翼の生えたクジラの話
瞬くと、家具が何一つないがらんとしたワンルームの真ん中に、目隠しをした美しい少女が立っていた。
敵対する組長の娘の誘拐計画が思いのほか上手く進んでいた。
学校帰りの少女をハイエースに押し込むとき、誰にも目撃されていない自信が晋也にはあった。
この部屋に連れてくるときも娘は抵抗するでもなくワンルームに入った。
艶やかな黒髪。
形の良い額。
意思の強そうな眉で鼻筋も通っている。
確かに大人になれば間違いなく美人になる。
が、7才のガキを一瞬でも美しいと感じてしまった自分に晋也は苦笑せざるを得なかった。
「ねえ、おじさん」
目隠しを外してやると、ぱっちり二重の眼差しが貫くように彼を見た。
「さむい」
女の子は率直にそう告げた。
2月末の夕暮れ、暖房器具のない部屋は室内まで凍えるほど寒かった。
それは夜も眠らない街、新宿でも同じことだ。
下品な色のネオンの明滅が部屋を暖めるわけもない。
しかし、はいそうですかとここから出てカイロのひとつでも買ってくる訳にもいかなかった。
「お前、自分の状況わかってんのか?」
だからそれを隠すために晋也は凄む。
七才を相手に。
「大体は」
少女は彼の威嚇をものともせず、大人びた口調でそう答えた。
さすが組長の娘、肝っ玉が座ってる。
晋也は半ば関心して人質を見た。
肩を抱いて震えているが、それは純粋な寒さからのもののようだ。
「さらわれたって言うのに、怖くないのか?」
仕方なくハンドバックを座布団がわりにして座らせ、自分が羽織っていた安物のロングコートを肩にかけてやった。
「やさしいのね」
部屋の中央でバッグを支点にクルクルと回りながらそう言って女の子は微笑む。
体育座りをすると全身がコートに埋まってしまった。
「すごく怖かった。だって突然口を塞がれて、抱き上げられたんだもの」
その答えに満足げに彼は頷く。
「でも今は怖くないよ」
「なんだって?」
「だって、私がさらわれたって知ったら、パパはすぐに探し出してくれるから」
確信を得たような笑みを浮かべる女の子に、晋也はかえって自分が空恐ろしくなるのを感じた。
敵対する組の子供を拐ったはいいが、居場所がバレて乗り込まれたら一番初めにやられるのは自分じゃないか。
下っ端で面倒を押し付けられても断れないチンピラ風情の自分が哀しい。
「おじさん、怖い?」
「バカ、なんでおれが怖がるんだ」
「だって、悪いことしてると怖いものでしょ?」
女の子は彼の心を見透かしたようにそう言う。
「おじさん」
「おじさんって言うな」
アゴ髭を蓄えてなるたけ厳つく見えるようにしていたが、彼はまだ28才だった。
「じゃあ、名前は?」
「杉原だ」
「杉原?」
「晋也」
「晋也くんね。私、コズエ」
そう言ってコズエはにっこりと笑った。
晋也はなんだか場違いな雰囲気に、保とうとしていた緊張感が薄れていってしまうのを感じた。
そもそも子供を誘拐してこちらの要求を飲ませるなどという幼稚な作戦を今の時代に実行しようとするのはおかしいのかもしれない。
小さな組の末端である自分でもそう思う。
しかし、やれと言われて、それはいくらなんでも幼稚じゃないですか、と忠告できる立場にもない。
一昔前は武闘派としてならしていた組も、今では時代の波に弾かれ、インテリやくざの小間使い程度に落ちぶれてしまっていた。
「何考えてるの」
ふと我に返ると、コズエが懐から彼を見上げていた。
驚いて飛びのくように三歩下がると、彼女は可笑しそうに笑った。
その後、当然のように窓のほうへ歩き出す。
「どこに行く?」
「別に、つまんないから窓の外でも見ようと思って」
そう言ってコズエは窓のカギを開ける。
やめろ、と言う前に窓は勢い良く開けられてしまった。
「冷えるから、すぐに閉めるんだ」
「晋也君? 私がいまここで、助けてーって叫んだらどうする?」
部屋の正面には雑居ビルが立ち並び、もしかしたら彼女の声も誰かが聞き取るかもしれない。
「力ずくで口を塞ぐ」
「口を塞がれても叫んでからじゃ遅いよ? 誰かがおまわりさんを呼んで、ここのことがばれちゃうね。そしたら晋也君、捕まっちゃうよ? そしたら晋也君、ムショグラシだよ?」
窓枠に手をかけながらコズエはニヤリと笑う。
「こんなに雑音の多いところだ。きっとお前の声なんて届かない。俺はお前が叫んだら、それなりにお仕置きをしなければならない。もう二度とそんなことをしたいと思えないくらいきついオシオキを、だ」
晋也は慎重に娘に近づきながら、そんな思いつきの脅しを使った。
「先に言っておくけど、私を傷つけたら、パパが絶対に許さないんだから」
そう言った傍から、コズエは大きく息を吸い込んだ。
「やめてくれ」
だから思わずそうお願いした。
「なに?」
「わかったからやめてくれ、俺は別にお前を傷つけたくてさらったわけじゃないし、これ以上よけいな面倒を起こさないでくれよ」
晋也が折れると、彼女は矯正器具を付けた歯を出し笑った。
「しないよ、そんなこと」
そして何事もなかったように窓を閉め、再び晋也の鞄の上に体育座りした。
彼は改めて玄関や窓の戸締りを確認して部屋に戻ったが、そこには少女が一人でポツンと座っているだけだ。
「パパ、まだかな」
コズエは膝に顎を乗せながらそう呟く。
「ねえ、晋也君も座ったら」
同じ体勢で彼を見上げながら彼女は言う。
座る理由もなく立っている理由もなかったため、彼は部屋の床を背もたれ代わりにして座った。
「ねえ」
わざわざ背後に座ったのに、彼女は180度回転して挑戦的な視線を晋也に送る。
「なんだよ」
「つまんない」
確かに、何もない部屋で二人きり、何をするでもなく座っているのは苦痛に近かった。
「なんかないの?」
彼女はそう言いつつ、足だけでこちらに向かってくる。
晋也はそれを避ける間も無く、隣に陣取ったコズエの小さな体を意識せざるを得なかった。
「本とか、テレビとか、DSとか」
首を振るとふくれっつらをして彼女は、えーっと大げさな声を上げる。
「じゃあ、なんか面白い話して」
そう言って、体を預けてくる。
「やめろよ」
「だって、さむいんだもん。わたしが風邪をひいたら、パパが許さないんだからね」
自分の居場所を探るように彼女は晋也の懐に身を寄せてきた。
「ねえ、面白い話」
そんなことを言われても、彼には何一つ話せることなどなかった。
特に七歳の児童にウケるような話は想像も付かなかった。
「私、最近、おてて絵本ごっこにハマッてるの」
彼女は晋也の気持ちに気づいたのか、それともただ単にそれをしたかったのかわからないが、言いながらその小さな掌を二回、叩いた。
「昔々あるところに、ちいちゃなクジラがいました。クジラは大人でしたが、仲間より二周りも体が小さく、そのせいで群れを離れて暮らしていました。はい」
そう告げると同時に、コズエはその掌を晋也の方へ預けた。
そして、
「自分の話したいように話せばいいのよ」
と微笑む。
晋也はしばらく唸ったあと、
「クジラは・・・海の仲間に愛想を尽かすと、ある日、翼を生やして空へと飛び立ちました」
と告げ、これで良いのか、と確認した。
「うん、なかなか良いわね」
コズエはうなずきながら、彼にも掌の絵本を開くように促し、
「変わるときは合図をするのよ」
と教えた。
「空には彼より大きいものがいませんでした。だから空でもクジラは一人ぼっちでした。はい」
女の子は言い終わると開いていた手を彼の掌に合わせた。
「一人ぼっちの空飛ぶクジラは、海にいたイワシの大群のようにたくさんの仲間に囲まれて泳ぐことを夢見ていました。右に曲がれば右に、宙返りするなら一斉にヒレをひるがえして競い合うように宙返りするその姿に、いつも憧れを抱いていました。でも、望みを持って飛び出した空の世界にも、クジラは仲間を見つけることは出来ませんでした。はい」
なんだかシリアスね、と言いつつ楽しそうな顔を向け晋也の話を受け取ったコズエは、真剣に話の続きを考え出した。
あたかもそのクジラを見上げているように目線を宙に浮かせながら。
吐く息は白く、ワンルームの虚空に吸い込まれていく。
「海の世界を知り尽くしていたクジラは、だからそれでも空を飛び続けました。まだ自分の知らない何かを見つけるために。晴れ渡る雲ひとつない青空、夕暮れのオレンジ色に染まる空、星屑が零れ落ちそうな夜空を飛び続けました。そしてある日、クジラは荒れ狂う嵐の空を飛んでいました。はい」
ここからどうすりゃいいんだ、と困り顔を向けても、コズエは意地悪な笑みを浮かべて彼の掌を勢い良く叩くだけだった。
「激しい雨風が吹き荒れる雲に入ると中にはもっと黒い雲があり、目の前が真っ暗で何も見えませんでした。ところどころで稲妻が光っていて、その時にだけ先の見えない分厚い雲の層が見えるのでした。はい」
交代すると、なんかドキドキするね、とキラキラした目を向け、真剣な顔で彼女は続きを途切れ途切れに話した。
「クジラは大粒のヒョウを受けながらも必死に飛び続けました。吹き付ける風が彼を右へ左へ追いやって、自由に飛ぶこともできません。ある時、傷だらけになり弱った体に柱みたいな太い稲妻が落ちました。とうとう飛ぶ力も無くなったクジラは羽を収めると、海へ落ちてしまうことを覚悟しました。はい」
なんだ暗いまま終わりにして良いのか? と晋也が訊いても少女は肯きも否定もせず続きを促した。
「・・・羽ばたくことを止めたクジラは、でもどういうわけか海に沈むことはありませんでした。その体は浮遊し続け、天を昇り、いつしか静かな空にたどり着きました。そこで彼は、自分と同じような体をした仲間を見つけることができました。イワシの群れのように数え切れないクジラが折り重なってそこに浮かんでいました。夜が明け、朝日がクジラたちの体を紺色から薄紫に、そしてピンクに染めていました。クジラは包み込まれる感覚のまま、その群れの中に溶け込んでいきました。今まで一度も味わったことのない、安らぎを抱きながら・・・。嵐の過ぎ去った空には、朝日に照らされ輝く入道雲が、天にも届かんばかりに伸びていました・・・。おしまい」
話し終えると、コズエは晋也の手を優しく閉じさせた。
「晋也君。あなたって人は、なかなかロマンチストね」
少女は含み笑いを浮かべつつ、彼のことを見上げた。
こんな遊びなんかにつきあわなければよかった。
照れた晋也はそう考え、立ち上がろうとした。
―――その時、ワンルームのドアがノックされた。
彼は慌ててコズエの口を塞いだが、彼女は特に抵抗するでもなく扉のほうを見守っていた。
「お嬢さん。迎えに上がりました」
野太い声が扉越しに聞こえてくる。
晋也はデタラメなリズムを打つ鼓動をどうにか抑え込もうとする。
「お前のところの奴らか」
そう問うと、彼女は大きく一度肯いてみせた。
「もうお嬢さんがここにいることは分かっている。観念しておとなしく鍵を開けてくれないか」
野太い声は見えるはずのない晋也に確信を持った言葉を投げかける。
晋也は逃げる算段を必死に思い描こうとしたが、まさかベランダから飛び降りるわけにも行かず、やむなく居留守を決めこむしかなかった。
「開けろって言ってんだ! もう一度だけ言う。扉を開けろ! 蹴破ってもいいんだぞ」
脅しに屈したわけではなく、これ以上の篭城が不毛と考えた晋也はドアが壊される前にその鍵を開けた。
「お嬢さん、ご無事でしたか」
野太い声の主は声を荒げたことなど欠片も見せずにワンルームの中に入ってきた。
彼の背後には3人ほどの若い衆が陣取っていて、晋也の逃げ道を塞いでいる。
コズエを人質にして逃げ道を作るか。
「ヘタな事するなよ。後で後悔することになるぜ」
晋也の考えを見透かすように野太い声は言う。
観念して口を塞いでいた手を退けると、コズエは何事もなかったように玄関に歩み寄った。
これからの自分の運命を想像して晋也は慄いた。
これからは自分が人質になるのかもしれない。
いや、その価値すら見出せず、適当に痛めつけられて捨てられるのかもしれない。
いずれにせよ、穏便に済むはずのない状況に、彼は生唾を飲まざるを得なかった。
「ヨシ君。ケータイ貸して」
ヨシ君と呼ばれた野太い声の男は、問答無用で自分の携帯電話を少女に差し出す。
晋也はコズエの場違いな言動を目で追うしかなかった。
スマートフォンを器用に使いこなして耳に当てた少女は、電話の相手が出るまで鼻歌まじりにワンルームを歩いて回った。
「あ、パパ? うん。大丈夫だよ。なんともない」
コズエはチラッと晋也を一瞥すると、悪魔のような顔で微笑んだ。
この娘が俺の人生を好きにするのだ。
そう思って晋也は頭を垂れた。
「で、あのね? 一つお願いがあるの? コズエのことを誘拐した人がここにいるんだけど、この人、私のボディーガードにしてくれないかな」
少女の言葉に、耳を疑った。
「うん。だってこの人、ヨシ君たちにバレないで私を連れ出せたくらいだから、それなりに使えると思うの。それに、私が寒いって言ったらコートを貸してくれたりして、やさしくしてくれたし」
ワンルームを歩き回りながらコズエは父親を説得した。
「何より、おてて絵本が上手いのよ。おもしろいの」
彼女はにこやかにそう言って晋也を見た。
彼はひどく恥ずかしくなってヨシ君と呼ばれた男を見た。
「なんだお前、おもしろい話できんのか?」
野太い声で男は言いながら、話し終えたコズエから受話器を受け取った。
男は眉間に皺を寄せて晋也を見ながら話を聞いた。
「はい、私からもお願いします。最近、お嬢様の退屈しのぎに振り回されっぱなしだったんで。お相手できる奴が一人できるのはいいことだと思います」
野太い声の男は晋也の思惑に反してそんなことを告げた。
しばらく話は続いたが、最後に男は晋也に携帯電話を放ってきた。
話せ、と男はアゴだけで合図を送る。
「コズエに気に入られたのはお前か?」
電話の主はいかにも貫禄のある声を晋也に向けた。
「お前、痛いのは好きか?」
組長は唐突にそう訊く。
「いためつけられたいか?」
平穏な口調で恐ろしいことを聞かれ、晋也は戦く。
「人の娘、さらっておいて、ただで済むと思うなよ!」
答えないでいるといきなり大声で怒鳴られて、晋也はその場にへたり込んでしまった。
「お前にはしばらく、娘のお守りをしてもらう。わかったな」
一転、妙に穏やかな口調で組長はそう問うた。
「答えはイエスしかない。ノーだったらお前はもうこの世には居られないんだからな」
それだけ言うと電話は切られた。
突然の出来事に状況を把握しきれず、晋也は思わず野太い声の方を振り返った。
が、彼はむしろ哀れみの表情を浮かべそそくさと部屋を後にしていった。
脇を固める若い衆も薄笑いを浮かべて帰っていった。
「さて、そういうことだからね」
当たり前のように仁王立ちした小さな少女は、腰に手を当ててそう告げる。
「痛い思いはしたくなかったでしょう? それに、サイシュウショクサキがいきなり決まったんだもの、あなた、ラッキーだわよ」
コズエは笑って晋也の腕を掴み、立たせる。
「じゃあ、そういうことで、お家に帰ってもう一回しましょ? おてて絵本」
そういって笑う彼女は、間違いなく7才の屈託のない少女だった。
晋也は腕を引かれて黒塗りの車に乗り込みながら、これから待ち受ける自分の運命に苦笑せざるを得なかった。