〇新しき光
西暦359年6月、前秦の都、長安に緊張が走った。前秦の皇帝であった苻生は、その残虐な行いから「暴君」と恐れられていた。彼の統治は、まるで血に飢えた獣のように、多くの忠臣や無辜の民を犠牲にしてきたのだ。権力に溺れ、精神的に不安定な彼の存在は、建国間もない前秦の内部を蝕んでいた。
しかし、その暴政に終止符を打つべく立ち上がった者がいた。彼こそが、苻堅――苻生の従兄弟にあたる人物である。苻堅は、氐族の出身でありながら、民族や出自にとらわれず、賢い人材を登用しようとする、寛大で理想主義的な性格の持ち主であった。彼は、乱れた世に統一をもたらすという壮大な夢を抱いていたのだ。
その夜、長安の宮殿は、いつもとは異なる静寂に包まれていた。風に揺れる灯りが、不穏な影を壁に落とす。 「陛下は、また酒宴の最中か……」 ある兵士が、小声で呟いた。 「ああ、そしてまた、誰かが消えるのだろうな。」 別の兵士が、暗い目で続けた。 人々の心は疲弊しきっていた。今や、苻生の治世を望む者は、誰一人としてい(い)なかった。
その深い闇の中、苻堅は密かに兵を動かした。彼は、自分の理想を実現するためには、この暴君を排除するしかないと決意していたのだ。計画は周到に進められ、一瞬にして宮殿は苻堅の兵に制圧された。
苻生は、酒に酔いしれたまま、何が起こっているのか理解できない様子だった。彼の目の前に、静かに立つ苻堅の姿があった。 「叔父上……何をする……?」 苻生の声は、すでに力を失っていた。 苻堅は、冷徹な眼差しで彼を見下し、言った。 「お前の暴政は、この国を、そして民を、滅ぼす寸前まで追い詰めた。もはや、これ以上はお前を許すことはできぬ。」 そして、その手によって、苻生はついに廃され、殺害された。長年にわたる暴君の時代は、あっけなく幕を閉じたのである。
暴政に苦しんでいた前秦の民は、この報せを聞くと、安堵のため息をついた。そして、新たな時代への期待が、ゆっくりと膨らみ始めた。
苻堅は、前秦の天王(後に皇帝となる称号)として即位した。彼の即位は、前秦の政治を安定させ、後の華北統一に向けた重要な転換点となった。 苻堅は、即位するやいなや、賢臣である王猛を登用した。王猛は、漢人の宰相(皇帝を補佐する最高位の官職)であり、彼の内政手腕は非常に高く評価されていた。
「王猛よ、そなたの力が必要だ。この混乱の世を正し、真の太平を築くために、共に歩んでくれぬか。」 苻堅は、王猛の手を取り、熱い眼差しで訴えかけた。 王猛は、深く頷いた。 「陛下の御志に、この身を捧げましょう。民が安んじ、国が栄える日まで、尽力いたします。」
苻堅は、王猛と共に(ともに)、内政の改革と軍備の強化を積極的に進めていった。彼らの手腕によって、前秦は、これまでの混乱から立ち直り、強大な国家へと変貌していくことになる。この時、華北の地に、新たな統一の兆が確かに見え始めていたのである。
〇覇者たちの思惑
西暦360年、華北の東に広がる前燕の宮殿に、深い悲しみが影を落としていた。前燕の勢力を大いに拡大し、その最盛期を築き上げた皇帝慕容儁が、ついにその生涯を終えたのだ。慕容儁は、父慕容皝の築いた基盤を引き継ぎ、軍事的才能と強い推進力で国を大きく発展させた、まさしく野心に満ちた指導者であった。
彼の死によって、幼い息子の慕容暐が、若くして帝位に就くことになった。慕容暐は、まだ経験が浅く、重臣たちの力に頼らざるを得ない立場だった。しかし、彼の周りには、傑出した軍事指揮官であり、冷静沈着な知略を持つ叔父の慕容恪をはじめ、有能な家臣が多く控えていた。彼らの支えによって、前燕はなお最盛期を保ち続けることとなる。
一方、華北の西方では、新たな時代の幕開けを告げる出来事が着実に進んでいた。西暦361年、前秦の皇帝、苻堅は、本格的な内政改革と軍備増強に力を入れ始めていた。苻堅は、民族や出自に囚われず、賢い人材を登用する寛大な性格を持っていた。彼にとって、最も(もっとも)信頼を置く賢臣が、前年に登用した王猛であった。王猛は、漢人の宰相として、すでに内政手腕の高さを発揮していた。
ある日、長安の宮殿の一室で、苻堅と王猛は、地図を広げ、真剣な面持ちで語り合っていた。 「王猛よ、この乱世を収め、民に安寧をもたらすには、何よりもまず強固な国家体制を築き上げる必要がある。」 苻堅は、力強く言った。彼の目には、天下統一という壮大な理想が宿っていた。 王猛は、静かに答えた。 「陛下のお言葉、誠にごもっともにございます。私は、租税の制度を整え、疲弊した民の生活を立て直すことから始めたいと存じます。それと同時に、軍の訓練を強化し、兵士たちの士気を高めることも欠かせません。」 「うむ、そなたに任せる。この国の未来は、そなたの手腕にかかっていると言っても過言ではない。」 苻堅は、王猛への絶大な信頼を示した。
王猛は、その期待に応えるべく、内政改革と軍備増強に尽力した。疲弊していた民衆の生活は改善され、兵士たちの士気も向上していった。前秦の国家体制は、かつてないほど盤石(基礎がしっかりしていて揺るがない様子)なものになっていったのである。
一方、長江を隔てた南方では、東晋という漢民族の王朝が、北方の動向を静観しつつも、虎視眈々(こしたんたん)(隙を狙い機会を窺う様子)と機会を窺っていた。西暦362年、東晋の実力者である桓温は、北伐(北方の異民族を討伐すること)の計画を進めていた。桓温は、強烈な野心家であり、自らの能力に絶対的な自信を持つ、東晋を代表する武将兼政治家であった。
「今こそ、北の地を回復する時だ。長安を奪還し、晋の栄光を再び取り戻すのだ!」 桓温は、幕僚たちを前に、高らかに宣言した。 彼の言葉には、中原(中国の中心部の平野地帯)への強い思いと、己の力で天下を動かそうとする野望がにじみ出ていた。桓温は、大規模な軍事行動の準備を着々(ちゃくちゃく)と進めていく。
華北では、前燕が最盛期を謳歌し、前秦が苻堅と王猛の二人三脚によって着実に力を蓄え、そして南方では、東晋の桓温が北への眼差しを鋭くしていた。それぞれが、互いの動き(うごき)を牽制し、自国の勢力拡大を狙う。
〇三国の思惑と洛陽の悲劇
西暦362年、華北の西に位置する前秦では、皇帝の苻堅が、天下統一への歩みを着実に進めていた。彼は、民族や出自にこだわらず有能な人材を登用する寛大な君主であった。特に、賢臣として名高い王猛の助言に耳を傾け、内政改革と軍備増強に尽力していた。
「関中の小勢力は、このまま放置すれば、いつまでも争いの種となる。速やかに併合し、民に安寧をもたらすのだ。」 苻堅は、臣下たちに命じた。関中とは、現在の陝西省中部にあたる地域で、古より重要な土地とされてきた。彼の言葉には、天下統一という壮大な理想を抱きつつも、足元から固める堅実な姿勢が表れていた。
前秦の軍は、周辺の小勢力を次々(つぎつぎ)と制圧し、関中地域の統一を着々(ちゃくちゃく)と進めていった。王猛の指揮の下、兵たちは規律正しく、民を乱すことなく進軍したため、占領地でも大きな混乱は生じなかった。
西暦363年になると、苻堅の統治はますます安定し、前秦の国力は着実に増強された。特に、漢人の知識人を積極的に登用したことは、前秦の国家運営に大きな恩恵をもたらした。彼らは、法律や制度の整備に貢献し、税の徴収や戸籍の管理といった行政の実務を効率的に進めた。 ある日、王猛は苻堅に報告した。 「陛下、関中はほぼ平定され、民も安んじております。新たに登用した漢人の官僚たちも、それぞれがその才を遺憾なく発揮し、政は円滑に進んでおります。」 苻堅は満足げに頷いた。 「良い報せだ、王猛よ。そなたの尽力のおかげだ。我らの夢である天下統一は、着実に近づいている。」
一方、華北の東方に広がる前燕では、慕容恪がその軍事の才を遺憾なく発揮していた。慕容恪は、冷静沈着で卓越した軍事の天才であり、前燕の最盛期を築き上げる上で中心的な役割を担っていた。
西暦364年、慕容恪は、兵を率いて洛陽へと進軍した。洛陽は、かつて西晋の都であった古都であり、その支配は、華北の覇権を象徴する意味を持っていた。 「洛陽を攻め落とせ!我ら前燕の力を天下に知らしめるのだ!」 慕容恪の号令の下、前燕軍は洛陽の城に猛攻を仕掛けた。東晋が一時的に回復していた洛陽の守りは固かったが、慕容恪の巧妙な戦略と兵士たちの奮戦により、ついに城は陥落した。
洛陽の奪還は、東晋にとって大きな痛手となった。都の建康(現在の南京)では、桓温が長安方面への北伐を計画していた矢先のことであった。彼の強烈な野心も、洛陽喪失という現実の前には、一時的に影を潜めることとなった。
「洛陽が、また異民族の手に…。」 東晋の朝廷には、深い(ふかい)落胆の声が響き渡った。 洛陽を失ったことで、東晋は再び(ふたたび)華北への影響力を低下させざるを得なかった。中原回復の夢は、またも遠のいたかに見えた。
華北の各地で、それぞれが覇権を争う三国の思惑が交錯する中、歴史の歯車は休むことなく回り続けていた。前秦は着実に地力を蓄え、前燕は広大な版図を誇り、東晋は失われた栄光を夢見ていた。この時代のうねりは、これからさらなる激動を呼び起こすことになるだろう。