第2章 正しい距離の測り方
1節:Slackの既読と未読のあいだ
午後3時、モニターの角にまた小さな通知が現れた。
成瀬智也:レビューコメント追記しました。
たった一行。
けれど、心臓のどこかがピクリと動く。
私は指先でトラックパッドをなぞりながら、
「……もう少し人間味のあるメッセージにしてくれたらいいのに」と小声で言った。
開いてみると、コメント欄には細かい修正指摘がびっしり。
「表現が抽象的」「数値根拠の提示を」など、
まるで私の感情を削り取るような正確さ。
思わず、返信欄に打つ。
“了解です!”
……のあとに、なぜか♡をつけてしまった。
指が勝手に動いた。
気づいて削除しようとしたが、
Slackは既に送信済み。
「死んだ……」
画面の前で、声にならない悲鳴を上げた瞬間、
里奈が背後から覗き込む。
「え、何やってるんですか、美咲さん?」
「いや、その、誤爆……いや誤ハート」
「え、ハート!?」
笑いを堪えきれず、里奈が吹き出す。
私は真っ赤になってモニターを閉じた。
成瀬からの返信は、3分後に届いた。
「承知しました。」
――ハートの件には、一切触れられなかった。
2節:昼下がりの論理と、少しの感情
午後の社内ミーティング。
成瀬が冷静にプロジェクト進行をまとめる声が響く。
数字の話、スケジュール、リスク回避。
私はメモを取りながら、どこか遠い音のように聞いていた。
「朝倉さん、何かありますか?」
不意に話を振られ、心臓が跳ねる。
「えっ、あ、えっと……」
沈黙。
社内の空気が一瞬、固まる。
「……すみません。今の案、とても良いと思います」
何を言ったか、自分でもよくわからない。
会議後、成瀬が静かに近づいてきた。
「朝倉さん、今日、ちょっと疲れてます?」
「いえ、全然!」
即答した自分の声が裏返った。
「……そうですか。じゃあ、無理しないでください」
彼はそう言って、淡々と戻っていった。
無表情のようで、
その背中に、ほんの少しだけ“気遣い”の温度を感じた。
3節:夜のコンビニと、誰にも見せない弱音
終業後。
外に出ると、雨が降っていた。
傘を持っていない。
コンビニの透明傘を手に取りながら、
スマホを見た。
Slackの通知欄に、成瀬のアイコンがまだ光っている。
「今日の件、少し話せますか?」
時計は20時。
私は数秒、ためらってから返信を打った。
「はい、近くのカフェにいます」
小さなテーブル。
雨音と、コーヒーマシンの蒸気音。
成瀬はいつものように静かにノートPCを開き、
プロジェクトの資料を広げた。
でも、開口一番の言葉は意外だった。
「朝倉さん、あなたの“感覚”って、いいですね。」
「え?」
「効率や数値だけで考える人には、出せないバランスがあります。
それがあるから、チームが動けていると思います。」
私は何も言えなかった。
褒められたはずなのに、
胸の奥が少しだけ痛かった。
「……でも、それ、たぶん非効率ですよ」
「そうですね。僕も最近、それを考えてました。」
彼の声は、ほんの少し柔らかかった。
4節:傘を閉じる瞬間
カフェを出ると、雨は小降りになっていた。
店の軒先で並んで立つ二人。
「成瀬さん、どっちの方向ですか?」
「駅の方です。」
「同じですね。」
並んで歩きながら、街灯が水たまりを照らす。
沈黙が続いたあと、成瀬がぽつりとつぶやいた。
「さっきのハート、気にしてませんよ。」
「っ……!」
彼はほんの少しだけ、口の端を上げていた。
「でも、あれで、今日少し元気になりました。」
「……ほんとですか?」
「ええ。朝倉さんらしいと思いました。」
私らしい――その言葉が、
なぜだか、涙腺のどこかを軽く叩いた。
別れ際、傘を閉じる音が、夜に響く。
街の明かりが滲んで、
その輪郭が少しだけ遠くに見えた。




