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灼熱の時代:五胡十六国時代記⑪

西暦三七四年、華北かほくの地は、前秦ぜんしんという巨大な国家の支配下に収まりつつありました。前秦の皇帝、苻堅ふけんは、氐族ていぞくという民族の出身でありながら、民族や出自にとらわれず、優れた才能を持つ者ならば誰でも重用ちょうようする、寛大な心を持つ理想主義者でした。彼の傍らには、常に一人の賢臣けんしんがいました。その名は王猛おうもう漢人かんじんでありながら、苻堅の絶大な信頼を得て、丞相じょうしょうという最高位の官職かんしょくに就き、内政ないせい軍事ぐんじの両面で国を支えていました。


王猛おうもうの現実的で柔軟な思考と、苻堅ふけんの壮大な理想が融合し、前秦は破竹はちくの勢いで勢力圏せいりょくけんを拡大していきます。華北に残っていた小さな勢力や、周辺の様々な部族が次々と前秦に服属ふくじゅうし、ついに華北全土を統一する態勢たいせいが整えられました。民は安寧あんねいを求め、この新たな時代に希望を見出し始めていました。


しかし、歴史の歯車は無情にも、新たな局面へと動き出します。


翌三七五年、前秦の宮殿の一室で、王猛おうもう病床びょうしょうに伏していました。彼の顔はやつれ、そのひとみには、かつての鋭い光の代わりに、深い疲労の色が宿っていました。


丞相じょうしょう……」


心配そうに彼の枕元まくらもとに立つのは、皇帝こうてい苻堅ふけんその人でした。苻堅ふけんは、王猛の衰弱すいじゃくした姿を見るたびに、胸が締め付けられるような痛みを覚えました。王猛は、彼にとって単なる臣下しんかではなく、共に天下の夢を語り合った、かけがえのない友でもあったのです。


王猛は、か細い声で語り始めました。「陛下へいか……わたくしの命も、もはや長うはございません。ですが、一つだけ、陛下にお伝えしたいことがございます。」


苻堅ふけんは、静かにうなずきました。


東晋とうしんへの遠征えんせいは、いましばらくお控えください。江南こうなんの地は、陛下の想像以上に強固きょうこなものです。あせりは禁物きんもつ。まずは、この華北かほくの地を盤石ばんじゃくにし、民の心を真につかむことが肝要かんようかと……」


王猛の言葉は、彼の最期の諫言かんげんでした。東晋とは、長江ちょうこうの南に位置する漢民族かんみんぞくの王朝で、前秦の統一事業にとって最後の障壁しょうへきでした。王猛は、苻堅の天下統一への野心やしんを誰よりも理解していましたが、同時にその危険性も深く見抜いていたのです。


しかし、苻堅ふけん胸中きょうちゅうでは、別の思いが渦巻いていました。彼は、王猛の言葉に耳を傾けながらも、その瞳の奥には、すでに江南の地を見据える、揺るぎない決意が宿っていました。


数日後、王猛おうもうは静かに息を引き取りました。その死は、苻堅ふけんにとって、あまりにも大きな痛手となりました。彼は、自らの右腕みぎうでを失ったかのような喪失感そうしつかんに打ちひしがれました。


王猛おうもうよ……なぜ、そなたまで、わしを置いてくのか……」


苻堅ふけんは、誰にも聞かれぬよう、小さくつぶやきました。彼の情に厚い一面が、この時ばかりは、深い悲しみとなって表れていました。


しかし、その悲しみは、やがて別の感情へと変貌へんぼうしていきます。王猛という最大の支えを失ったことで、苻堅ふけんは、自身の力で天下統一を成し遂げようとする傾向を強めていったのです。彼の心の中には、「王猛おうもう諫言かんげんは、わしを案じてのこと。だが、わしならば、必ずやこの手で天下を統一できる」という、自己過信じこかしんにも似た楽観主義らっかんしゅぎが芽生え始めていました。


王猛おうもうの死は、前秦ぜんしんの歴史において、一つの時代の終焉しゅうえんを告げるとともに、新たな、そして危険な幕開けを予感させる出来事となったのでした。



三七五年、深まる秋の気配が、前秦ぜんしんの都、長安ちょうあんを包んでいた。この年、偉大なる丞相じょうしょう王猛おうもうが病に倒れ、その生涯を閉じた。王猛おうもうは、氐族ていぞく出身の皇帝こうてい苻堅ふけんの最も信頼する賢臣けんしんであり、内政ないせい軍事ぐんじの両面で、この若き帝国を支え、強大な国家へと築き上げてきた人物である。


「陛下、どうかご無理なきよう。東晋とうしんへの南征なんせいは、まだ機が熟しておりませぬ」


死の床で、王猛おうもうはかすれる声で、苻堅ふけんに最後の諫言かんげんを述べた。しかし、その言葉は、苻堅ふけんの心に深く刻まれながらも、彼の内に秘めた天下統一てんかとういつへの燃え盛る野心やしんを止めることはできなかった。王猛おうもうという重しが外れた今、苻堅ふけんは「もう誰も私を止められない」という、ある種の解放感と、自らの理想を追求する強い決意を抱いていた。


翌三七六年。苻堅ふけんは、華北かほくに残された最後の大きな勢力、前涼ぜんりょうの討伐を決意した。前涼ぜんりょうは、現在の甘粛省かんしゅくしょう西部に位置する河西回廊かせいかいろうを支配する国であった。河西回廊かせいかいろうとは、古くから東西交易とうざいこうえき要衝ようしょうであり、その地の支配は、中国ちゅうごく西部への影響力えいきょうりょくを意味した。


前涼ぜんりょうの君主、張天錫ちょう てんしゃくは、先代からの内紛ないふん続きで弱体化した国を継いだ、若き君主であった。彼は、前秦ぜんしんの圧倒的な国力こくりょくを前に、自国の運命を悟りつつも、たみのために何ができるかを模索し続けていた。


「陛下、前涼ぜんりょうは、かつてしん忠臣ちゅうしんであった張氏ちょうしが築いた国。今、これを攻めるは、天下てんかに反するやもしれません」


朝議ちょうぎの席で、ある老臣ろうしんが、王猛おうもう遺言ゆいごんを引き合いに出しながら進言した。しかし、苻堅ふけんの瞳は揺るがなかった。


とは、天下てんか平定へいていし、たみ安寧あんねいをもたらすことにある。華北かほく統一とういつこそが、その第一歩なのだ。前涼ぜんりょうもまた、我が大業たいぎょうの一部となるべきである」


苻堅ふけんは、そう言い放つと、迷うことなく前涼ぜんりょうへの軍事行動を命じた。


前秦ぜんしんの大軍が、河西回廊かせいかいろうへと進軍を開始した。その数、十万。圧倒的な兵力へいりょくと、王猛おうもうによって鍛え上げられた精鋭せいえいの兵士たちは、怒涛どとうの勢いで前涼ぜんりょうの領土を席巻せっけんしていく。


前涼ぜんりょうの兵士たちは、故郷こきょうを守るために奮戦ふんせんした。彼らは、家族かぞく土地とちへのあいを胸に、勇敢ゆうかんけんを振るった。しかし、その抵抗も、圧倒的な兵力差へいりょくさと、練度れんどの高い前秦ぜんしんぐんの前に、次第に劣勢れっせいとなっていった。


張天錫ちょう てんしゃくは、城壁じょうへきの上から、燃え盛る故郷こきょうまちと、倒れていく兵士たちの姿すがたを静かに見つめていた。彼の胸には、たみをこれ以上苦しませたくないという、切実な思いが込み上げていた。


「もはや、これまでか……」


張天錫ちょう てんしゃくは、深くいきくと、決断けつだんを下した。彼は、白旗はっきを掲げさせ、前秦ぜんしん軍門ぐんもんに下った。前涼ぜんりょうは、ここに滅亡めつぼうしたのである。


前涼ぜんりょうの滅亡により、前秦ぜんしん華北かほくをほぼ統一するという偉業いぎょうを達成した。苻堅ふけんは、広げられた中国ちゅうごく全土の地図を満足げに眺めた。地図の上では、南方の東晋とうしんと、北方のたくばつぶを除けば、中国ちゅうごく大部分だいぶぶんが、前秦ぜんしん支配下しはいかに入っていた。


「これで、残るは東晋とうしんたくばつぶのみ……」


苻堅ふけんの心には、次なる目標として、長江ちょうこうの南に位置する東晋とうしんへの南征なんせいが、明確に浮かび上がっていた。彼の野心は、これから中国ちゅうごく全体を巻き込む、壮大そうだい大戦たいせんへと繋がっていくことになる。



ここに、383年の淝水ひすいの戦いを巡る、ある歴史の断片を紡ぎます。天下統一の夢を抱いた皇帝と、その傍らで静かに時勢を見極めていた将軍の物語です。


383年冬、広大な中国大陸は、まさに嵐の前の静けさに包まれていました。華北かほくの大部分をその支配下に収めていた大国、前秦ぜんしん皇帝こうてい苻堅ふけんは、長江ちょうこうの南に位置する東晋とうしんを滅ぼし、全土を統一するという壮大な野望を抱いていました。彼の性格は、民族みんぞく出自しゅつじにこだわらず賢い人材じんざいを登用する寛大かんだいさと、天下統一を真剣に目指す理想主義りそうしゅぎを併せ持っていました。しかし、かつて彼を支えた賢臣けんしん王猛おうもうが病に倒れる際、東晋とうしんへの無謀むぼう遠征えんせいを控えるよう諫言かんげんしたにもかかわらず、苻堅ふけんはその忠告ちゅうこくを聞き入れず、百万と号する大軍を南へと進めていたのです。


その大軍の中には、鮮卑族せんぴぞく武将ぶしょう慕容垂ぼようすいの率いる部隊もありました。慕容垂ぼようすいは、かつて自らの故国ここくである前燕ぜんえん前秦ぜんしんに滅ぼされた後、苻堅ふけん寛大かんだい処遇しょぐうを受け、その信任しんらいを得て仕えていました。彼は類稀たぐいまれなる軍事ぐんじの才と、危険を察知する能力にけた策略家(さく りゃく か)でした。苻堅ふけん東晋とうしん侵攻しんこうには表向き賛成さんせいを示していましたが、この無謀むぼう遠征えんせいが失敗に終わることをひそかに予測よそくしていました。そのため、彼の軍は戦いの中で損耗そんもうを避けるため、積極的せっきょくてき参戦さんせんひかえ、戦況せんきょうを静かに見守っていたのです。


そして、運命の「淝水ひすいの戦い」が勃発ぼっぱつしました。前秦ぜんしんの誇る大軍は、東晋とうしんのわずかな兵力へいりょくの前に、信じられないほどもろくも崩れ去りました。先鋒せんぽうが敗れると、たちまち全軍は混乱におちいり、「風声鶴唳ふうせいかくれい」、つまり風の音やつるの鳴き声さえも敵兵てきへいの声と聞き間違えるほどの恐慌きょうこう状態におちいり、我先われさきにと北へと逃げまどいました。


「まさか、この苻堅ふけんが、これほどの敗北はいぼくきっするとは……」


敗走はいそうする兵士へいしの群れにまぎれ、茫然自失ぼうぜんじしつの面持ちで馬を苻堅ふけんの姿がありました。その時、彼を囲むように現れたのは、慕容垂ぼようすいとその精鋭せいえい部隊でした。慕容垂ぼようすいは、戦いの混乱の中で冷静れいせいさを保ち、損害そんがい最小限さいしょうげんおさえていたのです。彼は、絶望ぜつぼうふちに沈む主君しゅくん護衛ごえいし、その命を救いました。


北への逃避行とうひこうが続く中、慕容垂ぼようすい苻堅ふけんを深く尊敬そんけいしていました。しかし、同時に、この大敗たいはい前秦ぜんしん天下統一てんかとういつの夢を打ちくだき、その求心力きゅうしんりょくを失わせたことをさとっていました。今こそ、自らの故郷こきょうである華北かほく東方とうほうに、新たな国を築く好機こうきであると。


ある夜、わずかなともを連れた苻堅ふけん慕容垂ぼようすいは、き火を囲んでいました。


すいよ、そなたのおかげで、この命拾いのちびろいをした。感謝かんしゃする。」


苻堅ふけん憔悴しょうすいしきった顔で、しかし真摯しんし眼差まなざしで慕容垂ぼようすいを見つめました。


慕容垂ぼようすいは静かに答えます。


陛下へいか滅相めっそうもございません。しんとして当然とうぜんつとめ。しかし、この度の敗戦はいせんで、我が軍も再編さいへん必要ひつようがございます。どうか、わたくし故郷こきょうへいつのるおゆるしを……」


慕容垂ぼようすいは、故郷こきょう河北かほくへ戻り、へい募集ぼしゅうするという、いかにも下手へたな言いいいわけを口にしました。それは、苻堅ふけんへの尊敬そんけいと、自らの野心やしんとの間でれる複雑ふくざつ感情かんじょうの表れでした。苻堅ふけんは、慕容垂ぼようすい真意しんいさとっていたでしょう。しかし、彼をとがめる力は、もはや残されていませんでした。


「そうか……。ならば、そなたの思うようにせよ。だが、いつか、再びちんの元に戻る日があることを、願っているぞ。」


苻堅ふけんの言葉には、あきらめと、そして慕容垂ぼようすいへの深い信頼しんらいにじんでいました。こうして、二人の間には、静かに、しかし決定的な別離べつりの時が訪れたのです。この敗戦はいせんを境に、前秦ぜんしん統一とういつ挫折ざせつし、華北かほくは再び群雄割拠ぐんゆうかっきょの時代へと突入とつにゅうしていくことになります。

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