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紅い傘

作者: 騨篠穂

もしかしたら、あの青年に会ったのも必然だったのかもしれない。


太陽が海から出ていない、あたりがまだ薄暗い時間だった。


汚れのない真っ白い和服を纏い、鮮血のような紅い(からかさ)をさして座っている青年を見つけたのは。


そんな時間に一体私は何をしていたかと問われると、実に返答に困るものである。


恥ずかしながら、未だに太陽が海から出てくるところを見たことがないのだ。


友人が言っていた、水中からまるで間欠線のように蒸気を立てながら昇る太陽を、人生で一度くらいは見てみようと、海へ出るため川岸を歩いていたのである。


その時に青年に出会ったのだ。


橋の柱に背をもたれて座っている彼に。


 おはようございます。本日はとても良いお日柄ですね。


とても魅力的な彼に惹かれ、ついつい声を掛けてしまった私に、


 えぇ、本当に。満月が三つも出ているなんて、今宵はきっと良いことが起こるんでしょうね。


と青年は優しく返事をしてくれた。


 宜しければ、少しの間ご一緒しませんか?この傘は私一人には大き過ぎますから。


傘を右の肩から左の肩へ掛けなおし、いかがですか?と言う青年に御礼を述べて、私も隣に座らせてもらう。


地面に敷かれた落ち葉のクッションを尻に敷き、彼の隣に肩を置く。


言い忘れていたが、この川沿いには紅葉の葉が敷き詰められている。


昔は川の中央にも紅葉の樹がいくつも立っていたと聞くが、私が生まれる前の大増水で、土砂と一緒に持って行かれてしまったらしい。


流れる紅い絨毯もまた絶景だったと言われているが、いかんせん実物を見たことがない私にはそれが一体どのような光景だったのか皆目見当もつかないのである。


今では川沿いの紅葉のみが残り、こうした固定絨毯を提供してくれるというわけだ。


それはそれで有り難い話ではないか。


散ってしまった後も、こうして他人の役に立てる存在というのは、なかなか私は気に入っている。


それにしても、この青年、こんな距離で見てもその美しさは相変わらずで、特にその衣裳が彼を一層際立てていた。


和服に傘。


今では博物館の展示室でしか見受けられないと思っていたが、こうして実物を間近でみると、なんとも趣深いところがある。


普段着とはとても呼べないが、彼に至ってはそれがごく自然、ごく当たり前にさえ思えてくる。


違和感というものが何もない。


いやはや、ここまで完璧に着こなされてしまっては、隣で囚人服を来ている私こそが不自然な存在であるかのように思えてしまう。


それ程その衣裳は彼に合っていた。


懐から煙管筒を二本取り出し、一本どうですか?と問う彼に、私は首を縦に降り、その内一本を手に取って中を確認した。


それもやはり旧式のものではあったものの、煙管というものはどうも時代の流れに乗るには適していないらしく、旧式だろうが最新式だろうが特に目新しい変化はないようである。


あの形状が故に、流れに乗ろうとしても浸水してしまい、即座に川底行きというのが私の思うところである。


誰にでも、何にでも、得手不得手というものは存在する。


煙管に限った話ではない。


だから私は、それでこそ私はそれはそれでいいと感じているし、それを諌めることもないのである。


彼からマッチを一本もらい、刻み煙草に火を点ける。


一、二回、共に煙を吹かしていると、そういえば、どこか行く宛があったのでしょう?引き止めてしまって御迷惑ではなかったですか?と彼は問うた。


 いえいえ、ご心配なさらずに。恥ずかしながら、私はこれまで一度たりとも日の出というのを目の当たりにしていないのです。それが故に、本日こそはと思ってのことで、時間はまだたっぷりとありますよ。


 そうでしたか。こちらもまだ一度しか見ていないんですよ。その身では何も語れないのですが、やはり一度はご覧になることをお勧めします。この世のものとは思えない程の絶景ですよ。


もっとも、海をこの世と定義できるかは怪しいところですけれど、と言って、彼は小さく微笑んだ。


私は正直驚いてしまった。


私よりは一世代程若く見えるこの青年が、既に日の出を目にしているという事実に。


確かに私の年で未経験というのも物珍しいが、それにしたって彼程の年齢で経験しているというのは異例中の異例ではないだろうか。


あまりに感嘆してしまい、失礼なことに言葉が口から零れてしまった。


あ、すいません、と、急いでその言葉を拾いながら謝る私に、いえ、いいんですよ。大抵の人はそういう反応をするんです、と、これまた僅かに微笑みながら彼は言うのだった。


私の記憶の海に、かつてこれ程までに爽やかな好青年が居ただろうか。


私はいないと断言できる。


居たとしても、その人は既に海の底だ。


これも私の悩みの一つなのだが、私の記憶に割り当てられた海というのがこれまた結構深いところで、少しでも沖に出てしまうとすぐさま海底行きなのである。


私もいくらか注意はしたが、人間というのは好奇心の生き物で、すぐに冒険をしたがるのだ。


おかげで私の記憶の海は過疎化が進んでしまっている。


浅い海を手に入れた人は羨ましいと思うのは私の嫉妬心からなのだろうが、それでもこの感情がそこまで醜いものとも思わない。


切望とはいつでも清々しいものなのだから。


それはそうとして、この好青年は一体ここで何をしていたのであろう?


稀に見る衣裳を身に纏い、紅い傘をさしながら座っているこの青年に、一体どのような目的があるのだろうか?


私は度重なる失礼を承知しつつも、思っていることをそのまま口にした。


 失礼は重々承知ですが、そちらは一体何をなさっていたのですか?お見受けするところ、誰かを待っているようですが。


私の言葉に意表を突かれたという顔をした青年は、えぇそうです、よく分かりましたねと、あっさりことを認めた。


 誰か、お友達でも?


 いえ、私が待っているのは人ではありません。私は冬を待っているのです。


 冬を?冬といいますと、春夏秋冬の冬ですか?


 はい、その冬です。


もしかしたら、あからさまに訝しげな顔をしてしまったかもしれない。


それを気にする風もなく、彼は言葉を続けた。


 私は今まで一度たりとも冬を体験したことがないのです。見えないとは思いますが、私は今年で4296回の春夏秋を迎えました。けれど冬に限っては、一向に待てど、一度も迎えたことがないのです。


彼はそう言ったが、私は4296回迎えたという言葉の方に心を持っていかれてしまった。


その言葉は、即ち、彼が4296回年を迎え、4296の歳月を生きたということになる。


これに驚かずして一体何に驚くのか。


私の祖父でさえ1652年で終わりを迎えたというのに、彼の過ごしていない冬の歳月を抜きにしたって、彼は祖父の二倍程もの歳月を過ごしていることになる。


どうして生きていられるのかさえ、それはヴェールの内側である。


 何故、そんなに長生き出来るのです?


 さぁ、それは私にも明確にはわかりませんが、多分私は冬を迎えなければ死ぬことが許されないのでしょう。


 そう思われているなら、何故冬を待つのですか?


私は疑問をそのまま投げ掛けた。


 冬は厳しく、辛いものです。死というものは私にしたって体験したくない類のものですし、何より全てが終わってしまう。それを踏まえて、何故そう辛い方へ身を運ぶのですか?私には理解し難いです。


私の言葉に、それもそうですねと答え苦笑する。


 けれど、人という生き物は、自分にないものを欲します。たとえそれが苦しみでさえ、早かれ遅かれ、いつかは求めてしまうものです。


 そういうものですかね。


 そういうものですよ。


私はその境地に辿り着けていないけれど、私の数倍数十倍生きている彼が言うのだからきっとそうなのだろう。


 私にはよく分かりませんが、一つだけ言えることがあるとすれば……


そう言いかけた時、どこからか凄まじい音がした。


辺りが一瞬にして明るくなり、煌々と照った朝陽が地平線上に浮かんでいた。


あっ……、と二人、間の抜けた声を出し、暫く顔を見合わせながら、しまいには小さい声で笑っていた。


 お日さま、出ちゃいましたね。


 そうみたいですね。


 すみません、引き止めてしまって。


 お気になさらず。お日さまは明日も昇るんですから。


私は指に挟んでいた煙管を綺麗にした後、煙管筒にきちんと仕舞い、彼に手渡し立ち上がる。


 もう帰ってしまうんですか?


 えぇ、もう目的も無くなってしまいましたし、これから昼食の支度をしなくてはなりませんしね。


 そうですか。少し寂しいですね。


傘を左の肩に戻して、彼が言う。


 最後に私が言えることがあるとすれば、待つだけでは相手は来てくれませんよ。自分の足で出向かなければ。


 そういうものですかね。


 そういうものですよ。


そしてまた二人で笑った。


 では、お元気で。


 えぇ、そちらこそ。


私は最後に軽く会釈をし、彼に背を向け歩き出した。


橋の下から出て、紅葉の絨毯を歩きだすと、今までとは違う、不思議な感覚が足を伝わってくる。


今年初めての、白い霜が降りているようだ。


後ろを振り返ると、紅い傘を畳み、立ち上がろうとしている彼の姿がそこにはあった。


私にはそれが、紅葉から白い初霜に移り変わったように見えたのだ。






《END》


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― 新着の感想 ―
[一言]  純文学的な内容がとても素敵ですね。抽象的でその暗示するものを深めさせてくれるところがいい味を出していると思います。  (登場している)二人の何気ない会話も一つのこの小説をいい物にしている要…
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