2cm
冷たく落ち着いた低音の声は、まるで罠のようだった。
澪は、罠にかかったトカゲのように、身動きが取れなかった。
「……はい」
「後ろの列は4cmで終わりです。3cmじゃありません」
「は、はは……そうですよね!私の言い間違いでした。では、先に失礼します!」
トカゲは尻尾を切って逃げた。
階段を下りながら、謝るべきだったのかと考えた。
けれど、さっきの発言は、今さら謝るにも微妙ではないだろうか。
「チームリーダーの身長を173cmだと言ってしまって、すみません」
そう言えば、
彼の背が低いことを認めてしまうような気がした。
(そもそも、陰でチームリーダーの話なんてするべきじゃなかった)
どう謝るべきか、その機会ばかりを伺っているうちに、
気づけば二ヶ月が過ぎていた。
———
話が終わるや否や、肩を掴んで揺さぶってくる美月。
「ちょっと待って。あんた、前に気になる人がいるって言ってたでしょ?
それ、チームリーダーだったの?」
澪は力なく、揺れる肩に身を預けた。
言葉を発する口から、魂が抜けていくような感覚がする。
「うん……でも、始まる前に終わった。
私の失言で、完全に嫌われたと思う」
美月は焼酎を注ぎながら言った。
「え〜、そんなことないって。聞いてなかった可能性もあるでしょ?」
「聞いてなかったら、ここまで嫌われないよ」
それは絶対にありえないと、
一ヶ月ほど前の出来事を口にした。
———-
一ヶ月ほど前。
部署の蛍光灯が切れたとき、社長が澪に声をかけた。
「澪さん、身長いくつだっけ?」
「179cmです」
社長は手に持っていた電球を澪に差し出しながら言った。
「本当は自分で替えたいんだけど、腰を痛めててね。
背が高い澪さん、代わりにやってくれない?」
「……はい」
それ以来、電球交換は澪の“残業仕事”になった。
不満はあったが、我慢できた。
あの場で断っていたら、隣にいた車田に押し付けられていただろう。
しかも、屋上での一件が起きた直後だった。
これ以上、嫌われたくなかった。
少しでも彼の役に立てるなら、それでよかった。
だが、毎回遅くまで残って電球を替えるのは、やはり面倒だった。
しかもその日は、前日の雨に当たったせいで体調も悪い。
椅子に乗ろうとするたび、目の前がぐらりと揺れた。
ようやくバランスを取って椅子に立ったその時、
車田が部署に入ってくる。
「まだ帰らないんですか?」
「チームリーダー……できればお願いしたくなかったんですが、
体調が悪くて。電球、代わりに替えてもらえませんか?」
車田は椅子の上にいる澪を、上から下まで見回した。
そして、脱ぎ捨てた靴で視線を止める。
「……もう少しで終わりそうですね。最後までやってください。
伊那さん、私より背も高いじゃないですか」
そう言い残して、ドアを強く閉めて出ていった。
———-
回想を終えると同時に、美月もビールジョッキをドン!と置いた。
テーブルのつまみが揺れるほどの勢いだ。
血圧が上がったのか、額を押さえて言う。
「何なの、そのクソみたいな男」
「普段はそんな人じゃないの。
きつい仕事は全部自分で引き受けてくれるし……
やっぱり屋上で私が言ったこと、聞いてたんだと思う」
「それでも、体調悪い人置いて帰る?
椅子から落ちて、大怪我でもしたらどうするのよ!」
味方してくれる友人の言葉に、澪の目が潤む。
「美月……それでね、まだあって……」
———-
澪は、電球の件以来、完全に目をつけられたと思っていた。
そして、ちょうど謝るチャンスが訪れた。
出張帰りに、シェアハウスに一緒に泊まることになったのだ。
階ごとに男女は分かれていたが、
リビングは男女共用の休憩スペースだった。
そこで缶ビールを一本飲みながら、誤解を解くつもりだった。
屋上でのことを謝り、
彼の好きなワインを渡す計画まで立てていた。
だが、靴を脱いで入る澪とは違い、
車田はぼんやりと立ち尽くしたままだった。
靴を下駄箱に入れながら、澪が尋ねる。
「チームリーダー、入らないんですか?」
「ここ、外履きのままでいいって聞きましたが。
ブログにもそう書いてありました」
「あ、それ……リフォームで変わったんです。
チームリーダーが見たブログ、たぶんリフォーム前のですよ」
車田はスマホを取り出し、記事の日付を確認した。
投稿日は四年前。
急いで予約したせいで、そこまで見ていなかったのだ。
カチャリ。
鞄から車の鍵を取り出す車田。
「気まずい人と一緒に泊まるのは、正直きついですね。
先に失礼します」
澪の我慢も、そろそろ限界だった。
円満に解決したいと思っていたが、
無遠慮な言葉を投げてくる相手に、これ以上譲るつもりはなかった。
(なに……なに、あの人……!)
———-
「でしょ?何なの、その人」
相槌を打つ美月を背に、澪は煙草を取り出した。
話しているうちに、胸の奥がひりひりしてきた。
気分転換が必要だった。
「煙草やめなよ。肺、腐るよ」
「腐らせるために吸ってるの。
いっそ肺活量落ちて、運動できなくなったら最高」
酔いを冷ますため、澪は外に出て煙草に火をつけた。
路地に腰を下ろし、夜空に浮かぶ月を見上げる。
(白くて、遠くて……届かないところが、
まるでチームリーダーみたい)
ふと、月を掴もうと手を伸ばす。
その様子を不思議そうに見ていた男が、声をかけた。
「……伊那さん?」
目の前に、嘘みたいに車田 隼人が立っていた。
ラフな格好の自分とは違い、
彼は私服姿で、
乱れのないシャツにスラックスを着こなしていた。




