灼熱の時代:五胡十六国時代記⑮
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激動の中国史、五胡十六国時代の終盤。
華北では様々な異民族が興亡を繰り返し、血で血を洗う戦いが続いていました。
一方、長江の南に逃れて命脈を保っていた漢民族の王朝、東晋もまた、内憂外患に苛まれていました。
そんな中にあって、一人の若き英雄が時代を動かすべく、その頭角を現し始めます。彼の名は、劉裕。後に南朝宋の武帝となる人物です。
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399年:乱世に現れた英傑
399年、東晋の江南地方に、一つの大きな動乱が勃発しました。
それは、道教の一派である天師道の指導者、孫恩が起こした大規模な反乱、「孫恩の乱」でした。
東晋の朝廷は腐敗し、民衆は重い税と度重なる戦乱に苦しんでいました。
孫恩はそうした民衆の不満を背景に、瞬く間に勢力を拡大し、その矛先は東晋の都、建康にも迫る勢いでした。
朝廷が混乱の極みにあったその時、一介の軍人に過ぎなかった劉裕が、この乱の鎮圧に名乗りを上げます。
劉裕は貧しい出自ながらも、その武勇と才気は類まれなものがありました。
彼は自ら兵を率いて孫恩軍に立ち向かいます。
彼の軍は寡兵ながらも、劉裕は常に先陣を切って敵に突撃し、その並外れた勇気と卓越した指揮能力で、連戦連勝を重ねていきました。
ある戦でのことでした。数に劣る劉裕の軍が、孫恩の大軍に囲まれ、絶体絶命の危機に瀕していました。兵士たちは恐怖に震え、誰もが敗北を覚悟したその時、劉裕は一人、馬を駆り立て、敵の真っ只中へ斬り込んでいきました。
彼の剣は嵐のように舞い、敵兵は次々と倒れていきました。その姿はまさに鬼神のごとく、彼の兵士たちはその勇姿に奮い立ち、一斉に反撃に転じました。結果、孫恩軍は大敗を喫し、劉裕は再び勝利を収めたのです。
この孫恩の乱を通して、劉裕は目覚ましい武功を立て、その名声は瞬く間に東晋全土に轟きました。彼は、乱世に埋もれていた一介の兵士から、東晋の未来を担うべき存在として、歴史の表舞台に躍り出たのでした。
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402年:権臣の台頭と密かなる反攻準備
孫恩の乱が鎮圧され、東晋に一時的な平穏が訪れたかに見えた402年。
しかし、新たな嵐が巻き起こります。東晋の大将軍、桓玄が、その強大な軍事力と権勢をもって、朝廷の実権を掌握したのです。
桓玄は、かつて蜀の成漢を滅ぼす大功を立て、東晋の実力者となった桓温の息子でした。父の野心を受け継ぐかのように、桓玄もまた帝位への野望を抱いていました。彼は皇帝の安帝を意のままに操り、自らの勢力を盤石なものにしていきます。
「帝はもはや傀儡に過ぎぬ。この国は、いずれ桓の家のものとなるだろう。」
桓玄の側近たちは囁き、彼の専横は日増しに強まっていきました。
多くの者が桓玄の勢威に恐れをなし、彼に追従する中、劉裕は密かに桓玄打倒の準備を進めていました。
彼は孫恩の乱で得た名声と、自らの人望を背景に、志を同じくする者たちを集めます。
彼らは夜な夜な集まり、桓玄の暴政を嘆き、打倒の策を練りました。
「桓玄の専横を許せば、東晋は滅びる。我々が、この国の行く末を守らねばならぬ。」
劉裕の言葉は、集まった者たちの胸に深く響きました。彼らは劉裕の持つ類まれな指導力と、国を思う熱い心に惹かれ、彼のもとに集結していきました。
しかし、その動きは決して表面化することはありませんでした
。桓玄の監視の目が光る中、彼らは息を潜め、虎視眈々(こしたんたん)と反撃の機会を窺っていたのです。
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404年:覇者の誕生
ついに、劉裕が密かに温めていた計画が実行に移される時が来ました。
404年、彼は同志たちと共に、桓玄に対する大規模な反乱を決行します。
その知らせは瞬く間に東晋全土を駆け巡り、桓玄の暴政に苦しんでいた多くの民衆が、劉裕の挙兵を歓迎しました。
桓玄は劉裕の反乱を侮り、当初は余裕の構えを見せていました。
しかし、劉裕軍の勢いは凄まじく、彼の予想を遥かに超えるものでした。
劉裕は自ら先頭に立って桓玄の軍と激突し、その軍は破竹の勢いで進撃していきました。
「これが、真の英雄の力か……!」
桓玄の兵士たちは、次々と劉裕の前に敗れ去り、その士気は地に落ちました。
やがて、桓玄は劉裕に追いつめられ、ついに敗北を喫します。
彼は混乱の中で逃走を図りますが、最期は部下に裏切られ、命を落としました。
桓玄を打倒した劉裕は、速やかに都の建康に入り、軟禁されていた安帝を復位させました。
安帝は劉裕を深く信頼し、彼に軍事的な実権の全てを委ね(ゆだね)ました。
これにより、劉裕は東晋の事実上の最高権力者となったのです。
それは、単なる一武将の勝利ではありませんでした。
乱れに乱れた東晋の国を、その強大な軍事力と卓越した政治手腕で立て直していく、新たな時代の幕開けを告げる勝利だったのです。劉裕は、この後も数々の戦役をこなし、やがては南朝の礎を築くことになります。
しかし、その偉業の第一歩は、この桓玄打倒の戦いにあったと言えるでしょう。
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北風が吹き荒れる華北の荒野は、常に血と砂の匂いをまとっていた。
西晋が滅び、東晋が江南に逃れてから、この地は五胡十六国という、異民族と漢民族が入り乱れて争う激動の時代を迎えていた。
かつて華北を統一した前秦も、淝水の戦いでの大敗以来、その勢いを失い、数多の勢力が乱立する群雄割拠の様相を呈していた。
そんな乱世の只中、407年の夏。オルドス地方、すなわち現在の内モンゴル自治区南部に位置する広大な草原地帯に、一人の男がいた。
彼の名は赫連勃勃。匈奴鉄弗部の末裔を名乗る彼は、かつて庇護を受けていた後秦の支配から、ついに自立することを決意した。
「もはや後秦に未来はない。姚興は臆病風に吹かれ、その国力は衰える一方だ。」
赫連勃勃は、部族の長老たちを前に、その冷徹な眼光で言い放った。
彼の声は低く響き渡り、その場にいる者たちの背筋を凍らせる。
赫連勃勃は、捕虜を虐殺し、築城の際に少しでも傾いた石はすぐに壊して担当者を殺すなど、極めて残虐な性格で知られていた。しかし、その残忍さの裏には、並外れた軍事の才と、すべてを支配しようとする絶対的な自信が隠されていた。
「我らは天に選ばれし匈奴の末裔。この乱れた世を正し、新たな秩序を築くのは我らしかいない!」
彼の言葉に、長老たちは沈黙したまま、ただ頷くしかなかった。
彼らは赫連勃勃の恐ろしさを知っていたが、同時にその強烈な指導力に抗う術も持たなかった。
こうして赫連勃勃は、自らの国を「大夏」と称し、初代皇帝として即位した。
彼は自らを「天王大単于」と名乗った。「天王」は中華皇帝に匹敵する権威を示し、「大単于」は匈奴の伝統的な君主号である。
これは、漢民族の権威と遊牧民族の伝統を融合させ、自らの支配の正当性を内外に知らしめるための、赫連勃勃らしい独創的な称号であった。
そして、新たな元号を「龍昇」と定めた。
「龍が昇る」というその名には、赫連勃勃の天下統一への野望が込められていた。
建国後、赫連勃勃はすぐさま行動に移った。彼の目は、かつての主君である後秦の領土に向けられていた。
「後秦の領地は、もはや我らのものだ。躊躇うな、進め!」
彼の号令一下、夏の騎馬軍団は、まるで嵐のように後秦の辺境を襲った。
赫連勃勃の軍は、その残虐性と機動力を武器に、後秦の軍隊を次々と撃破していった。略奪と破壊を繰り返し、恐怖によって支配地域を広げていく。後秦はすでに疲弊しており、赫連勃勃の猛攻を防ぐ術を持たなかった。
「聞いたか、あの赫連勃勃の軍は、まるで悪鬼のようだ。一度攻め入れば、何も残らないと…」
「ああ、後秦の兵はもう戦意を失っている。あの男には、逆らうことなどできぬ」
後秦の兵士たちは、赫連勃勃の残忍な噂に怯え、戦わずして逃げ出す者も少なくなかった。
赫連勃勃は、その恐怖をもって自らの権威を確立し、瞬く間に勢力を拡大していった。
オルドスの荒涼とした大地に、血と砂に塗れた新たな強国「大夏」が誕生した。
その建国は、華北の勢力図を大きく塗り替え、北魏や南朝の宋といった他の大国にとって、新たな、そして最も恐るべき脅威として立ちはだかることになるのだった。
赫連勃勃の野望は、まさに「龍が昇る」がごとく、乱世の空高く舞い上がろうとしていた。




