灼熱の時代:五胡十六国時代記⑦
〇覇権を巡る群雄の思惑
西暦355年、華北の空は相変わらず厚い雲に覆われ、各地で新たな勢力が台頭し、旧勢力は内乱に喘いでいた。まさに群雄割拠の時代、五胡十六国は、その混沌の渦中にあった。
華北の東部では、鮮卑族の国、前燕がその勢力を急速に拡大させていた。その中心にいたのは、前燕の軍事を牽引する傑出した将軍、慕容恪である。彼は、父である前燕の建国者、慕容皝の意志を継ぎ、その軍才をいかんなく発揮していた。
「恪よ、後趙の旧領である幽州と冀州の一部は、もはや我らの掌中にあるも同然。しかし、油断はならぬぞ。」
前燕の皇帝、慕容儁は、弟である慕容恪にそう語りかけた。慕容恪は冷静沈着な男で、その瞳の奥には常に先の先を読む知略が宿っていた。彼は静かに答えた。
「兄上のお言葉、肝に銘じます。後趙が滅び、その残党が各地で蠢いておりますが、彼らは決して一枚岩ではございません。各個撃破し、着実に我らの支配を固めていく所存にございます。」
慕容恪の指揮のもと、前燕軍は規律正しく、そして容赦なく進軍を続けた。かつて後趙の暴君、石虎の圧政に苦しんだ幽州や冀州の人々は、前燕の軍を前に、はじめは警戒したが、慕容恪の公正な統治に触れるにつれて、次第に安堵の表情を見せるようになった。
一方、華北の西北、河西回廊に位置する漢民族の国、前涼では、全く異なる嵐が吹き荒れていた。前涼の君主であった張重華が、この年、急逝したのである。彼は父の張駿の跡を継ぎ、比較的安定した統治を行っていたが、その死は前涼に深い混乱をもたらした。
張重華の死後、跡を継いだのは、幼い子の張曜霊だった。まだ年端もゆかぬ彼が君主となったことで、重臣たちの間で権力を巡る争い(あらそい)が勃発する。
「幼君では、この乱世を乗り切ることはできぬ!」
そう主張したのは、張曜霊の兄にあたる張玄靚を推す勢力であった。彼らは、張曜霊がまだ幼いことを理由に、すぐに彼を廃位し、わずか数ヶ月のうちに兄である張玄靚を新たな君主に据えた。
しかし、張玄靚もまた、まだ幼い少年であった。彼は、自らの意思で国を導くにはあまりにも力不足だった。前涼の朝廷は、重臣たちの思惑が錯綜し、内紛が絶えない状況に陥った。外敵の脅威が迫る中、内部の足並が乱れることは、国家にとって致命的な弱点となる。
東では慕容恪率いる前燕が着々と支配を広げ、西では前涼が幼い君主たちの間で揺れ動く。そして、前秦の暴君、苻生の治世もまた、いつ破綻してもおかしくない状況にあった。華北の地は、まさに嵐の前の静けさ、あるいは、嵐の只中にいることを知らず、それぞれがそれぞれの運命を辿っていた。この時代を生きる人々は、明日の風がどこから吹くのか、固唾を飲んで見守るしかなかったのである。
〇故都への帰還
西暦356年、夏の盛りを過ぎた八月。江南に興った漢民族の国、東晋の将軍、桓温は、再び北伐の兵を挙げた。桓温は、強烈な野心家で、己の才覚に絶対の自信を持つ男である。一度は蜀の地にあった成漢を滅ぼし、その軍事と政治の手腕を見せつけた彼にとって、今度の目標はただ一つ、かつての晋の都、洛陽であった。
「我らの目的は、失われた中原を取り戻すことにある! 洛陽は、晋の魂が宿る地だ。あの地に再び漢の光を灯すのだ!」
桓温の声は、兵たちの士気を鼓舞し、大軍は長江を渡り、北を目指して進軍を続けた。彼の心には、幼き頃に聞いた、かつて栄華を誇った西晋の都、洛陽への思いが募っていた。懐帝が、愍帝が、異民族の軍勢に捕らえられ、殺された屈辱。その歴史を払拭し、晋の正統性を内外に示す、それがこの北伐の真の意味であった。
九月、秋風が吹き抜ける頃、桓温の軍勢はついに洛陽に到達した。かつて西晋の栄光を象徴した都は、幾度もの戦乱によって荒れ果て、寂しい姿を晒していた。特に、晋の皇帝を祀る太廟(祖先を祀る聖堂)や皇陵(皇帝の墓)は、後趙の支配下で荒らされ、その尊厳は損なわれていた。
桓温は、まずこの修復に取りかかった。
「これは、単なる修復ではない。晋の再興を示す儀式なのだ。」
彼はそう宣言し、自ら率先して修復作業を指揮した。太廟の瓦は葺き直され、崩れた壁は修繕された。皇陵の周りには雑草が刈り取られ、清らかな空気が戻ってきた。そして、修復が終わると、盛大な祀りが行われた。
多くの民が、この儀式に集まった。長年、異民族の支配に苦しんできた彼らにとって、東晋の軍が故都を回復し、晋の正統な祀りを行うことは、希望の光であった。
年老いた一人の男が、涙を流しながらつぶやいた。
「ああ、懐かしい晋の旗だ……。まさか、生きているうちに再び(ふたたび)この目にするとは。」
傍らにいた息子が、父の肩に手を置いた。
「父上。桓温将軍のおかげです。これで、この中原にも、ようやく平和が訪れるかもしれません。」
しかし、桓温が回復したのは、あくまで洛陽の一部に過ぎなかった。華北全土は広大であり、前燕や前秦といった強大な勢力が各地に割拠していたのである。洛陽の回復は、東晋の威光を示す重要な一歩ではあったが、広大な華北の地に、彼の野心が真に届くには、まだ遥かに遠い道のり(みちのり)が残されていた。桓温の視線は、洛陽の先、広がる中原の空へと向けられていた。
〇覇者たちの胎動
西暦357年、華北の地には、新たな波が押し寄せていた。東晋の桓温が洛陽を一時的に回復した興奮も冷めやらぬ中、歴史の舞台は次なる主役たちの登場を告げようとしていた。
関中の地、すなわち現在の陝西省中部では、氐族の傑物、苻堅が動き出していた。彼は、民族や出自にこだわらず賢い人材を登用し、天下統一という壮大な理想を抱く、寛大で理想主義的な人物である。この年、苻堅はついに前秦を建国し、長年混乱が続いていた関中を見事に統一してみせた。彼の登場は、この後の華北の歴史を大きく変えていくことになる。
しかし、この時の前秦の皇帝は、苻堅ではなく、彼の従兄弟にあたる苻生であった。358年、苻生の治世は暴政の極みにあった。彼は権力に溺れ、精神的にも不安定な、残虐な暴君として知られていた。
「またか……今度はどの家臣が誅殺されたのだ?」 宮廷の片隅で、一人の老臣が深い溜息をついた。 「なんでも、些細な言動が陛下のお気に召さなかったとか……。いつ我々(われわれ)の番が来るやもしれぬ。」 隣の若い官僚が、顔色を失って答えた。 「これほどの暴君では、国の未来も知れたもの。いったい、いつまでこの苦しみが続く(つづく)のか……。」
苻生は疑心暗鬼に駆られ、多くの忠臣を殺害し、前秦の国内には不満が渦巻いていた。それでも、彼の代においても前秦の軍事力は依然として強力であり、華北の西部での支配を確固たるものとしていたのは皮肉なことであった。
一方、華北の東部では、鮮卑族が建国した前燕が、着実にその勢力を広げていた。その中心にいたのは、前燕の軍事を支える天才と謳われた慕容恪である。彼は、冷静沈着で卓越した軍事の才を持つ、まさしく知略と武勇を兼ね備えた傑物であった。
358年、慕容恪は、かつて後趙の領土であった冀州や幽州といった広大な地域を次々(つぎつぎ)と支配下に置き、前燕の版図(支配する領域)をさらに拡大させていた。
「恪よ、よくやった! これで我らの前燕は、いよいよ中原の覇者に近づいたな!」 前燕の皇帝、慕容儁は、報せを聞くと満面の笑みを浮かべ、慕容恪の功績を称えた。慕容恪は、父の慕容皝から受け継いだ基盤を確実に発展させ、前燕の最盛期を築きつつあった。
しかし、東の前燕の拡大と、西の前秦の暴君の支配。この二つの勢力が、やがて華北の天下を巡る大きな運命のうねり(うねり)を生み出すことになるのを、この時の彼らはまだ知る由もなかった。歴史は、着々(ちゃくちゃく)と次の局面へと進んでいたのである。




