弟達の望み
「姉さん、安心して。仕事先なら僕がいい所知っているから。」
アスランによって睨まれ固まってしまったシルディオを余所に、アスランは晴れやかな笑顔でメルリナを導いていく。
「本当?」
弟というだけで、疑うという言葉も否定するという行為も考えつかないメルリナは、アスランの言葉を素直に、ただの優しさに溢れた言葉として受け取った。メルリナが期待に溢れた顔を向けるまで、アスランの顔に性質の悪い笑みが浮かんでいたなんて考えもしない。
「うん。給料もいいよ。待遇がいいのは僕が保障する。姉さんの好きな料理とか、畑仕事とかも自由に出来るから。」
メルリナは料理が好きだ。よく、アスランやシルディオにあるだけの食材でご飯を作ってくれていた。今でも、アスランが王都にやってきた時に取った宿や、シルディオの下宿に集まる時には料理を振る舞ってくれた。
そして、畑仕事も好きだった。
街にいる時には小さな空き地で、貧相な野菜を作っていた。今でも、庭の片隅で本人としてはこっそりと簡単な野菜や小さな花を育てている。
「行く。行くわ。アスラン、そこ紹介して!!」
眉をしかめられることなく料理が出来る。誰にはばかることなく畑仕事が出来る。
もう、メルリナの心は新しい仕事先にあった。
「うん。今すぐにでも連れていけるよ。僕の師匠の所なんだ。家政婦を探していてね。ちょっと、この国からは遠いけど、その方がいいよね。」
アスランの師匠だという魔法使いに、メルリナは会ったことはない。けれど、アスランや会った事があるというシルディオの話を聞いていて、全く知らないという訳では無い。
アスランいわく、小手先の魔法が得意な貧乏性魔法使い。
シルディオいわく、ハイテンション地味系親父。
口は悪いが、それを言う二人の顔に悪意は無かった。
だから、メルリナに迷いは生まれなかった。
弟達が信頼する相手は、メルリナにとって無条件に信頼出来る人なのだ。
「えぇ、構わない。」
むしろ、その方がいい。
誰も、テスラ公爵令嬢も、フェルディナ侯爵夫人も知らない、そんな場所にこそ、メルリナは行きたいと願っている。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってね、姉さん。それに兄貴も。」
幼い頃から逆らうなと骨の髄まで教育されている兄。そして、ある事情から逆らい辛い兄。そんな兄アスランから睨まれたからといって、今回は止まるわけにはいかないとシルディオは判断した。
この件に関しては、このまま兄の思うままにさせる訳にはいかないのだ。アスランの判断は、時にはメルリナの幸せの為だとメルリナの意思を無視するように突き進んでしまうことがある。それでは、グレンや国、テスラ公爵と同じになってしまう。そんなものと同じになりたいなんて、シルディオは思わない。
だからシルディオは、敢えて引き留めるような事を口にする。メルリナがしっかりと考えて考えて、自分で選んだのだと納得してから終わらせないと。
「離婚することなんて無いだろ?な、もっと考えなよ。ちゃんと、グレン義兄さんと話をしたの?」
心臓が痛むのを我慢しながら言うシルディオ。
メルリナは、フルフルと首を振った。
「グレン義兄さんって、姉さんの初恋じゃん。初恋の人と結婚出来たんだからさぁ。」
シルディオから見えないように顔を伏せたメルリナ。
シルディオは重たく冷たい空気が胸を突き刺さり、息がし辛くなるのを感じた。
グレン・ヴァン・フェルディナ侯爵は、メルリナにとって初恋の君だった。その事は弟達も知っている。
メルリナよりも5つ歳上のグレン。メルリナは結婚前、彼に会った事が1度だけあった。それは、まだボロボロの服を纏っていた頃の事で、メルリナはグレンに助けられていた。きっと、グレンは覚えていないだろう。そのくらい些細な出会いで、グレンにとっては何てことの無い一時だったのだからと、メルリナは結婚相手として初めて顔を合わせられた時に何の反応も無かった事を、後から笑っていた。あの騎士様にまたお会い出来ただけで嬉しいのだと言っていた笑顔は、何時から消えてしまったのだろうか。
それを知っていながら、それを抉っているのだという罪悪感に、シルディオはズキズキと苛まれていた。
「アズル、カロン、ヒストはどうするんだよ。姉さんだって、可愛くて仕方がないっていただろ?」
アスランの殺意の混じった眼光。
段々と潤んでくるメルリナの目。
二人の視線を浴びながら、汗をダラダラと流しシルディオは言葉を止めたりはしなかった。
メルリナが、必死に子供達の事を忘れようとしている事も分かって、シルディオは言った。メルリナが全てを捨てるのならば、子供達を連れてはいけないし、会うことも出来なくなるだろう。考えないでは駄目なのだ。考えた上で判断を下して貰わないと。
シルディオは姉や兄が大好きだ。
だから、幸せになって貰いたい。
この国に、メルリナの幸せは無いのだと、アスランもシルディオもとうの昔に判断を下していた。"遺言書"だとメルリナが呼ぶものから、メルリナを開放する為の力をアスランは蓄えてきたし、シルディオは生活に困らないようにする為に己が持つ力を最大限に利用して、資金を蓄えた。
時は満ちた。
アスランとシルディオからすれば、そういう事だった。少し、アスランの先走りがありシルディオも驚いたが、まぁいい頃合いだと判断を下す。
「駄目よ。だからこそ、グレン様には幸せになってもらいたいのだもの。
グレン様だって、恋人と一緒になりたいと思っていらっしゃるはずよ。」
バキッ
「こ、恋人?」
シルディオの言葉を否定する言葉がメルリナから出てくるとは思っていた。けれど、予想外過ぎるメルリナの言葉にシルディオは言葉を吃らせた。
そして、シルディオはアスランのいる方から破壊音が響くのを聞いた。
恐る恐るシルディオが横目を向けると、メルリナとか反対側にあるソファーの肘掛を握りしめてヒビを入れているアスランの姿があった。
「そんなのいたんだぁ、あの男。」
シルディオの目には、アスランの周囲を渦巻き始めたどす黒い魔力が写った。
「いや、姉さんの勘違いじゃあ・・・」
別に、グレンを庇おうとはシルディオも思ってはいない。
ただ、国を滅ぼすことも可能な魔法使いの暴走を放っておけはしないだけだ。兄を、書物に残るような『白の魔王』や『無邪気な天災』といった魔法使いや魔女のような存在にしたくないだけなのだ。
それに、暇をもて余した貴婦人達の噂が必ずしも真実だはなく、むしろ嘘であることが多いことをシルディオはよく知っている。
あの男だって、メルリナが知らないこの結婚の本当の意味を理解しているのだ。
そこまで愚かな男だとは思ってもみなかった。
「いいえ。何度も、相手の女性から使いの方がいらっしゃっているのを知っているもの。」
二人の弟達の様子に、涙を湛えた目で決意を決めているメルリナは気づかない。
「アマンダ様に、メアリー様、シルビア様にキャリー様。他にも、色々なお名前を聞いたわ。執事が取り次いで、グレン様がお出掛けになっていかれた。これが恋人でなくて何になるの?」
どれだけの名前を、メルリナは8年の結婚生活の中で聞いただろうか。
「でも、本当の恋人はセレネ様ね。一番、名前を聞いたもの。」
夜中であろうと、溜息をつきながらも屋敷を出て行ったグレンの後ろ姿をメルリナは忘れられなかった。
「うん。なら、仕方ないね。」
「そうだね、仕方ない。」
馬鹿じゃないのか、あの男。
便宜上、義兄と呼んでいた男を心の中で今まで以上に罵りながら、アスランとシルディオは笑顔で頷いていた。