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5cm

ワーカホリックなチームリーダーについたあだ名は、Cリー。


彼が初めてC部署を担当するようになった頃から、

いつの間にかそう呼ばれるようになっていた。


「飲み会には行きません」


「昼食は13時から。14時30分までに解散してください」


「本日午前中は晴れ、夕方からは曇る予報です」


そんな業務連絡以外、ほとんど言葉を交わさない。


返ってくるのは、

必要最低限、正確無比、感情ゼロの回答ばかり。


あまりにも機械的なその様子に、

C部署ではいつの間にか彼のことを

「C部署専用のSiri」と呼ぶようになった。


最初は、ただの冗談だった。


「それ、C部署のSiriに聞けばよくない?」

「Cリー、今日の予定教えて」


そうやって呼んでいるうちに、

いつの間にか

「C部署専用のSiri」は省略され、

“Cリー”だけが残った。


本人はまったく気づいていないが、

部署内ではすでに正式名称である。


さらに――

あまりにも冷たすぎる対応が続いたせいで、

陰ではこんな囁きまで聞こえるようになった。


「AIっていうか……感情、未実装だよね」

「最新型なのに、アップデート来てないやつ」


そんなわけで、

Cリーは今日も今日とて、

“感情を搭載していない完璧な業務用AI”

として扱われている。


伊那 澄と同じように、

車田 隼人に好意を抱く同期は数えきれないほどいた。


特に多いのは新入社員たち。

引き継ぎの最中に、

その無駄のなさと落ち着きに一目惚れするケースがほとんどだ。


だが、どれだけアプローチされようと、

どれだけ告白されようと、返ってくる答えはいつも同じ。


「お断りします。

恋愛? 非効率です。

時間も労力も使いたくありません。

それと、公私の区別は守ってください」


あまりにも冷静で、あまりにも切り捨てる返答。


その結果、

“C部署専用のSiri”は、

いつしか完全に“Cリー”として定着した。


そして今、この瞬間も――

状況は何一つ変わっていない。


車田 隼人との距離が少し縮まったように感じたのも、

ただの一時的な出来事にすぎない。


偶然、彼の秘密を知ってしまっただけ。

それ以上でも、それ以下でもない。


屋上の扉を出れば、

またいつも通り、

「代理」と「チームリーダー」の関係に戻るのだろう。


伊那 澄は空を見上げて思った。


――チームリーダーの心へ続く、

一本の命綱が降りてくれたらいいのに。


たとえそれが、

今にも切れそうな腐った綱でも構わない。

喜んで掴むのに。


その切実な願いが空に届いたのか、

思いがけないチャンスが訪れる。


「伊那さん。私と……二人きりで泊まりましょう。

伊那さんが、必要なんです」


「その言葉は……」


「はい。契約恋愛をしましょう。

伊那さんだけが、私の隣の席を埋められます」


車田 隼人が、契約恋愛を提案した。


——約二時間前。


伊那 澄は屋上から降りて、部署に戻った。


「わあ! おめでとうございます〜!」


どこかおかしかった。

いつもとは違う雰囲気が流れている。


出勤途中で押し合いへし合いされ、

魂が抜けたような疲労感ではなく、

誰かを祝う“お祭り”のような空気だった。


「結婚だなんて。本当に良いことですね!」


遅れて入ってきた澄は、

状況を把握するのに必死だった。


彼女の揺れる瞳を見かねた同期が、

耳元で小声で教えてくれる。


「社長と、成田 彩香主任が結婚するんだって。

さっき招待状配ってたよ」


「えええ?!

主任と?

私それも知らずに、この前屋上で余計なこと言っちゃって……」


「シッ!

それでみんな、余計に気を遣ってるんだよ」


そこへ、C部署を担当する社長、

金 鍾民が入ってきた。


やはり全員、同じ表情になる。

壊れたピエロのように笑顔を貼り付け、

ただ祝福するだけだ。


「社長〜! 本当におめでとうございます!」


金 鍾民は成田 彩香の肩に手を置いて言った。


「ははは、ありがとう。

結婚を記念して、ちょっと告知があってね。

みんな、集まってくれるかな」


澄は集まる人波の中でも、

一瞬で車田 隼人を見つけた。


なぜか彼は足を引きずりながら

金 鍾民の隣に立ち、

社長の言葉をボードに大きく書き始める。


【団体休暇旅行】


「今月の休暇は、団体旅行に決定だ!

結婚式は家族だけでささやかにやる予定だからね。

みんなも祝う気持ちで、旅行に参加してほしい!」


成田 彩香が横から付け加える。


「この招待状は、結婚式というより

旅行の招待状だと思ってください〜。

場所は済州島です。

夫が運営している別荘に泊まります。

夜はバーベキューしましょう!

もちろん、旅行費用は全部夫が出します!」


——あまりにも分かりやすい。


祝賀旅行を装った、

ご祝儀回収ツアーだった。


会社員の金のように貴重な有休を

社長のために使えという話に、

皆が引きつった笑顔を浮かべる中、

車田だけは気にも留めず一人で拍手をしていた。


澄も周囲の視線を気にしながら、

音を立てない拍手をする。


空気を読んだ金 鍾民が付け加える。


「ちなみに……有・給・休・暇、だ」


その瞬間、

部署中から歓声と拍手が沸き起こった。


その様子を見て、

金 鍾民はなぜか少し寂しそうな顔をした。


成田 彩香が彼の肩をぽんぽんと叩き、

本題に入る。


「新築のペンションと、古いペンションがあります。

部署の人数が多いので、

分かれて泊まることになりそうです。

申し訳ないんですが……

二人だけ、古いペンションに泊まってもらうことになりそうで。

譲ってくれる方、いませんか〜?」


男性社員二人が手を挙げた。


続いて、

車田 隼人も勢いよく手を挙げる。


彼を指して金 鍾民が言う。


「車田君。

一人で泊まるのは危ないよ。

人里離れてるし、虫も多い。

一人で使うには広すぎるしね。

君は一人なんだから、その二人に譲ったらどうだ?」


車田は手を下ろし、

背筋を正して答えた。


「社長。

まずはご結婚、本当におめでとうございます。

ですが私は、古いペンションに泊まりたいです」


周囲は彼の燃えるような意志に首を傾げた。


本来なら、

休暇日程が後輩と重なれば自分が譲り、

翌週にずらすタイプだった。

だが今回は、譲れなかった。


車田も、この旅行が

単なる休暇ではないことを理解していた。

上司の結婚を祝う、れっきとした社会的な約束だ。


一人で旅行を抜ければ、

印象が悪くなる可能性がある。

だから参加するには、

どうしても一人でペンションを使う必要があった。


「どうして?

アレルギーとか、持病でもあるのか?」


「いいえ、ありません」


「じゃあ、わざわざ一人で寝る必要ないだろ。

それなら、俺と一緒に使うか?」


「い、いえ!!

同性はちょっと……あっ」


——しまった。


一人で古いペンションに泊まらなければならない理由を

論理的に説明すべきだったのに、

彼はあまりにも正直すぎた。


嘘が得意ではないタイプなのだ。


アレルギーだと誤魔化せばよかった。

だが、

一緒に泊まりたい異性がいるような言い方をしてしまった。


特に成田 彩香が、

怪訝そうな目で車田を見る。


(普段は何を考えているのか分からないのに……

なんであんなに動揺してるの?

まさか……)


赤くなった顔と流れる冷や汗を見て、思う。


(泊まりたい相手が、いるの?)


実際は、

昨日ひねった右足が痛くて

冷や汗が出ているだけなのだが、

成田 彩香の乙女センサーは

とんでもない方向へ暴走した。


自分の結婚発表が後押しになって、

彼が勇気を出したのだと

勝手に満足し、

重大発表が来ると確信したように

目を輝かせる。


「チーム長、もしかして……

一緒に泊まりたい人がいるんですか?

そうですよね? ですよね!

だから紹介も断ってたんだ〜」


部署がざわつく。


「本当?」


「チーム長、恋愛してるの?」


「やっぱりね」と、

勝手に盛り上がりながら彼を追い詰める。


中でも金 鍾民が一番嬉しそうだった。

車田の背中を叩きながら大声で言う。


「くははは!

車田君、部署内で付き合ってる人がいるなら言っていい!

俺だって会社で妻と出会ったんだ。

縁が生まれるのは素晴らしいことだ!

社内恋愛、俺は全力で推すぞ!

それで、誰と泊まりたいんだ?」


追い詰められた車田。


それでもポーカーフェイスは崩さない。

いつも通りの冷たい無表情。


ただ、

澄の目には、

彼の瞳が大きく揺れているのが見えた。


(ここで答えれば答えるほど、

状況は悪化するだけだ。

こういう時は、話題を逸らす)


頭がこれまでになく高速で回転し、

ついに方法を見つけた。


「……っ!」


限界だというように、

右足首を掴んでその場に崩れ落ちる。


痛そうな動きとは裏腹に、

声色は完全にアンドロイド。


「き・の・う・あ・し・く・び・を・ひ・ね・た・の・で、

た・っ・て・い・ら・れ・ま・せ・ん」


今できる、最善の演技だった。


自分でも恥ずかしかったのか、

顔を上げない。


狙ったわけではないが、

痛くて顔を上げられないリアルさが加わった。


「大丈夫ですか?!」


「冷や汗すごいですよ!」


嘘に良心が痛んだが、

今はインソールを隠す方が優先だ。


良心と引き換えに、

話題は見事に逸れた。


皆の視線は痛そうな足首に集中し、

さっきまでの恋愛話も止まった。


ただし、

車田は一つだけ見落としていた。


C部署は福利厚生が充実しており、

ちょっとした救急外来並みの

救急箱が常備されていること。


さらに社長が、

応急処置インストラクターの資格を

持っていることだ。


金 鍾民は苦しそうな車田を見て、

澄に言った。


「伊那代理!

救急箱持ってきて。

車田君、立てないほどなら

靭帯を痛めてるかもしれない。

包帯巻くから、靴脱がせよう!」


——まずい。


「靴を脱がせよう」

その一言で、

車田はどこか壊れたように固まった。


嘘が大事になったせいか。

こんな結果は計算に入っていなかった。


「ぼーっとして何してる?

靴も脱げないくらい痛いのか?」


状況が脳に入力されるまで、三秒。


3


社長が車田のズボンの裾を掴む。


2


裾をまくり上げ、靴を脱がしにかかる。


1


靴が、がたんと音を立てて抜けかけた。


もう表情管理は限界だった。

瞳が大きく揺れる。


「社長!!!!

そこまでしなくて大丈夫です!!!!

実は、そんなに痛くありません!!」


入社してから初めて、

声を荒げた。


新入社員が重要書類を失くした時でさえ、

一定のトーンを保っていた車田の声が、

水に濡れたアンドロイドのように掠れる。


「今すぐ半休を取って、

病院に行ってきます!!」


だが金 鍾民は、むしろ強く出た。


普段、欠勤一つしない男が

座り込むほどだ。

それだけ痛いのだと心配したのだ。


「じっとしてろ!

熱があっても半休取らなかった人間が、

どれだけ痛いって話だ!」


ズボンの裾を一気にまくり上げる。

腫れ上がった足首が露わになる。


「足首がこんなに腫れてるのに放っておくのか!

早く靴脱げ!」


一触即発。


このままでは靴は社長の手で脱がされ、

空中からインソールが

ばらばらと落ちる。


——終わる。


車田は、再び話題を逸らす方法を考えた。


そしてこの状況を作った、

成田 彩香の言葉が脳裏をよぎる。


「チーム長、もしかして……

一緒に泊まりたい人がいるんですよね?」


自分の秘密を知っていながら、

絶対に口外しないはずの人物を思い出す。


伊那 澄。


もう方法はなかった。


10cmのインソールがバレて

皆の笑い者になるより。


辞表を出して無職になるより。


社内恋愛をしていると

誤解される方が、まだリスクは低い。


車田は目をぎゅっと閉じ、

叫んだ。


「私、

伊那さんと一緒に泊まりたいです——!!」


魂のこもった叫びに、

社長は靴を脱がせる手を止め、

澄を見た。


救急箱を持って戻ってきた澄が、

思わず叫ぶ。


「ええっ——?!?」


車田は助けを求めるような目で、

彼女を見る。


初めて見る、切実な眼差し。


(……今、助けてってことね)


突然の爆弾発言に、

部署は壊滅状態になった。


澄の同意もなく、

車田が勝手に起こした事態だ。

彼女が助けなくても、

文句は言えない。


申し訳なさでいっぱいの車田とは裏腹に、

澄にとっては幸運だった。


公私を徹底的に分ける

チームリーダー・車田 隼人の心へ続く、

たった一つの道が開いたのだから。


伊那 澄という乾いた大地に、

車田 隼人という水が流れ込むような

快感が走った。


誰がこの助け舟を拒むだろう。


餌も付けていない釣り竿に、

車田 隼人という大物がかかった状態。


さて、この大物をどう釣り上げるか。


澄の頭は、これまでになく速く回転した。


天から降ってきた黄金の命綱を、

逃すわけにはいかない。


救急箱から取り出した包帯を、

そっと後ろポケットに押し込む。


パンッ!


車田から完全に視線を逸らすため、

大きく手を叩いた。


「まあ……よりによって、

湿布も包帯もありませんね!」


言葉とは裏腹に、

ポケットの包帯ははち切れそうだった。


張り詰めたスカートの中で、

脚が忙しなく動く。


とぼとぼ。


澄は車田の手を取り、

肩を貸した。


「私が責任を持って、

隣の部署に行って湿布と包帯を借りてきます!

車田さん、立てますか?」


天井の照明が澄を照らす。

その後光は、まるで天使のようだった。


(伊那さん……)


その瞬間を逃さず、

車田は素早く立ち上がる。


「待って!」


その時、扉へ向かう二人を

社長が呼び止めた。


一緒に泊まりたいとは言ったが、

付き合っているとは言っていない。


だからこそ、

関係を確認するように尋ねた。


「二人……

もしかして、付き合ってるのか?」

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