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灼熱の時代:五胡十六国時代記⑰

長安ちょうあんの古都に、新たな覇者はしゃの影が落ちた。

西暦四百十七年、東晋とうしん武将ぶしょう劉裕りゅうゆうは、その並外れた武勇ぶゆう冷徹れいてつ決断力けつだんりょくをもって、後秦こうしんみやこ長安ちょうあん陥落かんらくさせた。彼は乱世らんせいに咲いた稀代きたい英雄えいゆうであり、天下統一てんかとういつという並外れた野心やしんを胸にいだいていた。

後秦こうしん皇帝こうていを捕らえ、その王朝おうちょうを滅ぼした時、劉裕りゅうゆうの顔には、長きにわたる戦いの疲労ひろうと、確かな達成感たっせいかんが混じり合っていた。


「これで、一つ、大願たいがんは果たされた」


彼は静かにつぶやいた。しかし、彼の視線は既に、長安ちょうあんの先、江南こうなん故郷こきょうへと向かっていた。

東晋とうしん根拠地こんきょちである建康けんこう(現在の南京なんきん市)には、彼が成し遂げるべき、さらなる大業たいぎょうが待っていたのだ。


長安ちょうあんの地を完全に掌握しょうあくした劉裕りゅうゆうは、しかし、この古都にながく留まることはなかった。彼は、まだ幼い息子むすこ劉義真りゅうぎしん長安ちょうあん統治とうちを任せ、わずかなへいを残して、東晋とうしん本拠地ほんきょちへと帰還きかんする決断を下した。


義真ぎしんよ、この長安ちょうあんは、まだ不安定ふあんていだ。油断ゆだんなく、たみおさめよ。」


父の言葉に、劉義真りゅうぎしん緊張きんちょうした面持おももちうなずいた。

劉裕りゅうゆうは、天下を統一とういつするという大きな目標のために、時に冷徹れいてつ判断はんだんを下すことをいとわない人物であった。彼の心は既に、新たな権力けんりょくへと向かっていたのだ。


だが、そのすきを虎視眈々(こしたんたん)とねらっていた者がいた。

匈奴きょうど鉄弗部てつふつぶ出身しゅっしんである赫連勃勃かくれんぼつぼつである。

彼は自ら「天王てんのう大単于だんぜんう」としょうし、大夏だいかという強大な国家を築き上げたばかりの、極めて残忍ざんぎゃく冷酷れいこくおとこであった。彼の築いたみやこ統万城とうまんじょうは、少しでもかたむいたいしはすぐにこわされ、その担当者たんとうしゃころされたという逸話いつわのこるほど、彼の絶対的ぜったいてき自信じしん支配欲しはいよく象徴しょうちょうしていた。


劉裕りゅうゆう長安ちょうあんを去ったというしらせは、赫連勃勃かくれんぼつぼつみみにすぐさまとどいた。


好機こうき到来とうらい!」


彼のまなこが、えたけもののようにぎらついた。

東晋とうしん軍勢ぐんぜい手薄てうすになった今こそ、この古都ことうば絶好ぜっこう機会きかいだと、赫連勃勃かくれんぼつぼつ確信かくしんした。彼はすぐさまぐん南下なんかさせ、長安ちょうあんへと向かった。


長安ちょうあんを守る東晋とうしん軍は、劉義真りゅうぎしん総大将そうだいしょうとするものの、その多くは疲弊ひへいしきっていた。赫連勃勃かくれんぼつぼつひきいる軍勢ぐんぜいは、あらしのように長安ちょうあんおそった。赫連勃勃かくれんぼつぼつ指揮しきは、その残忍ざんぎゃくさゆえに容赦ようしゃなく、東晋とうしん軍は次々(つぎつぎ)と撃破げきはされていった。


降伏こうふくせよ! さもなくば、皆殺みなごろしだ!」


赫連勃勃かくれんぼつぼつこえ戦場せんじょうひびわたる。

東晋とうしんへいたちは、その圧倒的あっとうてき武力ぶりょくと、赫連勃勃かくれんぼつぼつ恐怖きょうふふるえ、次々(つぎつぎ)とたおれていった。

長安ちょうあんは、再びほのおつつまれ、赫連勃勃かくれんぼつぼつに落ちた。


長安ちょうあん奪取だっしゅした赫連勃勃かくれんぼつぼつは、その勝利しょうりいわうため、常軌じょうきいっした行動こうどうた。

彼は、やぶれた東晋とうしんへいたちの死体したいを積みつみあげさせ、巨大きょだい戦勝記念碑せんしょうきねんひきずいたのだ。

それは「髑髏台どくろだい」と呼ばれ、そのとおり、無数むすう頭蓋骨ずがいこつさらされた、おぞましい光景こうけいであった。髑髏台どくろだいとは、いくさたおれた敵兵てきへい頭蓋骨ずがいこつを積みつみあげてつくられた、勝利しょうり象徴しょうちょうであり、敗者はいしゃへの見せしめでもあった。

赫連勃勃かくれんぼつぼつ残忍ざんぎゃく性格せいかくと、絶対的ぜったいてき支配欲しはいよくらしめる、おそるべき記念碑きねんひであった。


かくして、東晋とうしん劉裕りゅうゆう苦労くろうしてほろぼし、一時的いちじてき奪還だっかんした長安ちょうあんは、わずかなあいだ平和へいわつか赫連勃勃かくれんぼつぼつひきいるの手にうばかえされ、再び戦乱せんらん渦中かちゅうへとまれていったのである。



五胡十六国ごこじゅうろっこく時代――それは、中原ちゅうげんが血と砂塵にまみれ、英雄たちが刹那せつな栄華えいがを競い合った激動の時代であった。

北では異民族いみんぞく割拠かっきょし、南では漢民族かんみんぞくかろうじて命脈めいみゃくを保っていた。その混沌こんとん只中ただなかに、一人の男がいた。匈奴きょうど鉄弗部てつふつぶの出身、赫連勃勃かくれんぼつぼつ。彼はその残虐ざんぎゃくさと冷酷れいこくさで知られ、敵対する者には容赦ようしゃなく、味方にもまたきびしい統治を敷いた。しかし、その苛烈かれつな性格の裏には、天下を掌中しょうちゅうに収めようとする並外れた野心と、それを実現するだけの軍才があった。


西暦四百十八年。長安ちょうあん東晋とうしんから奪い取った赫連勃勃かくれんぼつぼつは、ついに自らの帝国を築き上げる時が来たと確信した。

彼は玉座ぎょくざに座し、臣下たちを前に高らかに宣言した。

「我こそは、この乱世を終わらせる真の皇帝こうていである!」

その声は、広間ひろまに響き渡り、臣下たちは畏敬いけいの念をもってこうべれた。

この日、赫連勃勃かくれんぼつぼつは正式に皇帝こうていくらいき、国号こくごうを「大夏だいか」と定めた。

」とは、古代中国に存在した伝説の王朝の名であり、赫連勃勃かくれんぼつぼつが自らの正統性せいとうせいと、天下統一への強い意志を示したものであった。

そして、その新たな時代の幕開けを告げるかのように、元号げんごうを「昌武しょうぶ」に改元かいげんした。昌武しょうぶ――それは、赫連勃勃かくれんぼつぼつ武威ぶい昌盛しょうせいすることを願う、彼の自信の表れでもあった。


翌、四百十九年。赫連勃勃かくれんぼつぼつは、さらなる飛躍ひやくを期して元号げんごうを「真興しんこう」に改元かいげんした。

この年、彼は長年心血しんけつを注いで築き上げてきた統万城とうまんじょうを、正式にみやこと定めた。

統万城とうまんじょうは、現在の内モンゴル自治区に位置する砂漠さばくの真ん中に築かれた、白く輝く堅牢けんろうな城であった。その建設には、赫連勃勃かくれんぼつぼつ残忍ざんじんな性格が如実にょじつに表れていた。少しでもかたむいた石や、指一本入る隙間すきまがあるかべは、容赦ようしゃなくこわされ、その責任者せきにんしゃ即座そくざ処刑しょけいされたという。

完璧かんぺきでなければ意味がない。我の築く都は、永遠えいえん不滅ふめつでなければならぬ!」 彼の徹底した厳しさによって、統万城とうまんじょうはまさに鉄壁てっぺき要塞ようさいとして完成した。


赫連勃勃かくれんぼつぼつの治める大夏だいか版図はんとは、この頃には目覚ましい拡大をげていた。

かつて後秦こうしんの支配下にあった関中かんちゅう地方(現在の陝西省中部)はもとより、広大なオルドス地方、そして山西さんせい南部なんぶにまでその勢力はおよんだ。

さらに、西方の吐谷渾とよくこんや、河西回廊かせいかいろうに勢力を持つ北涼ほくりょうといった強国までもが、大夏だいか服属ふくぞくちかった。服属ふくぞくとは、独立を保ちつつも、大夏だいか宗主権そうしゅけんを認め、貢物みつぎもの献上けんじょうし、軍事的な協力を行うという関係である。

「我の武威ぶいは、天の下に広がる!」 赫連勃勃かくれんぼつぼつの声が、統万城とうまんじょう天守てんしゅから響き渡るかのようであった。華北かほく西部せいぶに築き上げられたこの一大勢力は、まさに赫連勃勃かくれんぼつぼつの強烈な個性と、比類ひるいなき軍事の才能の結晶けっしょうであった。彼の帝国は、やがて来る北魏ほくぎとの激突げきとつを予感させながら、その存在感を増していくのであった。



五胡十六国ごこじゅうろっこく時代――それは、中原ちゅうげんが血と硝煙しょうえんに染まり、数多あまたの王朝が興亡こうぼうを繰り返した、激動の三百年であった。北では異民族いみんぞく覇権はけんを争い、南に逃れた漢民族かんみんぞくの王朝、東晋とうしんもまた、内乱と外患がいかんに揺れ続けていた。民は疲弊ひへいし、天下は新たな秩序を求めていた。


そんな混沌こんとんの時代に、一人の男が彗星すいせいのごとく現れる。

彼の名は劉裕りゅうゆう。貧しい出自しゅつじながら、その武勇ぶゆう才覚さいかくで乱世を駆け上がり、東晋とうしん軍事ぐんじ掌握しょうあくした稀代きたいの英雄であった。

彼は、孫恩そんおんらん鎮圧ちんあつし、桓玄かんげん簒奪さんだつを打ち破り、さらには遠く華北かほくにまで兵を進め、強大な後秦こうしんを滅ぼし、一時的いちじてきではあるが長安ちょうあん奪還だっかんする大功たいこうを立てた。その軍勢ぐんぜいは向かうところ敵なし、その威光いこうは天下にとどろいた。


東晋とうしん朝廷ちょうていにおいて、すでに劉裕りゅうゆうの存在は、皇帝こうてい凌駕りょうがするものであった。

時の皇帝は恭帝きょうてい。彼は、劉裕りゅうゆう圧倒的あっとうてき実力じつりょくを前に、自らの運命うんめいを悟っていた。


陛下へいか。もはや天命てんめいりゅうにあります。」


重臣じゅうしんの一人が、恭帝きょうていに静かに告げた。

その言葉は、恭帝きょうていにとって、すでに幾度いくどとなく耳にした響きであった。恭帝きょうていは、玉座ぎょくざに座りながら、遠い目をして虚空こくうを見つめた。


「そなたの言う通りであろう。しん命脈めいみゃくは尽きた。もはや、ちんにできることは何もない。」


恭帝きょうていの声には、諦念ていねんと、わずかながら安堵あんどの響きが混じっていた。

長きにわたる重圧じゅうあつから解放かいほうされるかのような、そんな感情が。


420年、ついにその時が来た。恭帝きょうていは、劉裕りゅうゆうに対し、帝位ていいゆず儀式ぎしき、「禅譲ぜんじょう」を行った。

禅譲ぜんじょうとは、皇帝が自らの意思で帝位を徳のある人物に譲るという形式けいしきであり、実質的には武力ぶりょく権力けんりょくによって帝位をうばう「簒奪さんだつ」を正当化せいとうかする手段しゅだんであった。


建康けんこう(現在の南京ナンキン市)の宮城きゅうじょうでは、厳粛げんしゅくな空気の中、儀式が執り行われた。

恭帝きょうていは、黄袍こうほうを脱ぎ、新たな天子てんしとなる劉裕りゅうゆう玉璽ぎょくじ(皇帝の印章)を手渡した。

その瞬間、東晋とうしんという王朝は、二百年余りの歴史に静かにまくを下ろしたのである。


そして、劉裕りゅうゆうは新たな王朝を樹立じゅりつした。国号こくごうは「そう」。

彼は武帝ぶていとして即位し、その治世ちせいは、中国史ちゅうごくしにおいて「南朝なんちょう」と呼ばれる時代の幕開けとなった。

南朝なんちょうとは、長江ちょうこう以南いなん漢民族かんみんぞくの王朝が並び立つ時代を指す。


荒れ果てた大地に、新たな秩序の光が差し込んだかに見えた。

しかし、このそうの建国もまた、終わりなき乱世らんせの中の一幕ひとまくに過ぎなかった。

北では、赫連勃勃かくれんぼつぼつが築いたが、その残虐ざんぎゃく統治とうちで勢力を広げ、拓跋珪たくばつけいが興した北魏ほくぎが、来るべき華北統一かほくとういつに向けて着々と力をたくわえていた。


劉裕りゅうゆうは、この激動げきどうの時代に、江南こうなんの地に新たないしずえを築いた。

彼の登場は、単なる王朝交代おうちょうこうたいではなく、中国の歴史が南北に分かれて進む、新たな時代の到来とうらいを告げるものであった。

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