一番の原因は言葉が足りない事。
メルリナが荷物を纏めていた、彼女の私室には大きな窓がある。昼中には温かな日差しが差し込み青い空や美しく整えられた中庭を眺めることが出来るようになっていた。
今、その窓から覗くことが出来るのは、黒く荒れ狂っている雨空と時折轟く雷の光だけ。
部屋には雷の轟音と光が、何度も何度も差し込んでいた。
けれど、グレンの腕の中に捕らわれているメルリナも、メルリナを逃がすまいと、それでいて壊さぬようにと力を込めて抱き締めているグレンも、そんな窓の外の光景など目にも耳にも入ってはいない。
好きだ
愛している
幾つもの、愛を示す言葉をグレンはメルリナの耳元で囁き続けた。
メルリナを抱き締める腕は固く、絶対に放さない
屋敷の外がどうなっているのか。何かが起こっているという事をグレンはしっかりと理解している。そうなる原因を掘り当ててしまったのはグレンだ。それが起こることをしているのもグレンだ。
だけど、腕を解くことは出来なかった。
放してしまえば、メルリナは永遠にグレンの前から消えてしまうだろう。
アスランから事前に、国外に連れて行くことになるとは聞いていた。
メルリナが子供達と普通に生活できるようになる為にも、ようやく見つかったという父親の下に行き、魔法を解いてもらう必要がある。それは分かっている。
だが、行ってしまえばメルリナが帰ってこない気がしてならなかった。
多分、その考えは当たっているだろう。
こんな不甲斐ない、誤解ばかりさせる夫の下になど帰ってくる筈もない。
馬鹿だ、と自分でも思う。
それでも今は只、メルリナを抱き締めて、グレンの抱くメルリナに対する愛の全てを、四年間言うことが出来なかった全てを腕の中にいる愛する妻に注ぎ込むことだけが、グレンに出来ることだった。
グレンがメルリナに初めて会ったのは、メルリナが15歳の時だった。形式に乗っ取って最低でもと設けられた半年という期間の後には結婚することが決まっている婚約期間の始まり、見合いの席でのこと。
これからどうなるのかという不安に押し潰されそうな表情をした、5歳年下の幼さを残す少女。無理も無いと、グレンは最初ただ同情したのだ。突然、弟が魔法使いだと判明し、結婚し子供を産めと誓約させられたのだ。しかも、そうと仕向けた祖父はすでに居ない。表向きは病死とされている。メルリナも覚えては居ない。が、テスラ公爵の死は王宮に仕える魔術師によれば、魔法によるものだった。
メルリナに施された、利用しようとする者に対する呪い、そうとしか呼べない魔法はこの時判明した。自力で魔法を打ち破ったアスランの言葉も合わせて明かされた魔法使いの魔法は強力だった。
婚約期間中に、事情を何処かしらか聞きつけて、訳知り顔でメルリナに話かけた貴族は最低でも重度の傷を死ぬまで抱き続けることになる災いを受け、そしてメルリナはその前後の記憶を失った。
何人も、何人も災いを受けて姿を消していった。
何回も、何回もメルリナは一部分の記憶を失った。
そんなメルリナにグレンは、ただ同情だけを持っていたのだ。
それが変わったのは、結婚してから。
テスラ公爵が宛がった家庭教師から教わったという貴族の嗜み、在り方を一生懸命実践しようとするメルリナの凛として、引き締めている姿は綺麗だと思った。
時折見せる、素のメルリナの笑ったり、悲しんだり、喜んだり、失敗したり、不安に思ったり、コロコロと変わって表情豊かな様子は遠くから垣間見る程度ではあったが、可愛らしかった。
夫婦になった後から、グレンの中にメルリナに対する愛は育っていった。
だからこそ、見ていて苦しかった。
誰かに『魔法使い』の事を口にされる度に失われる前後の記憶。
子供達が魔法を暴走させる度に失われてしまう温かで大切な家族の時間。
そして、愚かなグレンが起こしてしまった馬鹿げた失敗によって、メルリナに夫として近づく事も難しくなった四年間。
苦しくて仕方が無かったが、それはグレンに対する罰だった。
甘んじて受けるしか無い。
それでも、それでも、だ。
例え『愛している』と愛を囀り合い、抱きしめ合うことが出来なくとも、それでもメルリナは変わらずにグレンの妻なのだ。
誰か他の男の隣に立っている姿を見る事の無く、グレンにも素直に見せてはくれない笑みをグレン以外の男へ向ける事も無い。
それで、グレンは満足していた。
いや、満足させていた、自分の中にある気持ちを。
けれど、メルリナが自分の下を去ってしまうと思った瞬間に。
グレンは思った。
護るべきものとして教わり、それを自分の役目と、誇りだとしていたのだというのに、もうどうでも良いのだと考えてしまった。
メルリナに思いを伝え抱きしめることで、口付けを送ることで、自分に災いが降り注ごうとも、己が立つ王都に災いが降り注ごうとも、もうどうでも良いのだと。
グエンは腕に力を込めた。
メルリナを絶対に放さないと決意を胸に。
今更、何なのか。
そんな事を今更言われても困る。
メルリナはそう思っていた。
そして、抱きしめてくる夫の固く大きな身体に抵抗を続けていた。
でも、何度も何度も、胸を締め付けられるような声で愛を囁かれた。メルリナの、鍛え上げられたグレンからすえれば、過ぎる程にささやかな抵抗など何の意味も無く、そして耳の近くに吐息を感じさせるグレンの口から放たれ続ける愛の言葉に、メルリナは段々と身体から力が抜けていく感覚に陥っていた。
顔が熱い。多分、今鏡を覗けば自分の顔が真っ赤に染まっている様子を映し出すだろうとメルリナは思う。
そして、見上げたすぐそこにあるグレンの顔が段々とボヤけて見えにくいのは、きっとメルリナも知らぬ間に涙が溢れているから。
メルリナが今まで、隠そう、隠そう、としていた思いが溢れて止まらなくなっていた。
グレンがメルリナの耳に口を近づけ、注ぎ込む言葉の羅列を、ただ嬉しいと思う。
ただ、ただ、歓喜の声が自分の奥底から響いてくるのを感じていた。
抱きしめられた身体の、グレンの身体が触れる場所、グレンの腕が強く宛がわれた背中が燃えるように熱い。
メルリナは極自然な動きで腕を上げ、グレンの背中へと回していた。それは、本当にメルリナにとって自然で、意識もしていない行動だった。
だって、とメルリナは誰とも知れずに言い訳を心の内で叫ぶ。
元々好きだった人なのだ。
その人が誰なのか、名前だけを見せられ、ただ言われるがままにサインした誓約書。
そして、一応世間体を鑑みて用意された見合いの席に現れたのが、グレンだった。
メルリナはあの時の驚きを忘れない。
只一度だけ、メルリナが10歳の時に出会ったグレンにずっと恋をしていた。
もう二度と会うことな無いと思っていた。
だから、それはただの幼い初恋で終わるはずだった。
父が消えた後、周囲の助けを得ながら二人の弟と共に生活を続けていた。助けてくれる人たちに僅かにでも恩が返したいのだとメルリナでも出来る手伝いを探して行なった。家の中のことは自分達で出来るだけしようと洗濯に掃除、料理、5歳と2歳の弟達を何とか先導して行なった。
そんな時に、貧困街の端で見かけたのがグレンだった。
どうしてそんな場所に貴族の子弟であるグレンが居たのかは分からない。けれど、メルリナは汚れた街の中に立つ彼を綺麗だと感じて、目が離せなかった。姿形が綺麗だというのではない。貴族の彼には想像も出来ないだろうゴミゴミと汚い街並みに、人々の暮らしが渦巻く街の中に一人で立ち、恐怖に怯えるでもなく、困惑するでも無く凛と立つグレンの立ち振る舞いが綺麗だとメルリナに思った。父親が消えて必死に立つことで戸惑いから逃げていたメルリナには、グレンが眩しく見えていた。
一度も取り乱すことなく、慌てて駆けつけた身奇麗な大人達と共に街を去っていくその時まで、メルリナはグレンを見ていた。
もう二度と見る事は無いと分かっていたから、目に刻みつけようとただジッと見ることに夢中になっていた。
その後すぐに、メルリナ達の下に祖父が現れ、メルリナ達は王都に連れ去られ貴族となった。
それまで経験した事も無い煌びやかな生活と、貴族としての教育。泣きたくなるような事もある中でメルリナの心の支えとなっていたのは、メルリナ以上の苦労を強いられている弟達の存在と、あの綺麗な人にまた会えるかも知れないという、もしかしてという考えだった。
そして、その願いは叶った。でも、それは最悪な出来事としてだった。
結婚しろ、と命じた祖父が死に、断ることも出来ないまま迎えた見合いの席。
その、結婚することがすでに決まっている見合い相手が、グレンだった。
頭に刻み付けた姿が成長してすっかりと大人になっている姿に、メルリナは驚いた。
そして、そのまま。
何度かの交流の末に、メルリナはグレンと結婚した。
ただ単純に嬉しいと思っていた。でも、それ以上に苦しかった。
政略結婚という言葉を口にして、貴族の良妻をいう仮面を被ってやり過ごさなくては、どうしようもなくなってしまいそうになる。それくらいに、好きだった。近くで接すれば接する程、好きになった。そして、空しさを感じていた。
妻として扱ってくれる事が嬉しかった。
忙しい中でも笑顔を見せてくれる事が嬉しかった。
それでも、所詮は政略結婚だと思うと、申し訳なさを味わった。
三人目の子供を産んだ後には、それまであった夫婦らしい関わりも滅多に無くなり、メルリナは自分の役目も終わったからだと感じていた。
テスラ公爵家とフェルディナ侯爵家。遺言に定められた二つの家を継ぐ子供。三人目は保険という事なのか。あまり関わることは出来なくとも可愛いと思う子供達をそういう風に見ることはしたくは無かったが、確かに遺言から言えばメルリナはしっかりと役目を果たした。
だから、メルリナは何時別れを切り出されてもおかしくは無いのだという思いで、この四年間過ごしてきた。
「愛してる。」「好きなんだ。」「君を失いたくない」
だから今、グレンによって紡がれ続けている言葉に、メルリナはただ喜びだけを感じていた。
こんな風に抱きしめられたのは四年ぶり。
こんな風に言葉で愛を囁かれるのも四年ぶり。
いや、ここまで直球な言葉なんて、初めてでは無いだろうか。
ただ、これだけの事で今までの苦しみが消えて、喜びだけが心の中に溢れてくる。
ちょろいよ、姉さん。
そんな弟達の声がメルリナには聞こえてきた気もした。
でも、メルリナはグレンの放つ言葉の数々を信じたいと思ってしまったのだ。
それだけで嬉しいと思うくらい、メルリナはグレンが好きだったのだ。
「グレン、様。」
「メルリナ。」
雷の光が、二人の目と目が合わさった顔を照らす。
「好きだ。愛している。何処にも行かないでくれ。」
「愛しています、ずっと、貴方を。だから、どうか御傍に置いて下さい。」
言葉も同時。
そして、二人の顔が近づいて重なり合う。