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Project Anima

ぼくらのせいぎ

作者: 白猫矜持

この小説には哲学的要素が含まれております、ご留意ください。




――人の心とはなんだろう。

 マスクをつけるとき、ぼくはいつも疑問に思う。

 人には心がある、と皆が言う。心があるから、喜び、悲しみ、怒り、そして愛するのだと。では、その心とは、いったいどこにあるというのか。

 たとえば、可愛い女の子が、幸せそうにチョコレートパフェを食べているとしよう。彼女はスプーンでその豪華なデザートをすくい、桜色の唇を開いて舌で受け止める。そして口を閉じると、チョコの甘い味、そして香りが口全体に広がり、鼻へと通り抜けてゆく。彼女はきっと、こう感じていることだろう、幸せだ、と。

 しかし、この一連の反応の中に、心が介在する余地などあるのだろうか。この、幸せだと感じる「心」などというものは、彼女の体のどこにもない。幼い子供が、心はどこにあるの、と問うときには、誰一人として正確な答えを与えてあげることはできないだろう。大人になっても、自分自身の心のありかさえ、よく分からないのだ。

 小さい子供に心のありかを教えるとき、多くの人は胸を指差すのではないだろうか。心臓がある位置あたりに手を置いて、あなたの心はここにあるのよ、と優しい母親は教えることだろう。もしくは、成長してませた子供は、自分で心のありかを見つけるかもしれない。人は頭で考える、だから、心も頭にあるのだ、心とは脳みそのことなのだ、と。

 この二種類の回答というのは、まったくの別次元に思えるかもしれない。つまり、前者が道徳的なもので、後者が物理的なものであるということだ。しかし、心がどこにあるのか、という問いの本質は、そこにはないと、ぼくは思っている。

 チョコレートパフェを食べている可愛らしい女の子の脳の状態を観察してみると、なるほど、味覚を感じる神経というものが発火していることが分かるだろう。それは逆に、その神経が発火していれば、その脳の主体、つまり彼女は、チョコの甘さを感じている、ということになる。しかし、彼女が感じているチョコの甘さとは、いったい何のことなのか?

 同じものを食べて、まったく異なった感想を返すような場合がある。少女Aはあるチョコレートパフェを美味しいと言うが、少女Bはあまり美味しくないと述べる、そんな場合だ。このとき、少女Aは少女Bのことを不審に思うだろう。パフェはこんなに美味しいのに、どうしてBは美味しくないだなんて言うのだろうか、と。これは、単純に好みの問題だ。ただ、人間の嗜好として、その味を好む性格なのか好まない性格なのか、ということになる。

 しかし、本当にそうだろうか、と疑問に思ったことはないだろうか? 少女Bは本当に、少女Aと同じ味を感じているのか、少女Aが思い描いているパフェの味と、少女Bの思い描くパフェの味というのは、本当に合致しているのだろうか、と。

 これは味覚のみの問題ではない。視覚の場合だってそうだ。赤いポストがあるとする。少年Aも少年Bも、そのポストは赤く見えている、と言う。しかし、だからといって、少年Aに見えているポストの赤と、少年Bに見えているポストの赤とが、同じ「赤」だと言える保証はあるだろうか? 実は少年Bには、「赤」という色が少年Aにとっての「緑」に見えているかもしれず、それでも、少年Bはその色を「赤」という名の色だと教えられてきたから、ポストは赤だ、と言っているだけなのかもしれない。これは色覚障害、色が正しく見えていない、という問題とは別だ。正しいはずなのに、どういうわけか、他人と比べてみると違うかもしれないのである。少年Aの魂が幽体離脱して、少年Bの体に乗り移ったとしよう。すると、少年Aがそれまで見ていた世界とは、まったく異なった色合いで見えることがある、という場合が考えられる。

 つまり、他人の見えている世界、感じている世界というのは、自分とはまったく異なっているかもしれないということだ。さらに奇妙なのは、もしまったく異なっているとしても、ぼくたちの人間関係、ひいては社会のサイクルには何の問題も起きないという点である。

 なぜ何の問題も起きないのか?

 答えは明白だ、他人にとって、世界がどのように見えているのか、それを知るすべなどないからである。幽体離脱だなんて誰もができるわけではないし、できたところで、他人の視界を「ジャック」できるわけでもないだろう。他人にとっての世界の見え方、感じ方なんていうのは、実際には体験することなどできない。他人も自分と同じ色に感じているのだろう、味に思えているのだろう、という前提で、ぼくらの世界は成り立っているというわけだ。

 だから、結局、他人の心がどこにあるかなんてことも、絶対に分かるわけがない。チョコレートパフェを食べている可愛らしい少女は、脳でその味を感じている。だが、どのような味に感じられているのか、ということは、彼女の脳をいくら観察したり実際に舐めてみたりしても分かるわけがない。一日の生活の脳状態を記録して、この部分の反応が「心」と呼べるものです、だなんて指し示すこともできないわけだ。それは単純に化学反応に過ぎないだけで、実際に彼女が心を持っているのかどうかということは、何をどうあがいても、誰も知ることはできない。

 心なんていうものは、自分のものしか分からない。自分にしか、「心という存在」が分かるはずがないのだ。

 そう、思っていたのだが。

 では、マスクを付けているときに見えているこれは、いったい何だと説明すればいいのだろうか。


――こいつは狂ってやがるまともじゃねぇだめだ殺されるなんとかして逃げなきゃあぶっ殺されちまう――


 ぼくがナイフを押し当てている相手、ジャラジャラしたシルバーアクセサリーで装飾された青年は、そんなことを思っている。


――なんなんだよイカれてやがる変なマスク被ってるしよぉヤクでも決めてんのかああくそどうにかして離れねぇとやべぇんだよ――


 彼が恐怖している、ということは、簡単に察することができる。片手をねじりあげて、後ろからナイフを首元に突きつけられれば、誰だって恐れおののく。ぼくが不思議なのは、そんなくだらないことじゃあない。


――殴るか殴ってやれば放すだろうかいやけどよ失敗すりゃあ首を掻っ切られるのはおれなんだぜおいじゃあどうすんだよ蹴りか後ろに蹴り上げりゃあいいのか――


 文字としてなのか、それとも発話としてなのか、正しいことは分からない。が、とにかく、ぼくにはこの男の「心の声」というものが見えているらしい。共感覚、というのに似ている。目で言葉を聴き、脳で文字を見ているのだ。

 では、ぼくが見ているこの対象、男の心らしきものは、いったいどこに存在しているのか。脳の中なのか、それとも、魂や精神といったような、目に見えない不可思議な存在なのだろうか。そう考えると、幽霊を信じない人というのもおかしな話だ。他人の心という不可思議極まりない存在を、さも在って当たり前のように信じているのだから。

 しかし、いまぼくが真に気にかけるべきは、男の腐りきった心のありかなどではない。

「おまえは、犯罪の萌芽を持っているな?」

 耳元でささやきかけると、男は震える声で答えてくる。

「な、何をいってんだ……? や、やめろ、金なら出してやる、だから、ナイフを下ろせよ……!」

「ぼくの目当ては金じゃない。おまえは、これから凶悪犯罪者になる可能性がある。だから、それを止めにきただけだ」

「お、おれが犯罪者だって……? バカ言うな、おれは何もしてねぇよ!」

「そうだ、まだ、何もしていない。これからするんだ、おまえは」

 ナイフを握る手に少しだけ強く力を込める。

「おまえは、アパートに住んでいるだろう?」

「そ、それがどうしたってんだ――」

「隣の部屋に住む女子学生を、犯したいと思っているだろう?」

「な、ッ――」

「上の階に住む、いつも騒音がうるさい中年男を、殺したいと思っているだろう? バイト先の常連客から、うまく金を騙し取ってやりたいと思っているだろう?」

「あ、いや……は?」

 上手く言葉にはできていないようだが、男の困惑は、ぼくにはしっかりと見えている。


――ああそうだその通りだいつも思っていた犯してやりたい/殺してやりたい/金を騙し取ってやりたい/好き勝手にやりたい金が欲しい奪ってすべてをおれのものにしたい/だがまだ何もしていないなぜだなぜ分かる思っていただけなのにどうしてバレる誰だなんだこいつはこの男はマスクはおかしいおかしいぞ何かがおかしいこれは夢か――


「欲望に忠実だな。人間の醜い部分を見事に寄せ集めたようなやつだ」

「ま、待て! 何もやってねぇだろうが! おれはまだ何もッ――」

「それが犯罪の萌芽だ。他人に比べて、おまえは邪悪すぎる。見るに耐えない。まだ実際に罪を犯していないからといって、それがどうした。思っているだけでは無罪とでも言いたいのか」

「そ、そうだ! おれだけじゃねぇ、誰もが思ってることだろうが、そんなことはよぉ!」

「そうかな。言っただろう、おまえの心は、他人と比べても黒すぎる。いつ犯罪を実行してもおかしくない。危険だ。触れたら爆発する爆弾のようなものだ。生かしておけば、いずれ、誰かの害になる」

 何人もの人間を、その心を見てきたから分かる。この手の人種は、犯罪者も同然だ。心の中では常に罪を犯している。現実の罪を裁くのは法律だが、心の内の罪は、誰にも裁けない。そして、その罪はいずれ、現実にあふれ出てくる。ついにやったぞ、という達成感もなく、これまで心の内で重ねてきた罪と同じく、現実でも犯罪を繰り返し続ける、そんな手合いだ。

 だから、刈り取る。罪が現実に噴き出す前に。罪悪の花が咲く前に。法で裁けない悪があるのなら、誰かが裁かなければならない。

 ぼくは、心の罪を裁く、正義だ。それはマスクをつけて、他人の心を見ることのできるぼくに与えられた権利であり、使命だ。

 ぼくは、このマスクのもとに、正義を執行する。

「か、っ――!」

 手を引く。横に。ナイフが頚動脈を切断し、鮮血が勢いよく流れ出る。痛みはほとんどないはずだ。脳に供給される酸素が急激に減少するため、ほとんど眠りに落ちるように死ぬはずだった。そう聞いている。ぼくは、頚動脈を切られた経験がないから、分からないのだが。他人の痛みを感じることができないというのは、可愛い女の子がチョコレートパフェの味をどのように感じているのかを体験できないことと相似だ。だから、ぼくは、この男がどのように痛み、死んでいくのかが分からない。想像するしかない。

 せめて楽に逝けただろうかと祈ると同時に、しかし、罪人にも祈りは必要なのかと自問する。人は、悪を犯せば地獄に行くという。まあ、宗教の違いによってその地獄行きのラインも異なるだろうし、地獄なんてところはない宗教だってあるだろう。では、この祈りは誰にささげるべきか。ならば、この潜在的犯罪者を殺めることによって、将来に安泰がもたらされた人々に、ささげるとしよう。

 死体は、放っておく。ここは人通りの少ない線路下の路地だし、時刻も深夜だ。めったに人は通りがからないだろうから、死体の発見は早くとも翌朝になる。

 人は、死ねばものになる。死体から心を読むことはできない。心は、血と一緒に流れ出てしまったのだろうか。それとも、脳の中でその働きを止めてしまっただけなのか。分からない。ぼくは自分の心のありかも知らないし、そもそも、ぼくが見ることのできるものが本当に「心」と呼んでいるものなのかどうかはっきりとしない。マスクを付けているときに見える言葉たちを便宜上「心」と名づけているのであって、それが真の心である保証はないのだから。

 夜空には、霞がかった月が光っていた。半月から少し欠けたような、下弦の月だった。最近は夜も寒い。ようやくうんざりする夏が終わって、秋がやってきたのだ。風邪を引かないように気をつけなければ。正義に休みはないのだから。


     ■


 大学のキャンパスというのは、どうにも好きではない。まるで遊園地のようだ、とぼくは常々感じていた。高校のころまでと違って、みなが思い思いの格好をして、自分の作った自分だけのスケジュールに沿って生活している。統一性、規律というものがまったく感じられない、まさに自由な空間だ。混沌としている。

 マスクを付けていない視界はクリアだというのに、ぼくにとって、その綺麗で透明な世界というのは恐ろしいものだった。他人の心が見えないのだから。他人の心がまったく感じられないのだから。

 楽しげに話している学生や、ひとりぼっちでしかめっ面をしてベンチに腰掛けている学生もいる。多種多様な若者が共生しているこの空間は、ぼくにとっての地獄に他ならない。なぜ、彼らは楽しげに会話することができるのだろうか。相手の心が分からない、どころの話ではない。いま話している相手に、本当に心があるのかどうかさえ分からないのだから。自分が向き合っている相手が、どれほどグロテスクな存在なのかも分からないだなんて、ぼくには耐えられない。彼らは、しかしそんなことを気にはしていないのだろう。相手にも自分と同じような心があって、同じように笑ったり怒ったり、世界を見たり聞いたりしているのが当然だと思っているのだから。ぼくには、それが分からない。なぜ疑問に思わないのだろうか。どうして他人の心という不可思議なものの存在を疑わないのだろうか。頭蓋骨を割ってみても、肋骨を切り開いてみても、どこにも「心」なんてものは存在しないというのに!

「おい、なーに難しい顔してんだよ、おまえは」

 後ろから肩を叩かれて、ぼくははっとなって振り向いた。同じ仲間の西村浩二だ。

「……なんだ、きみか」

「なんだとはなんだ。せっかく、おまえが迷子の子供みてーな頼りない顔をしていたから話しかけてやったってぇのに」

「難しいのか頼りないのか、どっちかにしてくれないかな」

「こまけぇこたぁ気にするな、はげるぞ」

「きみみたいに、髪をむやみやたらに染めたりワックスを付けたりするほうがダメージが大きいと思うのだけれど」

「だから、こまけぇこと気にするなっつーの」

 浩二はにんじんのような色をした頭髪をくしゃくしゃとかいてから、声を潜めて言う。

「そんなことよりも、だ。おまえ、昨日やっただろう?」

 やった、というのは、あの不良のことだろう。

「もう知っているのかい? 耳聡いね」

「そりゃあ、今朝のニュースでやってたしよ。みんな知ってるぜ。つーか、最近仕事が雑なんじゃねーの? 下手したらおまえ、警察に目を付けられるぜ」

「それがどうしたんだ。警察がぼくを裁くことはできないよ。きみも知っているだろう」

「そりゃあ、マスクを付けたおまえを捕まえられるやつはいねーと思うけどよ……そういう問題じゃあねぇんだって、警察にマークされるってことは、つまり社会の敵だってみなされるわけだろう? それってどうなんだよ、正義の味方的によぉ」

「それは、ないよ。ぼくが裁いているのは罪人だ」

「潜在的な、だろ? おれはまだ、おまえさんの正義とやらに納得したわけじゃあねぇぜ」

「それでも、悪は悪だ。悪を裁くぼくは正義だ。同じ正義である警察が、ぼくを裁けるわけがないだろう」

「……だから、そういうんじゃあねーって」

 浩二は何かを言おうと口を開閉させていたが、それも諦めて深くため息をついて、「……あー、じゃあ、これから授業があるからよ」とぼくから離れていった。彼が一体何を言いたいのか、マスクを付けていないぼくにはいまひとつ理解できなかった。仮にマスクを付けていたとしても、仲間に対してその力を利用することは禁止されているのだが。

 彼にも彼なりの正義というやつがある。しかし、それを邪魔したつもりはない。ぼくの正義を納得できないというが、それはぼくの「心についての問題意識」を共有できないからだろう。人には心なんてものがないかもしれない、だなんて言っても、ほとんどの人には理解さえされないことだ。それを大きな問題として実感しているぼくとしては、他人とはひどく奇妙なものに思えてくる。生きた人形、動く有機機械。ときには、そうとしか思えないときもある。もちろん、ぼくのような問題を実感している人ばかりでは社会は上手く回らないのだろうが、逆に言えば、この問題をしっかりと受け止めているぼくだからこそ、マスクを付けて犯罪者を裁く権利と義務が与えられたのだ、と解釈することもできる。そう、ぼくは、選ばれた存在なのだ。マスクは許可証だ。法や社会にかわって、潜在的犯罪者を裁くための、免許証のようなものなのだ。

 だから、警察がぼくを捕まえるというのは、道理にあわない。警察は、むしろぼくに感謝するべきなのだ。これから犯罪者として捕らえることになるだろう花の萌芽を、ぼくが摘み取ってあげているのだから。

 おまけに、ぼくたちを正義執行者として選んだのは、神様だ。神様のお墨付きであるぼくを、ぼくたちを、誰も止めることなどできやしないのだ。


     ■


 正義執行者は、神様に選ばれる。それぞれの執行者は、自分の正義に即した道具を、神様に与えられる。それが、ぼくの場合は心を見ることのできるマスクだったというわけだ。

 深夜のとあるビルの屋上に、ぼくと浩二はいた。この町の正義執行者は、この場所に集まって行動を開始することが決まっている。もっとも、いつ誰が執行するのかは個人の自由、というよりもそれぞれの正義に左右されるため、多くが一度に集まるということはない。今夜はぼくと浩二の二人だけのようだった。

 マスクを付けているぼくはといえば、浩二に背を向けて夜の町を見下ろしていた。浩二はおそらく、神様から与えられた彼専用の道具――革の手袋を身につけていることだろう。

「なあ、おまえはあれのことを神様って呼んでるけどよぉ、本当にそうなのか?」

 唐突に浩二は切り出した。

「なんで、そう思うんだい?」

「いや、神様って何なんだろうな、ってよ。おれたちにこの力を与えてくれたのは確かにありがたいんだが……その目的は何なんだ?」

「それは当然、よりよき世の中のためだろう。善のための力さ」

「いや、そういうんじゃなくて、どうしてそんな回りくどいことをするんだ、って話だ。神様なら、自分で何とかできるんじゃねーのか? わざわざおれたちなんかに力をくれなくたってよぉ、その不思議パワーで何でもできるだろ?」

「人の罪の意識をなくしたり、とか?」

「まぁ、そんなところだな。もしくは、人の邪悪さを見かねて、世界を滅ぼす、とかな」

「何を物騒なことを」

「おれたちだって十分物騒だろうが」

「わざわざぼくたちに力を与えてくださったのは、まだ人を見捨てていない証拠さ。人が人を裁くことによって、人のためのよりよい社会を形作れってことなのさ」

「だがよ、それって神様的にどうなんだ? 神様は、人を愛している、って言うけどよ……まあ、おれは別にどんな宗教も信じちゃあいねーから、愛も何も知ったことじゃねぇんだが、とにかく本当に人を愛しているのだとしたら、もっと効率のいい方法をとるんじゃあないか? なんだって、こんな地味な作業をおれたちに押し付ける?」

「押し付けてはいないさ。正義を執行するもしないも、全部ぼくたちの自由だろう。神様は、ぼくたちの自由意志に賭けているんだよ、平和な世界というものを」

「賭けているって、まるでゲームを観戦しているかのような言い方だな」

「そういうんじゃあないよ。神様は絶対的な善だ。ぼくらは、少しでも神様に近づくように、力を使わなきゃあいけないんだ」

「ふぅん、絶対的な善、ねぇ……そもそも、神様って本当に存在するのかよ?」

「するさ、するに決まっている。いや、存在しないわけにはいかないんだよ」

「しないわけには、ってどういう意味だ」

「神の概念というものを考えると、どうしても存在せざるをえなくなるのさ。神様とはね、どんなものよりも、偉く優れている存在のことを言うんだよ。何者も超えることのできない存在を、神と呼ぶんだ」

「それが神様の概念、ってか? で、どうしてそれが存在の理由になるんだ?」

「存在しないものよりも、存在するもののほうが偉くて優れているからさ。神様がもし存在しないんだったら、存在する別のなにものかのほうが偉いということになってしまう。だから神様は存在する、というわけさ」

「なぜ存在するもののほうが偉くて優れているんだよ?」

「浩二、きみは、頭の中に思い描いた百万円と、現実に存在する一万円、どっちのほうが価値が高いと思うんだい?」

「……そりゃあ、現実の一万円だが」

「存在しないものは、価値がない。意味がないんだよ。だから、神様はその『神という概念の定義』から存在することが証明される、いや、存在しなければいけないということなんだ」

「まるで狐につままれたみてーだな。詭弁にしか聞こえねーよ」

「ふぅん、きみの場合は、まあそうなんだろうね。実際に経験していないからだよ、神様の存在を」

「存在を経験する、ってどういうことだよ。つーか、おまえは経験したのかよ」

「したよ。いや、しているとも。このマスク……人の心が見えるだなんて、神様でなければできない芸当さ」

「そいつは誇大妄想ってやつだろ。神様の力である必要はねぇさ」

「だったら、きみは、いったい誰がぼくたちに正義執行の権利を与えてくれていると?」

「さて、どうかな……こんなのはどうだ、おれたちがいま見ている、感じている世界ってぇのは、全部作り物だって話だ」

「仮想空間、ということかな」

「そういうことだ。あるだろ、『マトリックス』って映画がよ、あの世界みたいに、全部がプログラミングされてて、おれたちの意志ってやつも制御されてんだ……」

「そんな考えこそ、ぼくにはナンセンスとしか思えないな。自分に自由な意志があるかどうか、ぼくらの未来は決定されているかいないかなんて、考えるだけ無駄で無意味なことさ。どんなに頭をひねっても結論なんて出てこないし、もし自由な意志がないと分かったとしても、それがどうした、としか答えられないだろう」

「ドライなやつだな、お前は……」

「そもそも、その『マトリックス』っていう映画のことは知らないけれど、そんなメタな存在なんて、ぼくたちには感知できないんだ。小説の登場人物が、いくらがんばったってその作者の顔を実際に知ることはできないのと同じようにね。この世界が仮想空間だとするならば、その中でぼくらが何を選択するのかを考えたほうが有意義というものだよ」

「……神様の話を棚上げしているとしか思えねーんだが」

「神様は、ぼくらに力を与えてくれただろう、直接。だから、メタな存在というわけではないんだよ。この世界のいたるところに偏在しているかもしれないし、いま目の前に現れてきてもおかしくはない。小説の登場人物は、どれだけ作者ががんばっても、登場人物自身に作者の顔は見えやしないよ。次元が違うんだから」

「あーあー、そうかいそうかい」

 浩二の深いため息が聞こえる。もう十分だ、ということらしい。

 そうだ、ぼくたちは無駄話がしたくてここにやってきたのではない。正義を執行するためだ。時刻はそろそろ〇時を回ろうとしている。月はぼくらを優しく見下ろしている。ふと思う、月は神様の瞳かもしれないと。

「んじゃ、ま、おれはそろそろ行くぜ」

 背後で浩二が言った。

「ああ、分かったよ。ぼくも降りることにしよう」

 立ち上がったぼくの背中に、浩二が念を押してくる。

「一応言っとくぜ、あまり、やりすぎるなよ」

「やりすぎる? 何のことだい?」

「その力を使いすぎるな、ってことだ。どんな理由であれ、力の濫用は正義じゃない、悪になりうるぞ」

「ははは、おかしなことを言うね。ぼくたちは正義だろう? だったら、何も疑うことなくこの力を使えばいいのさ」

「……」

 浩二の返答はなかった。わずかな間のあと、屋上の床を蹴る音が聞こえる。振り返ると、浩二の姿は消えていた。

 相変わらず、彼の心は分からない。いや、浩二に限らず、人の心というのはどうにも理解できない。ぼくにとっては当然だと思えることも、他人にとってはそうではないことが多い。他人から見ればぼくは変人なのだろうか。変人だと自覚できる変人など、変人の定義から外れている気がしてならないのだが。

 とにかく、気を取り直してぼくも正義を執行することにする。今夜の目標はもう定まっている。さっき浩二と話していたときから、視界のすみにちらちらと映っていて、わずらわしくて汚らわしくてたまらない「心」の持ち主だ。


――どうしてこんなクソガキがいるのよこんなやつがいるからこいつがいなければこいつこそいなければわたしはわたしはわたしはわたしは――


 わたし、わたし、わたし。怒りや憎しみもさることながら、なんと自己中心的な心か。この心の持ち主は、何もかもが自分本位だ。自分の周囲のもの、ひいては世界そのものが、自分のためにあるとばかり思っている、傲慢極まりない性格の人間。ぼくは、呆れを通り越して悲しみさえ感じていた。どうしてそこまで自分のことしか考えられないのか、と。ぼくは、世界の平和を願ってこうして正義に命を捧げているというのに!

 哀れな潜在的犯罪者に裁きを下すため、犯罪の萌芽から罪なき人々を守るため、ぼくは一歩を踏み出す。ビルの壁面は、マスクを付けているぼくにとっては床と同じだ。マスクの力は、人の心を読むだけではない。ぼくの世界認識、つまり世界の見え方に付随する様々の「概念を騙す」力がある。ぼくが足を付けているものはビルの壁に他ならないが、それをコンクリートでできた床だと定義する、認識を騙すことで、実際に壁を床のように歩くことができるというわけだ。

 世界の認識様式、人にとって世界がどのように見えているのかというのは、やはり不明瞭である。自分にとっての見え方しか分かりっこない。世界が認識に働きかけているのか、それともぼくたちの認識が世界というものを形成しているのか、というのは非常に難しい問題だが、ぼくは後者だと思う。ぼくの目が、耳が、心が、雑多で混沌としているエネルギーの塊のような「なにものか」にフィルターをかけて、この「現実」という世界を形作っているというわけだ。だから、ぼくがこうして壁を床だと思い込むことで、床のように歩くことができる。ぼくにとって、これは床に他ならない。ぼくが床だといえば床であると、いや、床になるということだ。

 どうしてそんなことが可能なのか、だなんて疑問は、マスクの読心能力も含めて、神様に説明してもらう他にない。ぼくはなぜ地球が傾いているのかを説明できないし、昨日食べた野菜サラダが誰によって作られたものかも知らない。どうでもいいことだからだ。

 問題になるのは、使い方と、使い道だけだ。

 マンションの一室が見える。深夜、電気の消えていた部屋に、突然明かりがつく。聞こえてくるのは赤ん坊の泣き声。空腹のせいか、それともおむつを交換して欲しいのだろうか。ひどく切羽詰った、激しい泣き声だった。

 そして同時に見えるのは、母親らしい女の、独りよがりな心模様。


――ああうるさいやかましいこのクソガキのせいで睡眠不足もいいところだ邪魔だうざったいなぜ産んだのかどうして産んでしまったのかこいつさえいなければわたしは離婚できた自由になれたのにこいつさえこいつさえこいつさえいなければわたしはわたしはわたしはわたしは――


 もはやまともに直視することさえ耐えられなかった。ぼくは床を、つまりビルの壁を蹴ってマンションの一室に接近する。そして「ぼくがいる場所はあの部屋の中だ」と認識を偽ったとき、眼前には驚きに目を丸くする女の顔があった。

「動くな」

 それだけを告げて、ぼくは女の腕を背に回して捻り上げ、ナイフを首筋に当てる。女は、やせこけた、いかにも不健康な肌をしていた。

「な、っ、なによ、あんた……!」

 声も体も震えている。無理もない。恐怖することは当然だ、恐怖するように行動しているのだから。

 このまま腕を少し引けば、犯罪者の命は簡単に消える。人の命とは儚いものだ。人の夢と書いて儚い。命、一生とは、まさに夢のようにすぐに消えうせる、小さな小さな泡沫にすぎない。だからこそ、簡単には殺してやるものか。ぼくは、殺すためにやってきたわけではない。正義を成すためにやってきたのだ。

「おまえは、自分の子供を、愛していないだろう?」

「い、いきなり何言ってんのよ――!」

 口から出る言葉は否定している。だが、心は正直だ。自分の心を偽る人間など、そういるものではない。


――愛す愛してる愛とはなにそんなもの知らない愛せるはずがないじゃないのわたしはここを出たいのあんなやつと結婚するつもりなんかなかったのよこのガキさえあんな男の子供さえできなければわたしはこんなところに無様にもしがみついている必要なんてないのよわたしはわたしはわたしわたし――


 狂ったように繰り返される、わたし、わたし、わたし。ぼくはナイフの冷たさが女に伝わるよう、少し力を強めて押し当てた。

「すべてが身勝手だな。おまえはまったく自分の子供を愛していない。自分さえよければいいのか」

「やめ、助け……」

「死にたくないか。そうだろうな、死は恐ろしい。ぼくは死を恐れているからな、おまえがどう感じているのかもだいたい見当がつく。だが、おまえの子供もまた、同じように死を恐れているぞ」

「け、っ……警察、呼ぶわよ……!」

 そんなことはできないと分かりきっているはずなのに、女はそう口走る。心の乱れ具合もひどい。言葉がめちゃくちゃだ。とてつもなく混乱しているのだろう。

「おまえは、子供が泣いているのを無視したことがあるだろう? 一度や二度じゃあない、何度も、イラつくたびに無視しているだろう」

「なんで……そんなこと……」

「おまえの心を見れば分かる。それだけじゃない、深夜に、いまのように泣き叫ぶ子供の頭を殴ったことがあるだろう? 哺乳瓶で、だ。おまえは軽く叩いたつもりだろうが、子供にとってはさぞ激痛だっただろうな」

 寝具に横たわり、泣き続ける赤ん坊に目をやる。心が見える。まだ言葉を知らない幼児の心は、断片的なイメージ画像の連続だった。いまは、空腹だと訴えている。哺乳瓶、乳白色の液体のイメージ。だがその合間に、鬼のような面をした女と、痛みの感覚が伝わってくる。痛い、と言葉にしているわけではないが、痛みというものがダイレクトに伝わってくる、そんな視覚像だ。痛覚と視覚の共感覚。

 赤ん坊、女の子供にとっては、女が果たしてどのような存在なのかがよく分かっていない。女は自分の生理的欲求不満を解消してくれる。それと同時に、不快感を与えてもくるのだから、どう感じていいのか分からないようだ。

 だから、赤ん坊の代わりにぼくが定義してやるしかない。この女は、紛れもない犯罪者だ。もはや潜在的ですらない、立派な虐待犯なのだ。

 よって、ぼくは正義を執行する。

「おまえには、自己愛しかない。自己愛は毒だ、周りにいつの間にか不幸をばら撒いている。それに、仕事に私情を挟むのはよくないことだが、ぼくは、おまえのように母親としての自覚がない人間が大嫌いなんだ。親としての義務と責任をまったく理解していない。価値がないのさ、おまえには」

「お、お願い、やめ――」

「やめて、とさえ、おまえの子供は言えなかった。抵抗できない恐怖と理不尽さを味わうといい」

 女はまだ何かを言おうとしていたが、もう口からは喘鳴が聞こえるだけだった。首には深い一筋の切り傷があり、命の色をした液体がどくどくと流れ出るばかりだ。まだ心を読むこともできたはずだが、興味もない。どうせ言い訳か未練がましい考えが見えるだけだ。女は倒れる。まだ死体ではない。いま、死ぬ。

 そんなことよりも、正義を執行したいま、やるべきことは赤ん坊を泣き止ませることだった。腹が空いているらしいから、ミルクを与えなければ。幸いにも哺乳瓶や粉ミルクが出してあったので、温かいミルクをつくってあげられた。そういえばミルクの温度は人肌でなければいけない、というようなことを聞いた気がするので、手の甲に落として温度を確かめる。まだ少し熱いように感じた。

 ミルクが冷める間、待つことにする。赤ん坊の泣き声は一向に止まず、隣の部屋から苦情がくるのではないかということが気がかりだった。どうやら父親は夜勤なのか部屋におらず、ぼくと赤ん坊だけが、奇妙な時間を共有することになった。

 その泣き声を聞いていると、どうにも落ち着かない。ぼくは赤ん坊の泣き声が苦手だ。嫌い、というわけではない。どうにも、弱い。こちらまで泣きたくなってくる。赤ん坊の泣き声というのは、つまり「助けて!」というサインに他ならない。言葉を使えず、満足に動くことさえできないのだから、泣き声は唯一の手段にして最終手段だ。生命の、本能の、叫び。それを聞いていると、ぼくは、無性に胸をかきむしりたくなる。誰か止めてあげてくれないか、悲しいから、悲しすぎるから、ぼくの心まで痛くなってくるから、と。

 そう、赤ん坊の泣き声は、心に響くのだ。ぼくの、こころに。痛々しいほどに。

 早く冷めてくれないかな、お湯が熱すぎたのかな、などと懸命に意識を反らそうとしているところに、いきなり声がかけられる。

「おまえ……何やってんだよ」

 窓だ。窓ガラスを水の膜のようにすり抜けて、部屋に入ってきた人影がある。浩二だった。ぼくはとっさに顔を背ける。心を見ないように。

「何って、見ての通り、赤ちゃんにミルクをあげようと思ってね。お腹が空いているんだ、この子は」

「……母親を、やったのか?」

 浩二の視線は、母親だった死体に注がれていることだろう。

「そうだ、この女は、この子を虐待していた。愛もなく、親としての自覚もない。悪だよ、どう考えても。そんなことより、どうしてきみはここに? もう仕事は終えたのかい?」

「ああ、ついさっきな……だが、おれのことはどうでもいい。おまえ、どうするつもりだよ、こんなことをして」

「こんなこと、とは何のことかな」

 ぼくは哺乳瓶からミルクを数摘、手の甲に垂らしてみる。温度はよさそうだ。赤ん坊に与えると、うれしそうに、というより、必死になってミルクを飲み始める。

「母親を殺して、その子はどうなるんだよ、って話だ。親を失った子がどんな人生を送ることになるか、分からないわけじゃないだろうが?」

「この女に育てられたとしても、ろくな人生が送れるとは思えないけれどね。そもそも、ちゃんと成長できるかどうかも怪しいものだ。いつ育児放棄してもおかしくなかった」

「だからって、親を奪うのが正義だっていうのか?」

「少なくとも、この子にとっては、不幸の種がひとつ消えることになる。将来が安泰だというわけではないさ、もちろんね。けれど、この女が生きているよりは、まともに人生を歩めるはずさ」

「……おまえは、いつからそんなに偉くなったんだよ」

「偉い? 偉いとはどういうことかな。ぼくはただ、ぼくの正義を執行したまでだよ、ぼくの正義にのっとってね」

「その子の人生を決定する権利は、おれたちにはないはずだぜ」

「救ってあげたんだよ。最悪の未来から」

「分からないだろうが、未来なんてよ。おまえが母親を殺したことで、その子の将来はより悪いものになるかもしれない。自分の親を持たない気持ちが、おまえなら分かっているだろうが!」

「分かっているさ。だから、ぼくは正義を執行したんだ」

 赤ん坊は真っ赤に泣き腫らした瞳で、ぼくを見つめている。小さく可愛らしい、あどけない唇を動かしながら。そうだ、赤ん坊は、笑っているのがいい。ぼくも幸せな気分になる。

「それに、ぼくの正義を否定するというのなら、きみの場合はどうなんだい、浩二? きみも誰かの人生に手を加えているんだろう? それが誰かにとっての害悪になると、そういうことなんだろう」

「おれは、人を殺めてはいない。人の悪意を取り去るだけだ」

 浩二は低くうなるように言った。

 浩二が神様から授けられた道具、革の手袋は、人の心から悪意や敵意といったものを簒奪する力がある。ぼくは浩二ではないからあまり詳しいことは分からないのだが、それは心を削り取るに等しい行為だという。そのありかでさえ曖昧な心というものの一部を奪うというのは、対象に想像できない効果をもたらす。そもそも、心のうちの何割が善で何割が悪だというような構成要素、成分を書き出すことは困難だ。というよりも、成分の書き出しということが何を意味しているのか、よくわからない。心とはそう簡単に分析できるものではない。言ってみれば、心とは、様々な色の液体が混ざりあってできた、黒い海のようなものだ。そのうちから特定の色だけは抜き出せない。心のうちで、これが悪意だ、といって何かを掴み取ることはできないのである。

 しかし、浩二は、浩二の正義は、悪意の抽出をやってのける。浩二の持つ革の手袋が持つ性質は、すなわち透過性。窓ガラスをすり抜けて入ってきたように、人の体を貫いて、心の複雑性をも通り越して、悪意のみを取り去る。浩二の正義とは、要らないもののみを排除すること。他のものは傷つけることなく、己が悪だと思うものだけを世界から排斥するという信念。

 浩二は、血を好まない。その浩二が執行する正義は、しかし優しいといえるのだろうか。心の一部、悪意を取り除かれた人間は、心の機能を著しく失う。人の性は悪だとでもいうのだろうか、悪意を失った人間は、人形のごとく外界からの刺激に鈍感になってしまう。一応の自我や意識というものはあるようで人並みの生活は送れるのだが、機械的に時間を送るだけの存在を、果たして人間といえるのかどうか。

「きみがしていることも、ぼくと同じじゃあないのかな。人間性の剥奪……やっているのは、命を奪うか奪わないかの違いだけだ」

「んなこと……」

 浩二は口をつぐむ。それから続きを待ったのだが、浩二は押し黙ったままだった。言い負かされたのか、それとも、これ以上の反論は無駄だと思ったのか。心を読めないぼくには、分からない。

 赤ん坊は、ようやくミルクを飲み終えたようだった。満ち足りた表情を見ていると、正義を執行した達成感がこみ上げてくる。

 赤ん坊の父親は、夜勤から帰ってくる様子はない。朝帰りだろう。このまま赤ん坊を放っておくというのも、あまり好ましいこととは思えなかったので、ぼくは母だった死体を担ぎ上げた。

「おい、何をする気だ」

「このまま赤ちゃんを放っておくのも気がかりだからね。人を呼ぶんだ」

 死体は、重かった。そこには命が欠けていたというのに、生きているころよりも、ずいぶんと重々しく感じられる。

 ぼくは死体を、窓へと向けて投げた。ガラスが割れる。死体が月光の乱反射とともに落ちてゆく。アスファルトと肉体とがぶつかりあう音は、妙に湿っていた。

「これでしばらくすれば、人がやってくるだろう。警察が来れば、赤ちゃんにも都合がいい――」

 ぐいっ、と肩をつかまれ、後ろを振り向かされる。それと同時に、手がぼくの顔からマスクを引き剥がす。クリアな視界に映った浩二の顔は、怒りだろうか、激しい感情にひどく歪んでいた。

「死者には敬意を払え、おまえが奪った命に対しては!」

「死体に祈りを捧げてどうするというんだ。死体は、ものだ。人は、死ねば、ものになる。正義を成すことで、死者に敬意を払うのではなく、それによって救われる人々に祈りを捧げるべきなんだ」

「それが、おまえの正義か。ただ殺すことが、おまえの目指す世界を形作るのか」

「犯罪の萌芽を摘めるのは、ぼくだけだ。きみが裁くのは犯罪者であって、ぼくのような潜在的犯罪者じゃあない。本来なら、赤ちゃんを虐待していたこの女は、きみが裁くべきだったんだ。少しでも誰かに危害を加えているのなら。今回のぼくの仕事に文句は言わないで欲しい。ぼくは、ぼくの正義のために、ぼくの正義を執行しただけなんだ」

 浩二は、ぼくから乱暴に手を離す。それから無言のまま、部屋の壁を通り抜けて出ていった。もしぼくがマスクを付けていたのなら、浩二の心はどのように読めたのだろうか。

 窓の外が騒がしい。誰かが死体に気づいたのだろう。これからやがて、救急車や警察がやってきて、この部屋に気づき、赤ん坊を救出する。赤ん坊は、父親一人では育てられないだろう。だからきっと、施設に預けられる。そこでは虐待を受けることはないだろう、あの母親のようには。

 ぼくは、正義を執行した。ぼくの正義は、赤ん坊の未来に、きっと希望を与えるはずだ。


     ■


 ぼくは、ヒーローになりたかった。

 正義の味方に。

 悪の怪人から、町の人々を守るヒーローに。

 そうすればきっと、誰もぼくのことを馬鹿にしなくなる。ぼくのことを気味悪がらなくなる。ぼくから離れていくことはなくなる。ぼくの周りには、人がいっぱいになる。たくさんの人に囲まれて、ぼくは幸せな気持ちになる。そう信じていた。

 ヒーローになるにはどうすればいいのだろうか。ぼくは毎日、そんなことばかりを考えていた。

 ぼくにとっての敵、悪の怪人は、お父さんだった。お父さんはいつもお母さんに暴力を振るっていたから。ぼくは、町のヒーローになる手始めとして、お母さんのヒーローになろうと考えた。お父さんからお母さんを守れば、ぼくはお母さんに気持ち悪がられて避けられることもなく、きっと愛してくれるのだろうと。しかし、お父さんは強かった。小学生のぼくにとって、大人は立ちはだかる壁に等しい。どれほど叩いても、蹴っても、お父さんは降参しなかった。それどころか、お父さんはますますお母さんに暴力的になり、お母さんはというと、ぼくを路肩に転がっている石か何かを見るような目つきになった。

 ああ、足りないんだな。ヒーローになって、お母さんから、町のみんなから好かれるようになるには、まだ正義が足りないんだ。ぼくはそう考えて、お父さんの目を盗んで外に出るようになった。外で正義を学ぼうと思ったのだ。

 外には、テレビで見るよりたくさんの人がいた。どこに行っても人ばかりだった。人で窒息しそうになるほど、多かった。どうして空気はなくならないのだろう、と疑問に思うほどに。その人たちは、お父さんやお母さんと同じで、みんな仮面を被っていた。その仮面のせいなのか、ぼくには彼らの心が分からなかった。物心付いたときからそうだ。ずっと疑問に思っている。ぼくには心があるのに、それがはっきりと分かるのに、他の人の心がどこにあるのか、本当にあるのかどうかさえ、さっぱり分からなかった。ヒーローになるには人々の心を知ることが必要なのに、ぼくには、それができない。みんなの仮面のせいかと思ったのだけれど、観察していると、どうやらそうではないらしいと明らかになってきた。

 人の心は、どうがんばっても見えないし、読めないのだ。もしかすると、世界で心を持っているのはぼくだけかもしれない。ぼくは特別な存在なのかもしれなかった。世界でただ一人、心を持っているぼくは、そう、ヒーローのようなものだ。みんなが付けている仮面は、実は仮面なんかではなくて、彼らの顔そのものなのだと分かった。よく動き、よく喋る、しかし心の欠けた、よくできた顔だ。ぼくのそれとは違う。

 ぼくが特別な存在だと分かれば、あとは簡単だった。ぼくには正義の心は十分にあったのだ。足りないのは、悪を倒すための力だけだった。大人は強い。ぼくは小さく、弱い。どれほど筋肉を付けようとがんばっても、お父さんには到底及ばなかった。ぼくが大人になれば、もしかすると誰よりも力が強くなるかもしれなかったが、それまでのんびりと待つわけにもいかない。町にはヒーローが必要なのだ。

 だから、ぼくは道具を使うことにした。ある夜、そう、月がほとんど見えない、暗い夜だった、いつものようにお母さんに暴力を振るうお父さんに対して、ぼくはキッチンから持ってきたナイフを突きつけた。お父さんは激怒するものかと思ったが、ちがう、笑った。嘲笑だった。首輪で繋がれた子犬が、必死に吠えて威嚇している様を笑っていた。しかしぼくは冷静で、そしてお父さんは知らなかった。ぼくは子犬ではなく、正義のヒーローだということを。ぼくはナイフをお父さんの顔めがけて投げた。思い切り、力の限り。お父さんは、飛んできたナイフを避けようとしたのだろうが、それよりも早く手が反射していた。向かってくるナイフを振り払って叩き落す。手に命中した刃は、当然のように皮膚を切り裂いて、どくどくと赤い血が流れ出る。

 お父さんは傷口を押さえてうなった。それは同時に、ぼくから意識の逸れた瞬間でもある。ぼくは、背中に隠し持っていたもう一本のナイフを手にして、突進した。声は出さずに、静かに踏み出した。切っ先は、お父さんの腹に吸い込まれていった。うげっ、とも、ぎゃあ、とも表現できないような声が、その喉から絞り出された。ナイフを引き抜いてぼくは下がると、お父さんは怒りの表情を浮かべてこちらを見た。それから足を動かそうとして、どうと倒れこんだ。しばらくの間、うめき声を上げ続けていたが、やがて動かなくなった。ぼくはヒーローになった。

 その様子を、お母さんは黙って見つめていた。あっけに取られていたような、ぼうっとした表情だった。お母さん、ぼく、悪いやつをやっつけたよ。そう言うと、お母さんは、ぼくを抱きしめて喜んでくれた。いや、喜んでくれると、思っていた。

 お母さんは、鬼のような表情になって、激怒した。ぼくの肩を猛然と掴んで、血走った目で、腫らした頬でまくしたてる。

「どうしてこんなことをするのよ!? あんたはそうやっていつもいつも、あたしが望んでないことばかりをやってくれるわね! 人の気持ちってものが、あんたには分からないんでしょう? ねえ、どうなのよ、言ってみなさいよ、この化け物!」

 ぼくは、困り果てて何も答えることができなかった。なぜお母さんは喜んでくれなかったのだろう。どうしてお母さんはこんなにも怒っているのだろう。分からない、分からない、分からない。心が見えれば、心を読むことができたのなら、こんなに頭を悩ませなくてもいいのに。

 結局、お母さんは、母は、それから家を出ていった。ぼくを一人残して。ぼくは父方の叔父に引き取られ、育てられることになった。叔父はぼくのしでかしたことを知りながらも、警察からぼくをかくまった。叔父はきっと知っていたのだろう、父が悪だったということを、ぼくが正義だということを。

 叔父の支援を受けたぼくは、大学に入学した。そして、そこで神様と出会い、ぼくは人の心を読むことができるマスクを与えてもらった。


     ■


 人にとっては、どうしてぼくは他人の心が分からないのか、不思議でたまらないだろう。しかしぼくにとっては、どうしてみんなが、心の読めない他人と生活できるのかが疑問でならない。そう、誰にも、他人の心なんて分からないはずなのだ。自分の経験に基づいて推測しているに過ぎないのであって、他人の心が分からないというのは、別段おかしくもなんともないのではないかと考える。ただみんなの洞察力が高すぎるということなのだ。

 そもそも、動物は、互いの心のことを考えたりはしないだろう。草原をゆくシマウマ二頭が、「いまあいつは何を考えているだろう」などと思うことはないはずだ。そんなことを考える必要がないからである。敵が来ているぞ、あそこに食料があるぞ、などと擬人化して考えるのは、人間として言語を用いているからである。動物は言葉を用いない。そこにあるのは機械的な、しかし実際の機械よりは複雑混迷きわまる、一連の行動パターンにすぎない。それはぼくが読みとる赤ん坊の思考と非常に似ていて、結局のところ、外に存在するなにものかに対する志向性しかないのだ。動物は、相手に自分と同じ心がある、などという思いを抱かない。

 人間も、本来ならそうであるはずなのだ、動物としての本能のみで生きるのならば。しかし、ぼくらは言葉を知っている。言葉のせいで、厄介なものを問題にしなければいけなくなってしまった。逆に言えば、言葉があって初めて、「わたし」と「あなた」とを定義、区別し、自分と比較することで「他人の心」などという珍妙奇天烈摩訶不思議なる概念にたどり着くことができたのである。

 言葉は、心を複雑にする。それまで動物的だった、シンプルで明快な心は、言葉によって武装され、他人との関係をより難儀なものに変えていった。それは結果として、いまの人間社会を築き上げたわけなのだが、それが喜ぶべき成果なのかどうか、ぼくには分からない。動物は不幸せに見えるだろうか?

 武装した心は、基本的に他の心を排斥しようと努めるようになる。見ず知らずの他人の心は、本来ならば毒だ。わけが分からないのだから。他人という気持ちの悪い存在を、しかし人間は生きてゆく上で受け入れなければならない。その寛容性をもっとも肥大化させるのが、すなわち「恋愛」という感情だ。

「あれは、浩二か」

 大学のキャンパス内で、ぼくは浩二を目にした。赤ん坊を救った一夜以来、二週間ほど浩二はぼくの前に姿を見せなかったが、いま、彼は講義棟の前を歩いている。一人ではない。親しげに話す相手は、女子だ。キャンパス内で男女が並び立っているのは別段珍しくもないが、あの様子だと、前に話を聞いていた彼女とやらが、あの女子なのだろう。

 思えば、ぼくは誰かを好きになったことがなかった。誰かに好かれたいと思ったことはあっても、他人に対して好意を抱いたこと、持とうと思ったことはなかった。どうしてそんなことができるのか、まったく理解できない。

 浩二はぼくに気づいていない様子で、女子と楽しげに会話をしながらこちらに向かってくる。その会話の内容というのがこれまた益体のないもので、昨日見たテレビがどうだとか、さっきの授業で教授がどうだとか、まるで意味のない応酬をしているとしか思えない。表面上はどちらも楽しそうではあるのだが、実際にマスクで心を読むことができれば、果たして二人はどう思っていることか。場合によっては、とんだ笑い話にもならないかもしれない。他人と付き合うということは、つまりそういうことだ。他人が自分の思っているような他人であることなど、そうそうあるわけがないのだ。ぼくがヒーローになれば、母は喜んでくれると思っていたのに。

 浩二は、ぼくの目の前までやってくると、やっとぼくに気づいたのか、ちらりとこちらを見てから、しかしばつが悪そうに頭をくしゃくしゃとかいて、目を逸らした。

 そのまま二人で去ろうとする浩二の背中に、ぼくは声をかけた。

「待ってくれ、浩二」

「……なんだよ」

 浩二は半歩だけ振り向いて、棘のある視線を送ってくる。

「最近、あまり仕事をしていないようだけれど……どうしたのかと思って」

「こんなところでその話をすんなよな……」

 浩二の隣では、女子が怪訝な面持ちで彼を見上げている。

「別に、サボってるわけじゃねーよ。いまはその必要がないだけだ。おまえには関係ねーだろ」

「そういうわけにもいかない。仲間は少しでも多いほうが、みんなの安全に――」

「もう行くぞ」

 小さな舌打ちが聞こえた。立ち去る浩二の背中を、女子が追いかけてゆく。浩二はいったいどういうつもりなのか。まさか、正義執行者をやめたとでもいうのか。心さえ読めれば。しかし、同じ正義執行者に力を使うことは、罪だ。神様がそう言っていた。

 ぼくは、だから、代わりの手段を取るしかなかった。少し遠回りだが、浩二がなにをしようとしているのか、いや、何もしないでいるつもりなのかどうか、確かめることができるはずだった。正義のためには、多少の犠牲もやむをえないのである。


     ■


 ほとんど月の出ていない夜だった。

 ぼくは、マスクを付けて、とある人間を尾行していた。

 昼間、浩二と一緒に歩いていた女子学生だ。夜間の講義があったらしく、八時を回ってから学部棟から現れた。浩二は一緒ではなかった。ぼくは建物の屋上付近の壁を歩きながら、彼女の心を読んだ。


――退屈/暇/無意味/乾燥=砂漠/くすんだ輝き――


 心を読むことは、五感のありかたとよく似ている。対象との距離が遠ければ遠いほど、正確なイメージからは遠ざかる。いま彼女から読むことができたのは、どこか荒れ果てた、空虚な図式だった。枯れ果てた大地を連想させる、砂色の空。大学生という自由で可能性に満ちた(と言われている)年齢とは思えない心の様子。

 家に向かっているであろう彼女の後を追う。建物の壁を伝いながら、少しずつ女子学生に接近する。すると、マスク越しにだんだんと彼女の心が明瞭に捉えられてくる。


――ああめんどくさいことばかり毎日毎日同じことの繰り返しほんとつまんないこれからまたバイトかあの店長面白くない店長の下で働かなきゃあいけないなんて最低最悪もうやめたいやめてしまいたいお金さえあれば――


 女子学生の外見はそれほど派手というわけではないのに、その心ときたらずいぶんと大胆なものだった。しかしこの程度の心なら、外見にそぐわないとはいえ、どこでも見かける類のものだ。別段、ぼくが正義を行使しなければならないような、潜在的に重大な犯罪者であることもないだろう。

 そう思っていたのだが。


――ああそういえば浩二にお金を借りていたんだったけれども返せないなまだバイト代入らないし服とかも買わなきゃいけないしでもそうしたらまた足りなくなるけれどだったらまた借りればいいか浩二お金持ちだし少しくらいいやもっと借りても大丈夫いつか返せばいいんだし――


 かすかな懸念が鎌首をもたげてくる。もしかすると、この女子学生は、お金目当てで浩二と付き合っているのではないだろうか? 昼間、並んで歩いていたときはまるで楽しそうだったのに、いまはその面影もなく、ただ浩二からお金を借りる算段だけをしているようだ。それも、悪意があってのものではない。息をするように、あるいは、明日の朝食でも決めるかのように、さも当然とばかりに浩二から借金をしようという思惑なのだった。

 浩二の正義執行者としての考えを探るつもりが、思わぬところで新たな標的を見つけてしまった。ぼくの正義が告げている、彼女こそ潜在的犯罪者なのだと。

 いずれ凶悪犯となる、というわけではない。しかし、彼女の悪性は、その発現の小ささにある。法律で裁くことの難しいような範囲に、彼女はその毒牙を食い込ませるのだ。訴えようとしても立件が難しいような、そう、一種の詐欺めいた行為を、彼女は繰り返すことになる。いまだってそうだ、浩二の恋愛対象という立場を利用して、金を着服している。それからしばらく彼女の心を観察していたが、どうやらほとんどの金額を、借りたまま返していないようだ。

 潜在的犯罪者として、もっともたちの悪い人種だということが、はっきりと分かる。浩二は、騙されている。利用されているのだ。

 いずれこの女学生は、浩二により悪影響を与えることになる。昼間は、あれだけ近くで笑って過ごしていた相手が、実際には嘲笑いながら自分のことを都合よく利用していたのだと分かれば、浩二はどれほど悲しむだろうか。こればかりは、浩二の心を読まなくても分かる。ぼくだってそうだ、いままで信用されたことはほとんどないが、それでも、誰かに裏切られるというのは悲しいことだ。

 今夜、ぼくは浩二のためのヒーローになろうと思う。

 ナイフを取り出し、ぼくは正義の執行を決意する。女学生が人気のないところに差し掛かったのを見計らって、ぼくは壁を蹴った。音もなく彼女の背後に着地すると、首筋に冷たいナイフを押し当てて、動きを止める。息を呑む声。

「動くな、余計な声を出すな。下手に逃れようとしたら、このナイフでおまえの首を切る」

 鋭い輝きを見せると、女子学生は体をさらに硬直させ、痙攣するようにうなずいた。

「おまえは、交際している男から金を借りているな? いままで何度か、そうする必要がなかったにも関わらず、おまえは金を借りて、そしてそのまま返済しない」

「……っ、……?」

 女子学生は困惑に顔を歪めたようだった。心の声が見える。


――どうしてそんなことを知っているの何なのこいつまともじゃないストーカーいや奇妙な仮面を付けていたきっと頭のおかしい人よけれどどうしてわたしのことを浩二のことを知っているの――


「ぼくに隠し事はできない。おまえは、男から金を借りることを、当然のように考えている。それぐらいのことは当たり前だと。それこそが、まさに根絶すべき犯罪の萌芽に他ならない」

「な、なにを……なに、言ってるのよ……」

「おまえは、自身の行為を誰かにとって有害なものだと思っていない。実際には害を及ぼしているというのに、その可能性があるというのに。とてもたちが悪い。潜在的犯罪者として、犯罪の萌芽のまま、周囲に悪影響を撒き散らす存在だ。ぼくにしか、排除できない。おまえには悪意という自覚がないからな、浩二でも悪意の切除はできないだろう」

「浩二……浩二が、なに……?」

「浩二は、おまえを信じていただろう。恋愛対象として、おまえのことを気に入っていたはずだ。それを、おまえは、裏切った。それこそがおまえの本質だ。おまえという人間の、根本に位置する、犯罪の萌芽だ。ぼくが代わりに切り取るしかない」

 彼女の怯えが手に伝わってくる。絶望して、あるいは、恐怖していることだろう。しかし、この女子学生に利用されていると知ったとき、浩二は、より深い悲しみと絶望を感じるはずだ。愛とは、恋愛という感情は、そういうものだ。他の感覚を麻痺させるぶん、それ自身から放逐されたときの反動は、まさに精神に多大な害悪をもたらす。

 そうなる前に、ぼくが正義を執行しなければならないのだ。

 いつものように、ナイフを引く。わずかの抵抗もなく、皮膚を、頚動脈を切り裂き、組織を分断し、命を裁断し、犯罪の萌芽を伐採する。かすれた喘鳴が、うつろに開かれた口から響く。ひゅうひゅうと。

 ぼくがすべきことは、あとは立ち去るだけだった。人は、死ねば、ものになる。ものがそれからどうなるかなど、ぼくにとってはどうでもいいことだ。だから、普段どおり、ぼくはきびすを返してその場から立ち去るだけでよかった。しかし、できない。できなかった。

 丁度そのとき、浩二がぼくの背後に降り立ったからだ。

「――――――ッ!」

 ぼくを突き飛ばして、浩二は死体に駆け寄った。ぼくは浩二を見ないように、慌てて顔を背ける。

「沙希……だめだ、そんな……」

 狼狽する浩二の声が聞こえる。ぼくはマスクを外して、浩二を見た。必死に、彼女の傷口を押さえる様を。

「いや、諦めるな、沙希、助かる、助かるから……!」

 浩二はしきりに語りかけるが、彼女は次第に人からものへと転落しつつある。ぼくが、そうした。ぼくが、壊した。ぼくが、切り取った。ぼくの正義が。

「浩二……彼女は、きみを騙していた。きみの善意を利用していたんだよ。立派な潜在的犯罪者だ。ぼくが裁かなければならなかった。ぼくの正義を執行しなければならなかった。そうすることで、きみは彼女の悪意から救われたんだ」

 やがて彼女の全身から力が抜けて、体が重くなったとき、浩二はようやく立ち上がった。ぼくを振り向いたその顔は、月明かりがないせいでほとんど見えない。

「浩二、きみの力では、きみの正義では無理だったんだ。だから、ぼくがするしかなかった。これも、きみのため――」

 視界が揺らぐ。天地が逆転する。口から出てきたのは、続きの言葉ではなく「うぁっ」とでも表現すればいいのだろうか、そんな間の抜けた悲鳴だった。痛みが背中から全身に駆け巡ったとき、ようやく悟った。ぼくは、浩二に殴り飛ばされたのだ。

「てめぇはァァ――!」

 横腹に強烈な蹴りが入る。呻く暇もなく、浩二はぼくの上に馬乗りになると、何度もこぶしを放ってきた。痛い。なぜ、浩二はここまで激怒しているのか。痛い。なぜ、ぼくの正義を理解してくれないのか。痛い。

「このッ、人殺しが!」

 血の味がする。痛い。鉄の味でもある。痛い。口の中が切れたのか。痛い。それだけじゃない。痛い。鼻血も出ているようだった。痛い。とても、痛い。

「ま、待ってくれ、お、ごっ、おち、ついてっ、話をきいてくれ、がっ」

「なぜだ! なぜ沙希を殺した!」

 なぜ、と、ぼくと同じように問いながらも、浩二は手を止めなかった。それから、浩二は革の手袋を、ぼくの胸に突き刺した。ぼくの心から、その一部、悪意を削り取ろうとしているのだ。しかし、わずかの数秒で浩二は手を引き抜く。何も変化していない。浩二は掴めなかったのだ、ぼくの悪意を。当然だ。ぼくは、正義の心でしか動いていない。

「ふざけんじゃねぇぞ、このッ――化け物が!」

 ああ、いつか、同じ言葉を聞いた。どうしてぼくは、誰にも好かれないのだろう。ヒーローだからだろうか。ヒーローは、誰かに好かれてはいけないのだろうか。正義は、孤独でなければいけないのか。

 浩二はぼくの上から退けて、視線をきょろきょろとさ迷わせる。

 ぼくは、しかし、やはり疑問でならなかった。同じ正義執行者である浩二ならば、ぼくの行いを、正義を理解してくれるものだと思っていたから。これではまるで、ぼくが浩二を裏切ってしまったみたいではないか。違う、そうじゃあないんだと教えてやりたい。ぼくはただ、きみの、町のためを思ってヒーローになろうとしただけなんだと。

「こ、こう……じ……」

 顎が外れているのか、うまく言葉が話せない。だから、仕方なく、ぼくは、マスクを付けることにした。もう、そうしないとわけが分からないから。どうして浩二は激怒しているのか。心を読めば、その理由がきっと分かる。もしその原因がぼくの行いにあるのだとしたら、謝ろう。ぼくは何も間違っていないはずなのだが。とりあえず、いまは謝って、浩二を落ち着かせるんだ。そうすれば、あとでぼくの正義を理解できるはずだから。ぼくは、浩二を、その心を、マスクを通して見た。


――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――


「ひっ――」

 思わずうわずった悲鳴をあげてしまう。浩二の心は、純粋だった。どこまでも純粋に、統一されたその感情で染め上げられていた。

 立ち上がって逃げなければならないと思いながらも、腰が抜けて動けない。心を見てしまったせいだった。言葉だけではなく、刃物のイメージと、血の臭いと、そして臓物の感触とがない交ぜになって、マスクを通して、ぼくの脳にまで浸透してきたからだった。浩二の正義、透過性が、ぼくの脳を抉ってくる。

 浩二は、道端に落ちていたものを拾い上げていた。それはぼくの持っていたナイフだ。浩二の彼女の血に濡れた、ぼくの正義を象徴する刃。その凶器を、浩二は、ぼくに向かって突き出してくる。切っ先はぼくの腹を狙っていた。ぼくは、浩二の腕を掴んで、それを止めようとする。の、だが、ぼくの手は、浩二の腕をすり抜けて、空気だけを掴み、ゆえに、刃物の先端は、ぼくの腹へと、吸い込まれるように、消えていって、直後に、熱さと痛みとが、同時に、せめぎあうように、怒涛の波となって、押し寄せてくる。こみ上げるものの味は、すでに口の中に広がっている味と同じだった。

 浩二はナイフを引き抜く。立ち上がることのできないぼくは、ただ呆然と、浩二の顔を見つめることしかできなかった。搾り出すように、たった一つだけ発することのできた言葉は、浩二の小さな呟きと重なった。


「「――どうして――」」


 ぼくの全身からは力が抜けて、傷口を押さえることさえ難しい。朦朧としてゆく視界の中、浩二は、すでに倒れて動かない彼女の元へと歩み寄っていった。結局、最後まで、ぼくには浩二の心が分からないままだ。どうして、人は「他人の心」というものを意識しなければいけないのだろうか。本当にあるのかどうかさえ分からない、そんなものを。ぼくには、ぼくのマスクは、正義には、人の心を読む力があった。それでも、他人の心なんていうものは、まったく理解できない不可思議なものでしかなかった。それはきっと、ぼくに心というものがあるからだ。だから、比較しなくてはいけなかった。ぼくと他人の心とを。ぼくには心がない、自動人形のような存在であったのならば、もっと人に好かれたのだろうか。人間だから、ぼくはヒーローにはなりきれず、正義を執行しきれず、人に好かれることもなかったのだろうか。人は、人であることは、罪だったのだろうか。ならば、どうして、神様はぼくに力を与えてくださったのだろうか。

「答えなんてないさ。他人に心があるのかどうかという問題などが、そもそも何の意味もないようにね」

 死に行く刹那に、ぼくの頭の中ではひとつの声が反復していた。それは、聞き間違えようのない、あの暖かな光、神様の声だった。

 黒に染まってゆく視界の中、一条の光が差しこんでくる。天から降りてくるように、人型の光が、目の前で形を成していった。あのときと、同じだ。ぼくにマスクを授けてくれたときと。

「ぼ、ぼく、は……まちがって、いたの、ですか……?」

 力が上手く入らない。きちんと話せているのかさえも定かではないが、神様は、ぼくの問いに答えをくれた。

「いいや、違う。きみは、よくやってくれた。わたしの期待通りにね、見事だったよ」

 神様の声は優しかった。これまで誰にも認められることのなかったぼくの正義を、神様だけは、認めてくれたのだ。

「ぼ、くは……せいぎ、の、みかた、に……」

「ああ、きみは、正義だった。きみは誰よりも正義だったよ」

 人型の光は、小さく頷いたようだった。

「正義とは、つまり『自分が正しいと思うこと』だ。誰かにとって、ではなく、自分にとって正しい信念こそが、正義なのだ。その意味では、そう、きみは誰よりも素晴らしい正義だったよ、一点の曇りもない、純真無垢な、ゆっくりと時間をかけて凍らせたように澄み切った正義だった。しかし、正義とは、万人に対しても正義ではない。それは当然のことだ。絶対的な善性、というものがありえないように、たとえ九十九人の支持を得る正義だとしても、残りの一人がそれに反することがあるだろう。この世界において絶対なのは、ものの生成消滅のみだ。不変なものがないように、人の心も、思想も、正義も、理想も、常に変化し続ける。そんな中で、きみのように、たった一つの正義を信じ続け、行動し続けたその正義は見事なものだった。きみの正義は、結局、誰一人にも理解されることはなかったが、しかし、それがどうしたというのかな。きみは誇るべきだ、自分の正義を。誇って、そして、死ぬといい」

「え、あ……あ……」

 ぼくの正義は、理解されなかった。それを正しいことだと神様は言う。それは、しかし本当にそうなのだろうか。ぼくは、ヒーローになりたかった。町を守り、みんなに愛されるヒーローに。しかし、結果としては、誰もぼくを愛することはなかった。それを、神様は、よしと言う。

 ぼくの正義とは、いったい、何だったのか。ぼくは、正義を執行したかったのか。それとも、ただ単に、人の心を知りたかっただけなのだろうか。

 しかし、神様は、他人の心があるかないかという問いは、意味のないものだとも言っていた。無意味な、つまりは、価値のないものだと。では、ぼくの見ていた、読んでいたものは、いったい何だというのか。

 そうだ、ぼくはいま、マスクを越して神様を見ているはずだった。だというのに、その心は、読めない。

「きみは、どうやら疑問に思っているようだね。わたしでも、そのくらいの想像はつく。わたしには他人の心など読めないが、その表情を読むことはできる。きみの、マスク越しにね」

 他人の心など読めないという。神様だというのに。

「どうせ、きみは助からない。しかし、疑問が残っているままだと死にづらいだろう、だから事実を教えてあげよう。他人の心などというものは、わたしにだって読めはしない。『他人の心』という言葉が、いったい何を指し示しているのか理解できないのだからね。他人にも自分と同じ、『この心』がある、ときみは、いや、きみたちは言うだろうが、『この心』とはどれのことだ? それが指示している対象は、いったいなんだ? 他人の心などというものはただの言葉遊びだ。問題にすべきはあるかないか、などという無味乾燥な議論ではない」

「なら……ぼ、く、は……なに、を……」

「何を見ていたのか、と聞きたいのだろうね。きみには、確かに『他人の心』というべきものが見えて、読めていた。それは事実だ。しかし、それが本当に他人の心である保障がどこにあるというのかな」

「な、ん……」

「わたしがきみに与えた、そのマスク――特性は、そう、欺瞞だ。壁を床であると騙し、きみは壁を歩くことができる。自分の居る場所を別の場所であると騙し、そこへ瞬間的に移動することができる。その欺いている対象は、きみ自身だ。きみが見ていた『他人の心』とやらは、そう、きみが自分を欺いて『他人に心がある』と思い込もうとした結果だ」

「そ、んっ……な……」

 これは、この存在は、神様なんかではない。ぼくはいま、ようやく気が付いた。この存在こそが、悪だ。犯罪者という次元の話ではない、巨悪だ。ぼくを利用するでもなく、単純に、観察するように、遊んでいただけなのだ。ペットに玩具を与えて、戯れるさまを楽しげに眺めていただけの、傲慢極まりない存在だった。ぼくが、ぼくらの正義が、一番に相手にしなければならなかったのは、こいつだったのだ。

「おやおや、怒るのかい? きみはわたしのことを神と呼んでいるようだが、そう名乗った覚えはないよ。きみが勝手にそう思い込んだだけだろう。それに、わたしの正義とは、誰かの望みを叶えてやることだ。わたしはきみの望みを、きちんと叶えてあげただろう? 『他人の心を知りたい』というきみの願いを。きみがわたしの正義を認められないと怒り昂ぶるなら、おめでとう、きみの仲間がきみに対して抱いていた気持ちこそが、それだ。ようやく他人の気持ちが理解できたな」

 浩二は、視界の隅で、彼女の死体を抱いてむせび泣いている。浩二。そうか、きみも、こんな気持ちだったのか。これが、他人の心なのか。

 正義は、ときに、競合する。そんな簡単なことさえ、ぼくは忘れていた。悪を掲げて争う人は、ごく少数だ。戦いが起きるのは、いつも自分の信じる正しさ同士だ。だから、正義執行者は、互いにその力を使いあうべきではなかった。

 ぼくは、ただ、好かれたかっただけなのだ。正義のヒーローになれば、みんなに好かれると思っていただけ。それだけだった。結果として、ぼくは、死ぬ。まだ死んではいないが、やがて、死ぬ。死んで、ものになる。ぼくの正義は、問いは、無意味だったのだろうか。理不尽な因果に遊ばれていただけの、他人にとっては害悪でしかない、そんなくだらないものだったのだろうか。

 いまなら、考えてみれば、きっとその答えが分かる。浩二の心が分かったのだから、いまのぼくになら、きっと、他人の心が、その気持ちが分かるはずだった。しかし、ぼくには時間がない。考えるには、もう、足りない。

 人は、死ねば、ものになる。ものには、心がない。考える心が、ぼくにはなくなってしまう。叫びたい。ただ叫びたい。ぼくはここにいると。ぼくの心は、ここにあると。

 それさえも、できない。

 ぼくは、死ぬ。まだ、死んでいない。

 いま、死ぬ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



この作品は、大学サークルのために製作されました。


作中、アンセルムスによる神の存在論的証明は、カントの『純粋理性批判』で反論されています。

また、心の問題について気になった方には、永井均氏の著作をお勧めいたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公と浩二の考え方の違いを明確にしていた。 [一言] 感想を書くのは非常に苦手なのですが、とても素敵な作品に出会えたなと思ったので書かせていただきます。 自らの正義を愚直なまでに執行す…
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