3cm
「チームリーダー……こんなところで、どうされたんですか?」
隼人は右手に持った紙袋を軽く揺らしながら言った。
「蛍光灯が切れていたので、買いに来ました。
明日からは同期で交代しながら替えてもらいます。今日、メールで共有しました」
「私がやっても大丈夫ですよ?」
「なぜ伊那さんがやるんですか。
伊那さんが背が高いのは事実ですが、それは蛍光灯を替えるための道具ではありません」
見下ろすような彼の視線に、なぜか胸が高鳴った。
――今が、謝るには一番いいタイミングかもしれない。
気づけば、遠ざかろうとする彼の袖を、ぎゅっと掴んでいた。
「……チームリーダー、ごめんなさい」
「何がですか?」
「チームリーダーの身長を173cmだって言ったことです」
「……私は、そこまで心が狭い人間じゃありませんよ」
「私の失言で、チームリーダーが聞かなくていい話まで聞いてしまったじゃないですか。
結婚のこととか、子どものこととか……本当に、ごめんなさい」
「……まあ、大丈夫です。謝る必要はありません。
そもそも、怒ってもいませんでした。
173cmでも174cmでも、誤差みたいなものですし。
それに、もっとひどいことを言われたとき、伊那さんはむしろ庇ってくれていましたよね」
「じゃあ……今まで冷たくされたのは、どうしてですか?」
隼人は思い出せないというように、首を小さく傾げた。
「それは、いつの話ですか?」
「ほら……蛍光灯を替えてほしいってお願いしたのに、
ドアを閉めて出て行ったり。
それに、シェアハウスでも“気まずい人とは泊まりたくない”って……
そのときは平気なふりをしてましたけど、結構、傷ついたんですよ……」
澪は思わず、唇を尖らせた。
「ああ……あれですか」
隼人は、しゃがみ込んでいた澪の前に立ち、手を差し出した。
「とりあえず、立ちましょう。床、汚いですから」
澪はその手を取り、立ち上がると、続きを待った。
「冷たく感じたなら、すみません。
言えない事情があったんです。
私は伊那さんを嫌ったことも、憎んだことも――
……伊那さんの手……手!」
彼の切迫した声と同時に、
煙草の灰が、じゅっと指に落ちた。
「っ、熱っ!!」
慌てて煙草を捨てようとした拍子に、
今度は吸い殻を誤って太ももの上に落としてしまう。
熱さに驚いてバランスを崩し、
澪は隼人を踏み台にするように、後ろへ倒れた。
ドミノ倒しのように、二人の体が続けて崩れる。
その拍子に、隼人は右足首をひねった。
ドンッ。
捻った足から、革靴が脱げ落ちる。
彼の硬い胸元に、澪の頬がぶつかった。
どくどくと響く心臓の音に、慌てて身を起こす。
「チームリーダー!大丈夫ですか?」
「……痛いです」
すぐに彼の様子を確認する。
幸い、目に見える怪我はなさそうだった。
ただ、少し離れたところに、
脱げた靴が転がっているのが見えた。
反射的に、その靴を拾いに向かう。
隼人は胸元の違和感に気づき、嫌な予感がして上体を起こした。
遠くで、澪が靴を拾っているのが見える。
「伊那さん!待ってください、そのままで――」
彼が叫んだときには、すでに遅かった。
「……はい?」
手に取った靴が、妙に重い。
澪は、何か付いているのかと思い、
靴底を確認した。
靴の中で、何かが入っているような、かすかな振動。
(……なんか、重くない?)
石でも入っているのかと、上下に振る。
――違った。
白いスポンジのようなものが、ぽろぽろと落ちてきた。
拾い上げてみると、
靴とセットのように、足跡の形をしている。
(……これ、インソール……?)
そう。
普通の中敷きではない、
明らかに分厚いシークレットインソール。
案の定、白いスポンジの側面には、
小さく「10cm」と書かれていた。
数字を見て、無意識に計算する。
(えっと……チームリーダーが174cmだとしたら、10cm引いて……)
「……164cm!?」
思わず声が出た。
慌てて口を押さえたが、もう遅かったのかもしれない。
驚きのあまり、ひくっとしゃくり声が漏れる。
ひくっ。
澪は、ゆっくりと振り返った。
隼人は平静を装って立っていたが、
秘密を見られたせいか、どこか気まずそうだった。
立ち姿も、どこか不自然だ。
靴の脱げた右足は宙に浮き、
靴を履いた左足だけで、かろうじて体を支えている。
とぼ、とぼ。
まるで透明な階段を上るように、
こちらへ歩いてくる。
かすかに震える声が、壁に当たって反響した。
「……靴を、返してください」
その瞬間、澪はすべてを理解した。
蛍光灯の件で、なぜあんなに冷たくされたのか。
なぜシェアハウスで、一緒に泊まろうとしなかったのか。
隼人はただ、
シークレットインソールがばれる状況を避けていただけだったのだ。
思い返せば、彼はいつだって優しかった。
今日だってそうだ。
直接替えてはくれなかったが、
わざわざ休日を使って、蛍光灯を買いに来ていた。
シェアハウスでも、
一緒に泊まるのを避けただけで、
無言で立ち去ったわけではなかった。
あの日の朝――
シェアハウスを出たときのことだ。
———
タクシーを呼ぼうとしたとき、
遠くから見覚えのある車が入口へ近づいてきた。
車が止まり、窓が下りる。
徹夜明けのようなクマを浮かべた男。
――隼人だった。
朝になったら、一緒に行こうと、
駐車場で待っていたのだ。
「……乗ってください」
訳も分からないまま、後部座席に乗り込む。
あくびをする彼に、
用意していたワインを、照れながら差し出した。
「……なぜワイン?」
無意識に髪を指で弄びながら答える。
「その……お礼です。
次からは、先に行っても大丈夫ですよ。
車で寝ると、体に悪いですから」
「上司が部下を気遣うのは、当然です。
そこまで感謝される必要はありません」
———
ようやく、すべてのピースが繋がった。
完成形である“車田 隼人”に、
一つ欠けていたピースがあるとすれば――
それは、身長にまつわる感情だったのかもしれない。
(今まで、全部事情があったんだ……
私は、それも知らずに……)
隼人は足を引きずりながら、澪の前まで来た。
左足で立つときは、いつも通り。
だが、右足に体重をかけると、
まるでマンホールに落ちるように、すとんと沈む。
「……靴、取ります」
何事もないように、
靴を整え、履き直す。
平然とした表情とは裏腹に、
冷や汗が、額を伝って流れ落ちていた。




