屋敷に訪れた客人
「おかえりなさいませ、奥様。」
フェルディナ家から数時間前に出掛けていった馬車が屋敷に帰り付いた。
出立した時、馬車に夜会へと招待された主人夫妻が乗り込んだ姿を見送った使用人達は覚えている。だというのに、玄関先に停止した馬車から従者の手を貸り降り立ったのは、たった一人、女主人だけだった。その夫である当主の姿は一向に馬車から降りてはこなかった。
異変はそれだけではないことに、まず出迎えの為に玄関ホールへと集まった使用人達の先頭に立った執事が気づいた。
メルリナの頬は赤く腫れ上がり、なんとなくではあるが、それが人の手形のようにも見て取れた。頬だけが赤く染まり、全体的に見れば顔色は悪いように見えた。メルリナが足を進め、煌々と灯る明りの下へ入ると、その色合いを、全ての使用人達がはっきりと見ることが出来た。
メルリナの耳にも届かない程の小さなざわめきが広がっていく。
けれど、誰一人メルリナに駆け寄ろうという者はいなかった。
そんな事を、この女主人か望まないということを使用人達はよく理解していた。
メルリナは、人に弱味を見せることを嫌う。
それが、貴族として恥ずかしいことだからだ。
そう、メルリナは教わっていた。
メルリナが何より貴族であろうとする事を使用人達は知っていた。
メルリナは気取られないようにと注意して、毅然とした態度で実践していると思っている。だが、時折素を覗かせるメルリナの様子を目撃したことのある使用人は多かった。
その様子が微笑ましく、メルリナがそれを望むならばと使用人達は考えている。
それは、本来の主であるグレンから信頼され、多くを任されている執事キールも同じだった。
メルリナに関する些細な事で彼女がそう望むというのなら、主であり親友、乳兄弟であるグレンに報告しないであげようと思うくらいには、メルリナのことを好いていた。
けれど、今目の前にいるメルリナの様子は、彼女が望むような適度な主と使用人の距離、手を出さず見守るだけということを許す訳にはいかない程だとキールは判断した。
覚束ない足下。
赤く腫れあがった頬。
ボーッと何処か遠くを見ているような目。
キールには、何があったのか何となく予想がついていた。それは、当主であるグレンをよく知る古くからの使用人達も同じだった。
フェルディナ家当主グレンは大変、女性に人気がある人物だ。
それは、メルリナとの結婚を経ても衰えることはない。
これまでも出席する夜会でも、メルリナに細やかな嫌がらせや口撃があったとキールは伝え聞いていた。今夜もまた、それが行なわれたのだと考えられた。
何処となくフラついているメルリナが足を進め、玄関ホールをゆったりと歩く。
今にも、倒れてしまうかも知れない。そんなハラハラとした視線を向けられていることに、メルリナは気づいてはいなかった。
だからといって、手を差し伸ばしてメルリナの体を支えようとすれば、弱味を見せてしまったと思い、教えに頑ななメルリナが今まで以上に気を張り詰めさせるようになってしまうのではないかと危惧出来た。
そこで、キールはメルリナの気分だけでも向上させようと、それを成せる切り札を使うことにした。
幸いにも、現在その切り札は丁度この屋敷にあった。
「奥様、アスラン様が御見えになっております。」
「まぁ。本当に?」
キールの目論見通り、メルリナは赤い頬も顔色の悪さもそのままではあるが、その目を大きく見開き、そして輝かせて玄関ホールから先へと足を逸らせようとした。
喜びに溢れ、気持ちを向上させたメルリナは、さっきまでとは比べ物にならない程しっかりとした足取りになっていた。
「あっ!」
執事や立ち並ぶ使用人達を置き去ろうとしたメルリナ。
しかし、数歩前に進んだ所で小さな声を上げて立ち止まった。
「……キール、アスランの所まで案内を。」
どんな事態であろうと落ち着いて、余裕のある姿を見せ付けなさい。
ゆっくりと堂々とした行動を心掛けなさい。
立ち止まったメルリナは、背後にいるキールに向かい、淡々とした声音で案内をするようにと命じた。キールにだけは、メルリナが背中を向けたまま口ずさんでいる言葉が聞き取れた。
それは、メルリナが教えられた貴族の在り方だった。
「こちらとなります。」
キールが先導し向かったのは、屋敷に2つある応接室の内の、私的な訪問者を案内する為の部屋だった。
「アスラン様のお相手を、若君方が務めて下さっています。」
その言葉の通り、辿り着いた扉の向こう側からは幼い子供の大きな声が漏れ聞こえていた。
「まぁ。アスランに、そんな大変なことを」
メルリナには三人の子供がいる。
上から7歳、6歳、5歳の男児。それぞれに付けられた世話役達を毎日疲れ果てさせる程の元気の良さを発揮している。
そんな子供らが客人の相手を勤める。
メルリナは、子供らが面倒を見てもらっているのだろうなと眉をしかめた。
逸る気持ちを抑えきれず。メルリナはキールがノックをして、開け掛けたドアをするりと潜り抜けた。
「アスラン‼」
応接室の中には机を挟んだ大きなソファーが2つ。
片方には三人の子供達。
その向かい側には、赤髪が目を引く青年が座っていた。
メルリナは青年に飛びかかり、その頭を自分の腕の中に抱き締めた。
そこには、貴族らしくと気を張っていた様子など見て取れず、喜びに包まれた無邪気な笑顔が浮かべられていた。
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ねぇ、ご存知?
まぁ、何かしら。
フェルディナ夫人たら、グレン様がお役目で留守にするのをいいことに、若い殿方を頻繁に、しかも何人もお屋敷に招いていらっしゃるそうよ。
まぁ、ふしだらな事。
お可哀想なグレン様。いくら大恩ある方の頼みだからとはいえ、あのような方と結婚させられて…。