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4/5

4cm

靴を履き直す、その瞬間だけは、静寂が流れた。


とん、とん。


床に落ちたインソールを拾って靴の中へ戻し、

靴の縁を地面に軽く打ち付ける。


その音以外、言葉はなかった。

まるで薄氷の上に立っているような、張りつめた空気。


澪は、その空気を和らげようとして、寒い冗談を口にした。


「はは……チームリーダー。

私もマンホールの蓋にヒールが挟まって折れたことありますよ。

今と、ちょっと似てません?」


隼人は、インソールを入れかけた手を止め、

半目で澪を見上げた。


「それは……そんなに恥ずかしがることでは……」


空気を和らげるつもりの冗談が、

どうやら彼の傷に触れてしまったらしい。


隼人は、傷ついたような表情で、深く息を吐いた。


「伊那さん」


「……はい」


「背の高い伊那さんにとっては、大した問題じゃないかもしれません。

ですが、私にとっては重要なことです。

“大したことじゃない”という言い方はしないでください。

慰めも、同情も、必要ありません。

ただ……会社には、秘密にしてください」


場を和ませたかっただけだ、と。

彼のコンプレックスを、決して軽く見たわけじゃない――

そう言いたかった。


けれど、こちらを見る彼の瞳が、あまりにも脆そうで。


月明かりを受けて歪んだその瞳は、

揺らめいて、まるでオーロラのようだった。


結局、澪は何も言えなかった。

胸の奥が、妙に詰まる。


隼人は靴の中へ、右足を差し入れる。


ようやく左足と高さが揃い、

再び“10cm上”へ戻った。


それだけで自信を取り戻したのか、

額の冷や汗はすっと引いた。


彼は静かに路地を抜けながら言った。


「……明日、会社で」


足を引きずるその背中は、

どこか頼りない子どものようで。


遠くで点になって消えていくまで、

澪は居酒屋へ戻れなかった。


ぎぃ——。


「遅っ! タバコ吸ってて倒れたのかと思ったじゃん……」


長いこと待っていた美月は文句を言いかけ、

澪の泣きそうな顔を見て、言葉を変えた。


「……なに、その顔。どうしたの? 何かあった?」


「……美月。

私の顔つき、そんなにキツい?

空気を和らげたくて言った冗談だったんだけど。

ちゃんと、笑いながら言ったんだよ」


「あー……自覚ない?

あんた、笑うと目と口が別々に動くの。

目はムスッとしてるのに、口角だけ上がるから、

ちょっと“鼻で笑ってる感”ある」


手鏡を取り出して、笑ってみる。

さっきの言葉も、そのまま当てはめてみた。


「はは……チームリーダー。

私もマンホールの蓋にヒールが挟まって折れたことありますよ。

今と似てません?」


……ぱたん。


表情を見て、鏡を伏せた。


自分で見ても、冗談を言う顔じゃない。

冗談と呼ぶには、鋭い目つきが意地悪すぎた。


ただ、目で嘲笑っているみたいだった。

ふっ、と。


落ち込んだ背中を、美月がぽんぽんと叩く。


澪は小さく呟いた。


「……私、前世で白雪姫だったのかも」


「は?」


「りんごばっかり収穫してるから……

また、謝る用事が増えた」


——


翌日。


澪は出勤するだけで、死にそうだった。


両手いっぱいのコーヒー二十杯と、

アイスティーが一本。


チームリーダーだけに渡すのも気が引けて、

部署全員分をまとめて買ったのだ。


出費も痛いが、

二時間も早く出社したせいで、なおさらつらい。


まぶたが、重力に逆らえない。


作戦はこうだ。


隼人は、普段から一時間早く出社する。

彼が来たらアイスティーを渡し、

少し時間をもらう。


あれは冗談だったこと。

決して、嘲笑したわけじゃないこと。

誤解を解く。


澪は、頭の中で台詞を繰り返す。


(すみません、お時間少しください。

チームリーダーとお話ししたくて、早く来ました。

すみません……)


シミュレーションを回しながら、扉を開けた。


がちゃ。


――開かない。


普段からノブが固く、

朝は凍りついていることが多い。


澪は何事もないように、右手の握力で扉をこじ開けた。


ちなみに、澪の右手の握力は58。

運動をしていたため、平均男性の40を軽く超えている。


「……チームリーダー?」


気配に気づいた隼人は、ぴしっと固まった。


彼は椅子の上で、つま先立ちになり、

蛍光灯を替えていたのだ。


案の定、椅子の下には、脱いだ靴。


澪の顔を確認し、

隼人はほっとしたように息を吐いた。

他の誰でもなかったことに、安堵したのだろう。


澪は、

“自分が隼人を迎える場面”しか想定していなかった。


“隼人に迎えられる”状況は、計算外だった。


緊張のせいで、言葉が滑る。


「すみません、どうしてこんなに早く……?」


言った直後、澪自身も固まった。


「……蛍光灯を替えに来ただけです。

言い間違いだって分かりますから、力抜いてください」


「……はい」


蛍光灯を替え終えたのか、

隼人は椅子から降りた。


「行きましょう」


「え、ど、どこへ?」


「昨日の件で、私と話すために早く来たんでしょう?

屋上へ行きましょう。伊那さん、タバコも吸うついでに」


慌てる澪を、男が落ち着かせる。


隼人は、彼女が両手に持っている飲み物を見て、匂いを嗅いだ。


「……アイスティー、私のですよね?」


澪はこくりと頷いた。


「いただきます」


そう言って、

ストローを差し、自然に持っていった。


二人は一緒に屋上へ上がり、

フェンスに並んで立つ。


涼しい風が吹き、

耳をくすぐる感覚が、なぜか心地よかった。


「吸わないんですか?」


隼人は、後ろポケットのタバコを指さした。


「あ、はい……吸います」


火を点けようとして、ライターを探す。

だが、後ろポケットにも、前ポケットにも、何もない。


そのとき思い出した。

昨夜、酔って、ライターを空に投げながら帰ったことを。


見かねた隼人が、ライターを取り出し、

澪に一歩近づいた。


カチッ。


火を点け、

風で消えないよう、反対の手で覆う。


すぐ隣で、彼の呼吸が聞こえる。


(ちょ、近すぎ……!)


うなじに、ほのかなムスクの香り。

ライターを持つ指は、骨ばっていた。


タバコに火がついた。

距離が近すぎて、息を吸えない。


風が吹き、

ライターの火も、ふっと消える。


隼人は、呆れたように澪を見た。


「……吸わないんですか?」


再び、火が点く。


「チームリーダー、タバコ吸うんですか?」


非喫煙者の彼がライターを持っているのが、不思議で聞いた。


火がつく。


隼人は慣れた手つきで、ライターをポケットにしまった。


「吸いません。

ただ……意味のある物なので、いつも持ち歩いているだけです」


(意味のある物……誰にもらったんだろう)


半分ほど吸うまで、沈黙が続いた。

どうやら、吸い終わるのを待ってくれているらしい。


(タバコを吸うために、時間もらったわけじゃない)


澪は半分ほど残ったタバコを、灰皿に押し付けた。


「チームリーダー」


「はい」


「昨日のは、

チームリーダーのコンプレックスを笑ったわけじゃありません。

ましてや、嘲笑するつもりなんて……」


「……」


「昨日は空気がすごく冷たくて。

和らげたくて言った冗談だったんです。

でも、悪く聞こえたかもしれない。

……軽率でした」


「いいえ。謝る必要はありません」


「同情なんて、もっと違います。

私だって、背が高いことで、たくさん傷ついてきましたから」


隼人は、澪を上から下まで見て言った。

理解できない、という声音で。


「……伊那さんが、ですか?」


今度は澪が、半目で見返す。


「……なんでです?

背が高い私は、傷ついちゃいけないんですか?」


「あ、そういう意味では……」


隼人の次の一言で、脈拍が乱れた。


「伊那さんみたいに素敵な女性を、

傷つける連中がいるなんて、信じられなかっただけです」


どく、どく、どく。


「……私が、素敵?」


隼人は真剣な目で、澪を見つめ返した。

少なくとも、昨日のような傷ついた目ではなかった。


「私が見てきた中で、一番素敵です」


どくどくどくどくどくどく!


「……全然ですよ。

背が高いせいで、小学生の頃、変なあだ名もありましたし」


「どんな?」


「笑っちゃダメですよ」


「約束します」


「えっと……当時流行ってた漫画があって。

『進撃の巨人』っていうんですけど。

私、陸上部だったから、走り方が似てたみたいで……

女型の巨人……」


「……ぷっ」


隼人は慌てて背を向けた。


肩が、小刻みに上下している。


笑わないと約束したのに、

堪えきれなかったらしい。


「ほら〜、やっぱり笑うと思った!」


ごめん、と言いながら振り返る。


笑うのが恥ずかしいのか、

手の甲で顔の半分を隠していた。


指の隙間から、

半分に折れた目が見える。


笑って細くなったその目元は、

昨日見た三日月みたいだった。


澪は思った。


――ああ。

月みたいに冷たい印象も、

陽だまりみたいになるんだ。


(笑うと、涙袋が半分に折れる……

なに、可愛すぎない?)


「……こほん。

とにかく、よく分かりました。

飲み物、ありがとうございました。

それと、謝る必要がないと言ったのは……

そもそも、誤解していなかったからです」


「昨日、怒って帰ったんじゃないんですか?」


「伊那さんに怒っていたわけじゃありません。

ずっと憧れていた人に、

弱みを見られて恥ずかしくて、逃げただけです」


驚いて、タバコの箱を落とした。


隼人は「先に戻ります」と言って、入口へ向かう。


「チームリーダー、待ってください!

憧れてた人って……もしかして、私ですか?」


少し考えたあと、肩をすくめる。


「……さあ」


扉が閉まった瞬間、

足から力が抜けて、その場に座り込んだ。


(なに、このツンツンしてて可愛い生き物……)


最初は、ただの興味だった。


面接のとき、

優しい言葉をかけてくれた姿が、

少し気になっただけ。


それがいつしか、関心になり、

気づけば――恋になっていた。


もっと、チームリーダーのことを知りたい。


もっと、いろんな表情を見たい。

できるなら、自分が笑わせたい。


これが恋じゃなかったら、何だというのか。


……けれど、胸の高鳴りも束の間、

澪は深いため息をついた。


(諦めるべき?

これは、ほとんど望みのない恋だよ。

だって、相手はチームリーダーだ)


実際、隼人は

社会人の中でも稀なワーカホリックだった。


「恋愛?

そんな時間があるなら、

溜まった仕事をどう片付けるか考える方が、

百倍マシでしょう」


――そう、本人が言っていたのだから。

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