第3章 効率の悪い感情たち
1節:資料の中の“理想と現実”
木曜の朝。
会社の会議室には、ホワイトボードの前で立つ私と、無表情な成瀬。
共同プレゼンのリハーサル中だ。
「――で、この部分の結論をもう少し短くできますか?」
成瀬が冷静に言う。
「でも、それだとデータの流れが伝わらないと思うんです。」
「数字より印象が大事です。クライアントは“感情”では動きません。」
“感情”という単語に、心のどこかがチクリとした。
私は小さく息を吸い、なるべく平静を装う。
「……はい。でも、少し考えさせてください。」
会議室の窓から射す朝日が、ガラス越しに揺れていた。
理屈ではわかっている。
でも、なんでだろう。
“正しいだけ”の会話が、こんなに苦しいなんて。
2節:ランチの誘い、そして“沈黙”
昼。
社内食堂で、里奈がハンバーグ定食を前に言った。
「美咲さん、最近ちょっとピリピリしてません?」
「え、そう?」
「成瀬さんと話してる時、表情が怖いです」
「……いや、怖くしてるつもりはないんだけど」
「恋の裏返しかもですね!」
「やめてよ、そういうの」
笑いながら否定するけれど、
その瞬間、なぜか胸の奥が熱くなる。
スマホを見ると、Slackの通知。
成瀬智也:「午後の修正案、相談できますか」
まるでタイミングを計ったようだった。
私は深呼吸して返信を打つ。
「はい、会議室Dで」
午後2時。
資料を挟んで向かい合う二人。
いつも通りの距離。
なのに、どこか息が詰まる。
「ここ、修正しておきました」
成瀬が淡々と画面を差し出す。
そこには、私の書いた文章がほぼ全部削られていた。
「……これ、私の意図とは違います」
思わず声が強くなる。
「意図よりも、効果を優先しました。」
「でも、これは“人”に伝える資料ですよね?」
成瀬の眉が少しだけ動いた。
「朝倉さん、“感情”を入れると伝わると、まだ思ってますか?」
「……はい。少なくとも、無機質な数字だけでは心は動かないと思ってます。」
会議室の空気が一気に冷たくなる。
沈黙の中で、互いの視線がぶつかった。
3節:言葉がこぼれた夜
その日の帰り道。
私は残業で最後のひとりになっていた。
誰もいないオフィスで、修正された資料を開く。
“正しすぎる”言葉が並ぶ。
でも、そこに自分の“温度”はない。
マウスを握る手が震える。
私はつい、メッセージを打っていた。
「成瀬さん、あの資料、少しだけ戻していいですか?」
送信ボタンを押す直前に、ためらった。
(……いや、やめよう)
そう思った瞬間、Enterキーが勝手に反応した。
送信済。
「うわぁぁぁ!」
自分の声がオフィスに響いた。
その3分後、Slackに通知が来る。
「いいと思います。戻しましょう。」
思わず、息を飲む。
返信が、いつもより少しだけ柔らかかった。
4節:すれ違いの中の“優しさ”
翌朝、出社すると、成瀬がすでに会議室で資料を直していた。
「昨日の件、僕の方こそ、押しすぎました。」
「いえ、私の方こそ……すみません。」
沈黙が流れる。
画面に映るグラフ。
修正箇所の端に、小さなメモが残されていた。
“この部分の語り、あなたの文の方が伝わる気がします。”
――“あなたの文”。
その言葉を見た瞬間、
なぜか涙が出そうになった。
「……ありがとうございます」
やっとそれだけ言えた。
成瀬が少しだけ笑う。
「やっぱり、効率悪いですね、僕たち。」
「でも、それが“人間”なんじゃないですか?」
笑い合う二人の間に、
やっとほんの少し、柔らかな空気が流れた。




