灼熱の時代:五胡十六国時代記⑱
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西暦四百二十二年。初夏の建康、現在の南京市は、穏やかな日差しに包まれていた。
しかし、その都の中心、宮城の一室には、重く沈んだ空気が漂っていた。
南朝宋の初代皇帝、武帝劉裕が、病に臥せっていたのである。
つい二年前、彼は東晋の恭帝から禅譲を受け、新たな王朝を築いたばかりだった。
その生涯は、まさに乱世を駆け抜けた一騎当千の英雄そのもの。
貧しい出自から身を起こし、孫恩の乱を鎮圧して頭角を現し、桓玄を打倒して東晋の実権を握った。その軍才は並外れており、後秦を滅ぼし長安を一時的に回復するなど、失われた中原の地を次々と奪還していった。
彼の冷徹な決断力と、天下を統一せんとする並外れた野心は、多くの者を畏怖させ、また魅了した。
病床の劉裕は、薄く目を開けた。遠くから、宮中のざわめきが微かに聞こえる。かつては剣を振るい、軍を指揮し、馬を駆けていたこの体が、今は重い鉛のようだ。
だが、その瞳の奥には、いまだ天下の行く末を見据える強い光が宿っていた。
「陛下、いかがでございますか?」
傍らに控えていた近侍が、心配そうに声をかけた。
劉裕は、ゆっくりと首を振った。
「案ずるな。ただ、夢を見ていたのだ……」
彼の脳裏には、幾度となく繰り返された戦の日々(ひび)が蘇る。
泥にまみれ、血を流し、それでも前に進み続けた日々(ひび)。
そして、ようやく手にしたこの天下。しかし、彼の目指した真の統一は、いまだ遠かった。
北には強大な夏の赫連勃勃が、そして北魏の拓跋珪が控えている。
五胡十六国時代と呼ばれる混乱の時代は、彼が宋を建国したことで、南北朝時代という新たな局面を迎えたばかりだった。
「わしは、この国を、民を、どこまで導けたのだろうか……」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく、彼自身への問いかけだった。
彼は、武勇に優れるだけでなく、政治手腕も兼備えていた。
東晋の腐敗した貴族政治を改革し、新たな国家体制を築き上げようとしていた。だが、時間は彼に味方しなかった。
日が傾き、部屋に夕闇が差し込む頃。
劉裕は、静かに息を引き取った。享年六十。
その死は、天下に衝撃を与え、彼が築いた宋の運命を、そして中国の歴史を、新たな方向へと動かし始めたのである。
彼の夢は、次の世代へと託され、南北の対立は、さらに深まっていくのであった。
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425年の夏、空を裂くような雷鳴が統万城の大地を揺らしていた。
黒雲は城郭を呑みこみ、稲妻が石壁を白々と照らす。まるで天が怒り、あるいは嘆きの声をあげるかのようであった。
その日、赫連勃勃は病の床にあった。
彼は鉄騎を率いて砂漠を駆け、幾多の敵を血に沈めてきた稀代の雄である。だが、いかに猛将とて老病には勝てない。
「……雷が鳴っておるか」
かすれた声で、赫連勃勃は天を仰いだ。かつての峻烈な眼差しは翳りを帯び、その頬はやせ細っていた。
側近が恐る恐る答える。
「はい、大王。天地もまた、大王の御身を惜しんでおられるのでしょう」
赫連勃勃は嘲るように笑った。
「惜しむだと……? 我を憎む声の方が多かろう。虐殺も略奪も、我が手で行わせた。だが――」
そこで言葉を切ると、彼の瞳に一瞬だけ炎が戻った。
「だが、我が築いたこの統万の城壁を見よ。砂漠に生まれた一つの夢が、石となり国となった。これを成せる者が、ほかにおるか」
確かにその言葉に偽りはなかった。赫連勃勃は、弱小と侮られた鉄弗族の長にすぎなかった。
しかし一代にして、匈奴の後裔を束ね、華北の雄として周辺諸国に恐れられる大国を築いたのである。
その苛烈な統治は人心を震え上がらせたが、その統率力と戦略眼は誰も否定できなかった。
やがて、外の雷鳴がさらに強まり、稲妻が幾筋も夜空を裂いた。侍臣たちは恐怖と畏敬の念に押し黙る。
赫連勃勃は息を詰まらせながらも、ふと低く呟いた。
「我が名は勃勃。笑うがよい。されど、百年の後にも、この名は必ず史に残る。英雄と呼ぶも鬼と呼ぶも、それは後の者の勝手よ……」
その言葉と共に、雷鳴が城を揺らし、赫連勃勃の胸の鼓動は静かに止まった。
外は激しい雨に洗われ、砂漠の塵さえも流れ去るようであった。
稀代の暴君にして英雄の死を、大自然そのものが見送っていたのである。
こうして425年、赫連勃勃は統万城に没した。
残虐の名と共に、雄渾な功績をも残して。人々は口をそろえて「雷と雨と共に去った王」と語り継いだ。
その去り際は、血に濡れた歴史の一章を閉じると同時に、次代を呼ぶ新たな風の前触れであった。
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427年、夏の王 赫連勃勃 が世を去った。
赫連勃勃は匈奴の末裔を称し、勇猛果断で知られた男である。
彼は砂漠と山岳に囲まれた関中に都を築き、短きながらも一国を支えた。
しかし、彼が崩じると、後継の 赫連昌 には父の剛毅さが欠けていた。
その死を聞き、北の草原に覇を唱えつつあった北魏の皇帝、拓跋燾 は深く考え込んだ。
「いまこそ、夏を討つ時である」
拓跋燾は鮮卑拓跋部の出身。長身にして武勇に優れ、冷徹さと大胆さを兼ね備えた君主であった。
彼は父祖の代から宿敵としてきた諸胡族を一つ一つ平らげ、華北の統一を志していた。
夏の赫連氏は、まさに最後の障壁であった。
魏の軍旗が翻ると、数万の騎兵が黄土高原を覆った。
砂煙を巻き上げ、進軍する軍勢はまるで大地そのものが動いているかのように見えた。
赫連昌は急ぎ軍を整えたが、その兵は父の代の精強さを失っていた。
城壁の上から見下ろす将兵の顔には、恐怖と疲労が濃く刻まれていた。
「魏軍は大河のようだ……我らに抗えるのか」
ある老兵が呟いた。
赫連昌は声を張り上げた。
「父王の遺志を忘れるな! ここを守り抜けば、夏は永らえる!」
だが、魏の攻撃は容赦なかった。鉄騎が押し寄せ、投石器が城壁を打ち砕く。
数日にして守りは崩れ、城内に混乱が広がった。
ついに赫連昌は捕らえられ、魏の軍門に下った。かくして、夏は滅亡した。
その報は華北全土に轟き、群雄割拠の地図はまた一つ塗り替えられた。
戦勝の夜、魏の陣営には篝火が赤々と燃え、兵たちの歓声が響いた。
だが、拓跋燾は静かに空を見上げていた。
「これで一歩、天下に近づいた。しかし道のりはまだ遠い……」
その眼差しは冷たい星を映し、彼の胸中に燃える野望を物語っていた。
こうして、赫連勃勃の死を契機に、夏は歴史の舞台から姿を消し、北魏の覇道がさらに確かなものとなったのである。
――五胡十六国の嵐が吹き荒れた世も、この頃には終焉へと歩みつつあった。




