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灼熱の時代:五胡十六国時代記⑭

華北かほくの空は、常に移ろいゆく雲のように、勢力図せいりょくずが目まぐるしく変化する。

394年、その広大な大地の一角で、一つの王朝がその最期さいごを迎えようとしていた。西燕せいえんである。


西燕せいえんを率いるのは、美貌びぼう武将ぶしょうとして知られる慕容沖ぼよう しょう

彼はかつて前秦ぜんしん皇帝こうてい苻堅ふけん寵愛ちょうあいされたという過去を持つ。

その顔立ちにはうれいと気品きひんただよい、ひとみの奥には、故国こくこく復讐ふくしゅうと、自らの野心やしんが複雑にからみ合っていた。

長安ちょうあん占拠せんきょし、一時は華々(はなばな)しい勢いを見せた西燕せいえんであったが、内部対立ないぶたいりつが表面化し、その基盤きばんらぎ始めていた。


「このままでは、我らは泡沫うたかたの夢と消える。何としても、西燕せいえん存続そんぞくを……」


慕容沖ぼよう しょうは、疲弊ひへいした兵士たちの顔を見つめながら、苦渋くじゅうに満ちた表情ひょうじょうつぶやいた。彼の心には、焦燥しょうそう絶望ぜつぼうが入り混じっていた。


しかし、その西燕せいえん命脈めいみゃくを断ち切ろうとする、もう一つの巨大な影が迫っていた。

華北かほくの北東部に広大な版図はんとを築き上げた後燕こうえんである。

後燕こうえん皇帝こうてい慕容垂ぼよう すいは、鮮卑族せんぴぞくきっての智謀ちぼう武勇ぶゆうを兼ね備えた老練ろうれんしょうであった。

彼は前燕ぜんえんの皇族として、そして前秦ぜんしん苻堅ふけんのもとで重用じゅうようされながらも、時勢じせいを見極め、自らの王国を築き上げた傑物けつぶつだ。

その顔には深いしわが刻まれていたが、眼光がんこうは未だ鋭く、天下統一てんかとういつ野望やぼうを燃やし続けていた。


慕容垂ぼよう すいにとって、西燕せいえんの存在は、華北かほくにおける慕容氏ぼようしの勢力を完全に集約しゅうやくするための最後の障害しょうがいであった。


西燕せいえんは、もはやその役目を終えた。慕容氏ぼようしの血を分ける者なれど、天下統一のためには、一つの旗のもとに集うべき時が来たのだ。」


慕容垂ぼよう すいは、軍議ぐんぎの場で、静かに、しかし断固だんこたる口調くちょうで命じた。

その言葉には、一切の迷いがなかった。彼の指揮のもと、後燕こうえん大規模だいきぼな軍を編成へんせいし、西燕せいえん討伐とうばつのため、西へと進軍を開始した。


後燕こうえんの大軍が迫る中、西燕せいえんの都、長安ちょうあんは、重苦おもくるしい空気に包まれていた。慕容沖ぼよう しょうは、必死に防衛策ぼうえいさくを講じたが、内紛ないふん疲弊ひへいした軍は、士気しき低下ていかし、後燕こうえん精鋭せいえいには遠く及ばなかった。


城壁じょうへきの上から、慕容沖ぼよう しょうは迫りくる後燕こうえんの軍勢をながめた。その旗印はたじるしには、慕容氏ぼようし象徴しょうちょうである鳳凰ほうおうえがかれている。同じ血族けつぞくでありながら、今や敵対てきたいする運命うんめいにあることに、彼は深い悲哀ひあいを感じた。


慕容垂ぼよう すい……兄上あにうえ野望やぼうは、かくも広大であったか。」


慕容沖ぼよう しょうつぶやきは、風にかき消された。


後燕こうえん軍の猛攻もうこうが始まった。城壁じょうへきは次々と破られ、市街しがいでは激しい白兵戦はくへいせんが繰り広げられた。

西燕せいえんの兵士たちは、最後まで抵抗ていこうを試みたが、圧倒的あっとうてきな兵力差と、練度れんどの差はくつがえしがたかった。


やがて、長安ちょうあん城門じょうもんは完全に突破され、後燕こうえんの軍勢が雪崩なだんだ。

慕容沖ぼよう しょうは、混乱の中で命を落とし、西燕せいえんは、建国からわずか10年足らずで、その歴史にまくを閉じた。


西燕せいえん領土りょうどは、全て後燕こうえん併合へいごうされた。

これにより、華北かほくらばっていた前燕ぜんえん系の勢力は、後燕こうえんという一つの巨大な勢力へと集約しゅうやくされた形となった。慕容垂ぼよう すい戦略せんりゃくは、見事に成功したのである。


この日、華北かほく勢力図せいりょくずは大きく塗り替えられた。

慕容垂ぼよう すいは、統一への道を一歩、また一歩と進んでいく。しかし、五胡十六国ごことじゅうろっこく時代の戦乱は、まだ終わることはなかった。新たな対立の火種ひだねが、すでに北の地で燃え上がろうとしていたのである。



華北かほく中原ちゅうげんが血と鉄のあらし翻弄ほんろうされる中、遠く西の果て、河西回廊かせいかいろうと呼ばれる地には、また異なる風が吹いていた。

シルクロードの要衝ようしょうとして栄えたこの地は、前秦ぜんしん崩壊ほうかい後、新たな群雄ぐんゆうたちの舞台となろうとしていた。


397年、この地に新たな王朝が誕生する。

その名は後涼こうりょう。建国者は、漢民族かんみんぞく武将ぶしょう呂光りょ こうであった。

彼はかつて前秦ぜんしん苻堅ふけんの命を受け、遠く西域せいいきへの遠征えんせいを成功させた稀代きだい勇将ゆうしょうである。

その顔には風雪ふうせつに耐えたようなきびしさが刻まれ、眼光がんこうには百戦錬磨ひゃくせんれんましょうとしての自信が宿っていた。


「この涼州りょうしゅうこそ、我らが安んじて暮らせる地となる。

乱世らんせいの波に飲まれぬよう、盤石ばんじゃくな国を築き上げねばならぬ。」


呂光りょ こうは、涼州りょうしゅう肥沃ひよくな大地を見渡し、力強く宣言した。

彼は西域せいいき遠征えんせいで得た莫大ばくだい財宝ざいほうと、多くの兵士を率いてこの地に基盤きばんを築き、後涼こうりょうを建国した。

彼の統治は軍事力を背景にした現実的なもので、混乱する河西回廊かせいかいろうに一時的な安定をもたらした。


しかし、河西回廊かせいかいろうは広大であり、後涼こうりょう一国の支配に甘んじる者ばかりではなかった。


翌398年、後涼こうりょうの東部、青海せいかい地方に、新たな勢力が勃興ぼっこうする。鮮卑族せんぴぞく禿髪部とくはつぶ出身、禿髪烏孤とくはつ うこが建国した南涼なんりょうである。

禿髪烏孤とくはつ うこは、部族の伝統でんとう独立どくりつを重んじる実直じっちょくな指導者であった。

彼の顔には、北方民族ほっぽうみんぞく特有の精悍せいかんさがただよい、その言葉には、一族の繁栄はんえいを願う強い意志が込められていた。


「我ら禿髪とくはつの民は、この地で自由を謳歌おうかする。誰にもしばられることなく、自らの道を切り開くのだ!」


禿髪烏孤とくはつ うこは、部族の結束を固め、武力ぶりょく外交がいこうを巧みに使い分けながら、南涼なんりょう勢力せいりょくを拡大していった。

彼らは、後涼こうりょうとは異なる独自の文化ぶんか生活様式せいかつようしきを保ちつつ、河西回廊かせいかいろうの東部で確固かっこたる地位を築き始めた。


同じ398年、河西回廊かせいかいろうの中央部では、別のりょうが誕生した。

漢民族かんみんぞく段業だん ぎょうが建国した北涼ほくりょうである。

段業だん ぎょうは、混乱する時代にあって、漢民族かんみんぞくの支持を得て秩序ちつじょを確立しようとした文人官僚ぶんじんかんりょうだった。

その風貌ふうぼうは穏やかで、武力ぶりょくよりも学問がくもん秩序ちつじょを重んじる彼の姿勢は、多くの漢人かんじんたちの共感きょうかんを呼んだ。


「この混乱の世に、民が安心して暮らせる秩序ちつじょを。それが、我ら漢人かんじんの使命である。」


段業だん ぎょうは、儒教じゅきょうの教えを重んじ、穏健おんけん統治とうち志向しこうした。

彼の治世ちせいのもと、北涼ほくりょうは、戦乱せんらんの続く華北かほくとは一線をかくし、比較的ひかくてき安定した地域ちいきとして発展はってんしていった。


そして、2年後の400年、河西回廊かせいかいろうのさらに西の果て、敦煌とんこうの地にも、新たなりょうが誕生した。漢民族かんみんぞく李暠り こうが建国した西涼せいりょうである。

李暠り こうは、漢民族かんみんぞく文化ぶんか学問がくもんを重んじる、おだやかな指導者であった。彼のまなざしには、乱世らんせにあっても、文化ぶんかともしびを守り続けようとする強い意志が宿っていた。


「この西の果てに、かん文化ぶんかたねこう。やがて、それが大樹たいじゅとなり、乱世らんせやみを照らす光となるであろう。」


李暠り こうは、混乱する中原ちゅうげんからのがれてきた多くの知識人ちしきじん文化人ぶんかじん保護ほごし、学問がくもん芸術げいじゅつ奨励しょうれいした。

西涼せいりょうは、てた時代じだいにあって、まるで砂漠さばくの中のオアシスのように、漢民族かんみんぞく文化ぶんかが息づく場所となった。


こうして、河西回廊かせいかいろうには、後涼こうりょう南涼なんりょう北涼ほくりょう、そして西涼せいりょうと、四つの「りょう」が並び立つことになった。

それぞれの国が、異なる民族みんぞく文化ぶんかを背景に、独自の道を歩み始める。

五胡十六国ごことじゅうろっこく時代は、まさに群雄割拠ぐんゆうかっきょきわみへと向かっていたのである。



五胡十六国時代ごこじゅうろくこくじだい華北かほくはまさに戦乱せんらん坩堝るつぼしていた。

漢民族かんみんぞく東晋とうしん江南こうなんかろうじて命脈めいみゃくたもなかきた大地だいちでは、胡族こぞく漢族かんぞくの様々(さまざま)な勢力せいりょくが、天下てんか覇権はけんめぐり、あらあらそいをひろげていた。

その混沌こんとんなかで、関中かんちゅう、すなわち現在げんざい陝西省中部せんせいしょうちゅうぶにあたる要衝ようしょう掌握しょうあくし、強大きょうだい勢力せいりょくほこっていたのが後秦こうしんである。


後秦こうしん建国者けんこくしゃである姚萇よう ちょうは、かつて前秦ぜんしん苻堅ふけんつかえながらも、淝水ひすいの戦い(たたかい)での大敗たいはいじょうじて自立じりつし、主君しゅくん裏切うらぎ殺害さつがいするという、野心やしん冷徹れいてつさをあわ人物じんぶつであった。

その姚興よう こうは、ちちきずいた基盤きばんをさらにかため、中華統一ちゅうかとういつ野望やぼうむねめていた。かれちちとはことなり、学問がくもんこのみ、仏教ぶっきょうあつ信仰しんこうする一面いちめんわせていたが、そのうちめた天下てんかへの渇望かつぼうは、ちちまさるともおとらなかった。


西暦せいれき四百三年、後秦こうしん勢力せいりょくは、ついに西方せいほうへとおよんだ。

標的ひょうてきとなったのは、河西回廊かせいかいろう位置いちする後涼こうりょうである。

河西回廊かせいかいろうとは、中国ちゅうごく西方せいほうびる細長ほそなが平野へいやで、いにしえより西域せいいきへの交通こうつう要衝ようしょうとしてさかえてきたである。

後涼こうりょうは、かつて前秦ぜんしん苻堅ふけんめいを受け、西域せいいき遠征えんせい成功せいこうさせた武将ぶしょう呂光りょ こう建国けんこくしたくにであった。呂光りょ こう武勇ぶゆうすぐれ、その統治とうち比較的ひかくてき安定あんていしていたが、かれ死後しご後涼こうりょうはその求心力きゅうしんりょくうしない、内部ないぶ混乱こんらんが続いていた。


姚興よう こうは、こののがさなかった。かれは、臣下しんかまえに、力強ちからづよ宣言せんげんした。「いまこそ、西域せいいきへのみちひらき、われらの威光いこう天下てんからしめるときだ。

この混乱こんらんに、まこと秩序ちつじょをもたらすは、我々(われわれ)後秦こうしん使命しめいである!」後秦こうしん大軍たいぐん後涼こうりょうに押し寄せた。

かつて武勇ぶゆうほこった後涼こうりょうも、内憂外患ないゆうがいかんくるしむなかではあらがすべもなく、ついにそのみやこ陥落かんらくした。後涼こうりょう滅亡めつぼうし、その広大こうだい領土りょうど後秦こうしん版図はんずくわえられた。

この勝利しょうりにより、後秦こうしん勢力せいりょくはさらに拡大かくだいし、華北かほくにおけるその地位ちいるぎないものとなっていった。


しかし、天下てんか趨勢すうせいは、ひとつの勢力せいりょくさだまることをゆるさない。後秦こうしん西方せいほうにその勢力せいりょくひろげる一方いっぽうで、きたのオルドス地方ちほうでは、あらたなあらし胎動たいどうしていた。

オルドス地方ちほうとは、黄河こうがが大きく湾曲わんきょくする内側うちがわひろがる広大こうだい草原そうげん地帯ちたいであり、いにしえより遊牧民族ゆうぼくみんぞく拠点きょてんとなってきた場所ばしょである。


西暦せいれき四百九年、匈奴きょうど鉄弗部てつふつぶ出身しゅっしんである赫連勃勃かくれん ぼつぼつが、そのあらたな王朝おうちょうてた。国号こくごうは「」。

赫連勃勃かくれん ぼつぼつは、きわめて残忍ざんにん冷酷れいこく性格せいかくぬしとしてられていた。かれきず城壁じょうへきは、わずかでもかたむけば担当者たんとうしゃ即座そくざ処刑しょけいされるというきびしさであった。

かれは、捕虜ほりょ虐殺ぎゃくさつし、降伏こうふくしたものにも容赦ようしゃしない。その苛烈かれつ統治とうちは、たみ恐怖きょうふおとしいれたが、同時どうじに彼のぐんを恐るべき存在そんざいへと変貌へんぼうさせた。


ある赫連勃勃かくれん ぼつぼつは、みずからの居城きょじょうで、側近そっきんたちにうた。

われおさめるくには、いかなるものとなるべきか? ただひろいだけのくにでは意味いみがない。天下てんかものどもが、くだけでふるあがるような、絶対的ぜったいてきちからくにこそが、われらが目指めざすべき姿すがたではないか?」

側近そっきん一人ひとりが、おそおそこたえた。

陛下へいか威光いこうのもと、天下てんか比類ひるいなき強国きょうこくきずかれることでしょう。そのつよさは、まさにいわのように堅固けんごでございます。」

赫連勃勃かくれん ぼつぼつは、つめたいわらみをかべた。

強国きょうこくか。だが、まことつよさとは、てきふるえ上が(あが)らせる恐怖きょうふなかにこそ宿やどるものだ。われは、てつで、このきずげる。」


建国けんこくは、後秦こうしん華北かほく統一とういつへのあゆみをすすめるなか突如とつじょとしてあらわれたあらたな脅威きょういであった。

強大きょうだい後秦こうしんと、残忍ざんにん赫連勃勃かくれん ぼつぼつひきいる華北かほくは、さらなる混沌こんとんへとかっていくのだった。

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