりと酒盛りをしていたリーグレイは突然の乱入者二人の存在に驚いたが、すぐに担がれている友人の様子がおかしいことを見て取った。そして、適度に消費したアルコールのせいもあり、自分が座っていたソファーへと横たわらせるよう指示を出し、ピクリとも動かないグレンをニヤニヤと見ていた。
「いや、生きてるんなら死後ではないだろ?にしても、何でこんな事になってんだ?」
ソファーにされるがままに寝転がされ、僅かに残っていた正気によって片腕で目元を隠しているグレン。
それを上から覗きこなだリーグレイを始めとする部屋にいた者達。
グレンを運んできた少年は、床を見つめ、垂れ下がった前髪で表情を隠した状態でその様子を見守っていた。
その肩は、小刻みに震えている。
「アクロ公爵の所の夜会で、奥様に浮気容認宣言されちゃったみたいですよ~。マジ受けますよねぇ。」
少年は声も無く笑った。顔を上げれば、そこには面白がっている様子がありありと見て取れた。
「はぁ?何で、そんな事になってんだよ。」
「シシリナ伯の令嬢がメルリナに絡んで…」
寝転んだ状態のままではあるが、問い掛けに答えなくてはという考えを働かせるだけの正気を取り戻したグレンが口を開くが、途中で口篭っていき、リーグレイ達は今いち要点をつかめない。
そこで彼らはグレンを連れて来た、詳細を知っている諜報部隊長である少年に視線を集めた。
「ローズ・シシリナ嬢が愛するグレン様の為に、愛の無い悪妻へ直談判したんですよ。淡々としたメルリナ嬢の反応についつい感極まってしまったローズ・シシリナ嬢がメルリナ嬢の頬を叩き、場を騒がせたとメルリナ嬢は帰路に着きました。」
少年は、自分が見てきた光景を説明する。
メルリナが一人、凛とした佇まいを崩さずに広間から去った後。
去っていったメルリナの姿にザワめく場内の中で、ローズがグレンへ駆け寄り抱きついた事で、そのザワメキはより一層大きなものになった。
「グレン様。私、私…」
何を言いたいのだろうか、ローズはグレンに抱きついた状態で感極まった様子のまま震えていた。
公爵家の夜会で騒動を起こした事を動揺して泣いているのか。
そう思った招待客もいたのかも知れない。だが、一部の近くにいた客がローズの表情を見てしまった。それは、鳥が飛ぶよりも早い勢いで広間中に広まっていった。
頬を赤色に染め、恍惚とした笑顔。それは、メルリナに勝ったという喜びの表情だった。
しかし、それが困惑の表情へと変わるのも早かった。
グレンは、ローズに声をかける事もなく、その体に触れることもなく、隣に立つ主催者であるアクロ公爵に顔を向けると笑顔の無いまま口を開く。
「閣下。妻共々、場を騒がせた事をお詫び申し上げます。私も、失礼させて頂きたく。」
「あぁ、分かっている。姪が迷惑をかけたね。夫人にも私が詫びていたと伝えておくれ。そうだね、詫びの品も贈らねばな。夫人は何か好きなものはあるかね?」
「…妻は花を好みます。華美ではない花が。」
「そうか。では、そう手配しよう。」
そして、にこやかな公爵の目の前で、抱きついたまま、それでもグレンの体から顔を離して、全く自分を見てくれないグレンの様子に困惑の表情を浮かべるローズの肩を押して自分の体から剥がすと、足早に広間を後にした。
「"確かに間違ってはいないわね。政略結婚なんて、そんなものでしょう?"と」
「私はお爺様のご遺言の通りにしてテスラの財産を手に入れたかった。貴方は何かお爺様との約束がおありだったのでしょう?それを果たしたかった。それぞれの家を継ぐ子も生まれましたし、もう義務は果たしました。なので、どうかグレン様。ご自由になさって下さいな。」
そして、廊下で追いついたメルリナに投げつけられた言葉で、グレンは体の自由を失ってしまったのだった。
「何してんだ、お前?」
それが、諜報部隊長の、臨場感溢れる説明を聞いたリーグレイが口から放った言葉だった。
「何、お前?アスランが俺と契約したからには、メルリナと政略結婚とか関係の無い本物の夫婦にようやくなれるって言ってた割りに、全然ダメダメじゃん。そもそも全然、心開かれてないじゃん。」
容赦の無いリーグレイの言葉が、起き上がろうとしていたグレンを貫く。そして再びソファーに体を沈ませていった。
「にしても、テスラ公爵の暴走がここまで尾を引くとは。全然メルリナ嬢に信頼して貰えてないこいつも馬鹿だが、あのクソ爺の暴走にも困ったもんだよ、本当に。孫娘を守りたいなら守りたいって言えば良かったものを。変な誓約書作って押し付けて、んでもってさっさと死にやがって。」
「まぁ、その暴走癖はナナリーも受け継いでたからな。話を聞く限りメルリナ嬢も確実にテスラ公爵に似てるよ。」
リーグレイが悪態をつく。その横で、グレンと同い年、29歳であるリーグレイよりも15も年上の宰相が苦笑いを浮かべていた。
その脳裏に浮かんでいるのは、メルリナとアスランの母であり、亡きテスラ公爵の一人娘だったナナリー・ディル・テスラの姿だった。
可愛らしい容姿に気の強さを表す猫の様な目、さっぱりとした性格、そして公爵家の一人娘という立場で社交界で絶大な人気を誇ったナナリー。宰相とは年の近い再従兄にあたる関係だった。
そんな彼女は、16歳になると家を飛び出し、そして二度と帰ってくることは無かった。
貴族ではない男に一目惚れし、あらゆる計略を巡らせ男を口説き落とし、父の目を掻い潜り逢瀬を重ねた末に駆け落ちをしたのだった。
それを宰相はよく知っている。狭い貴族社会の中で、近しい親族で階級も同じ公爵家の次男であった宰相は、ナナリーの幼馴染でもあった。男を口説き落とす計略に強制的に協力させられた上、駆け落ちの手助けまでさせられた事は忘れられない思い出だった。
「一度、暴走状態に陥ったら周囲なんて見えてないからな。多分、勘違いに勘違いを重ねて、えらい事になってるぞ。困ったもんだ。」
「まぁ、父親に似られても困るがな。父親に関して詳しくは知らんが、アスランやシルディオのようなもんだろ?あんなのが何人も居られたら大変なんてもんじゃないだろ。」
「本当に、何やってんだよ、お前。大事な事だから、二度言うけどな。馬鹿だろ、馬鹿。」
酔っ払い特有の軽口と笑い声が飛び交い、リーグレイが止めの言葉をグレイへと投げつける。
「失礼致します。」
部屋に突然、全身黒尽くめの人物が現れ、諜報部隊隊長に近づき耳打ちする。
「グレン様の所のキール君から、です。奥様は現在弟君方に誘惑され中だそうですよ。っていうか、もう心は決まっちゃったみたいですよ。荷物を纏め始めたんですって。」
ゴンッ
「ッ!!!!!」
ニヤニヤと笑ったまま行なわれた報告。それが終わらない内に、グレンは寝転んでいた体勢から勢いよく起き上がった。
そして、それまで死んだように動かなかったことが嘘のように、グレンの姿は部屋の中から消えていた。
後に残されたのは、額を押さえ苦悶を浮かべるリーグレイと、それを指差して笑っている酔っ払い達の姿だった。
「何やってんの?」
そんな声が部屋に響いた時、真っ赤になった額を晒し、涙を浮かべる目で酔っ払い達を睨みつけるリーグレイの姿があった。
グレンは馬を己の屋敷へと走らせていた。
夜は更け、馬の蹄の音が静かな王都に反響する。
「クソッ」
グレンは馬を駆けながら、後悔に襲われていた。
もっと、メルリナと話をしていれば良かった。
もっと、メルリナと接すれば良かった。
この結婚に関する説明をしても無意味な事は判っていた。だからこそ、アスランが魔法使いになるまでは、と待っていたのだが、それさえも後悔していた。
メルリナが父親に掛けられた魔法など、大金を積んででも魔法使いや魔女に依頼して解かせれば良かったのだ。そうすれば、"魔法使いに関することを忘れる魔法"によって阻害された説明をメルリナにすることも出来た。メルリナの暴走を止めることも出来たのに。
グレンの後悔は止まらなかった。
「ちょっと、まったぁぁぁ」
城で訓練されている優秀な馬は、考え事で頭をグルグルと巡らせていたグレンを乗せ、屋敷へと向かっていた。
だが、その進行は人っ子一人、その影も無い夜道に響いた声によって止められてしまった。
空から響いたその声に、頭を唸らせていたグレンも正気に戻した。
それは聞き覚えのある声だった事も、グレンを正気づかせる一因となった。
一人の青年の姿が空から舞い降り、真っ直ぐに伸ばされた片足が地面に吸い込まれると、馬が進もうとしていた地面は陥没し、周囲にヒビが広がる。
いかに優秀な、調教された馬であろうと、その異様な事態に鳴き声を上げて怯え、グレンを振り下ろすとその場を去っていってしまった。
「シルディオ。」
土煙が治まった中に立っていたのは、メルリナの弟であるシルディオだった。
すぅっ
グレンと目を合わせ、陥没した地面から前に進みヒビが入った上に立つと、シルディオは息を吸いグレンに腕を突きつけた。
「姉さんの所に行きたかったら、俺を倒していけ!」
シルディオの口元は笑っている。
しかし、その目は笑ってはいなかった。
「ってね。ごめんねぇ~お義兄さん。でも、兄貴の命令なんだ。俺、兄貴には逆らえないんだよ。」
知ってるでしょ?
っていうか、俺もちょっと怒ってるし。
魔法使いと戦う時、注意しなくてはいけないものが二つある。
貴族の子弟は一定期間、軍に属し訓練を受ける事を義務付けられている。その時に絶対に教えられる事が幾つかあり、その一つが魔法使いと戦う事態についてだった。
もちろん、グレンも教えられている。
一つは、魔法使いが操る魔法。魔法使いの魔力が尽きるまで降り注ぐ奇跡の数々は、魔法使いの気分によっては、時に国を滅ぼす事もある。
もう一つは、使い魔。
魔法使いが魔法を行使する間や戦いの中、魔法に特化して体術などを苦手とする事が多い魔法使いの身を守る為に存在する使い魔には気をつけろと教わった。
人間を遥かに越える身体能力。他者を篭絡する特異な能力。何より、契約を交わした魔法使いに従順である事。
魔法使いの命令を受け、使い魔だけで国を滅ぼした事例も書物には残されている。
そんな存在が今、グレンの目の前に立っているシルディオだった。
魔法使いの血を引く子供は少ない。
魔法使いに子供が生まれる確立は低いからだ。
低い確率の中で、魔法使いの下に生まれる子供は三つの存在に分かれる。
一人は魔法使いに。
一人は使い魔に。
そして、一人は…
「これでも、俺。アンタの事、割と好きだったんだぜ?かけられてる魔法が全部解けた姉さんと幸せになってくれたらなぁって思ってたんだ。最近だと親父の魔法も切れ掛かってたし、兄貴も一人前になって完全に解ける術を会得してた。何だったら、かけた本人に解かせることも出来た。
なのにさ…。」
シルディオは、ただ立っているだけだった。
それでも、グレンはシルディオから目を逸らす事が出来ない重圧を感じていた。
「アマンダ、メアリー、シルビア、キャリー、セレネ、ナターシャ、ルーシー、ユーナ…」
「待て、それは…」
「姉さん以外に女が居たなんてな。幻滅した。」
「違う!違うんだ、勘違いするな!…まさか、メルリナも知っているのか。」
驚き、落ち着いた様子で首を振っていたグレンは、シルディオが考えている事をメルリナが知っているのかもしれないという事に思い至り、顔を青褪めた。
グレンの様子が、シルディオが知る浮気男がみっともなく言い訳をする姿とは違っている事から、あれ?と首を傾げた。
話を聞いてみようか。シルディオは放っていた殺気を治める事にした。