第1章 フィルターを忘れた朝
1節:朝のコーヒーと、こぼれたもの
月曜の朝。
淹れたてのコーヒーの香りが、いつもなら私の一日を整えてくれる。
――はずだった。
けれど今日に限って、フィルターをセットし忘れていた。
気づいたときには、キッチンのカウンターに黒い湖。
床にも、白いスリッパにも、ぽたぽたとした飛沫が広がっていく。
「……あぁ、月曜、だな。」
そう呟いて、ペーパータオルを掴む。
コーヒーが滲んだ紙の感触が、妙に温かかった。
予定より5分遅れて家を出て、
電車のドアが目の前で閉まる。
いつも乗っている8時12分発。
ホームで少しだけ息を整えて、スマホを開いた。
Slackには未読の数字が赤く光っている。
その中に、プロジェクトリーダー・成瀬からのDMがあった。
「資料のドラフト、10時会議前に確認したいです」
時計を見た。8時14分。
私は思わず画面に向かって呟く。
「……あの人、朝から律儀すぎる。」
でも、そんな人だからこそ、
私はちょっとだけ彼を尊敬している。
2節:オフィスの“微妙な空気”
オフィスのエントランスを抜けた瞬間、
冷たい空気とコピー機の匂い。
「朝倉さん、おはようございます!」
若手の里奈が笑顔で声をかけてくれる。
彼女はいつも、疲れてる私の“ビタミン”。
「おはよう。週末どうだった?」
「普通です。課長がSlackで夜中に“いいね”してきた以外は」
「……それは普通じゃないね」
笑いながらデスクに座る。
PCを開くと、成瀬からの追メッセージ。
「今朝、メールの添付ファイル、開けませんでした」
……嫌な予感。
確認してみると、資料ではなく自分の買い物リストを送っていた。
「牛乳・洗剤・納税通知書・ネイルオイル」。
顔が熱くなる。
「死にたい……」と小声で呟くと、
隣の里奈が首を傾げる。
「え?」
「いや、なんでもない。今日、コーヒーこぼしただけ」
3節:理想と現実のあいだ
午前10時の会議。
画面越しの成瀬は、いつもどおり落ち着いていた。
冷静で、言葉が正確で、余計な表情をしない。
「朝倉さん、顧客調査のサンプル、少し偏ってませんか?」
「……そうですね、地域層が20代に寄ってます」
「補正しませんか。リリース後に叩かれるのは避けたいので」
淡々とした声。
正論だけれど、どこか“人の温度”がない。
私は一瞬だけ反論しかけて、
口の中で言葉が溶けた。
「……わかりました。修正します」
会議が終わると同時に、
コーヒーをこぼした朝のことを思い出した。
自分の手のひらの中で、
“完璧じゃないもの”がこぼれていく感覚。
もしかしたら、仕事も恋も、
フィルターをかけすぎてるのかもしれない。
4節:小さなミスの中にある“現実”
午後、Slackにまた成瀬から通知。
「朝倉さん、リストの件は大丈夫でした」
……リスト?
あ。
“買い物リスト”のことだ。
返信しようとして、指が止まる。
「ありがとうございます(汗)」と打った後、
(汗)を消して、無難にした。
「ありがとうございます。助かりました。」
少し味気ない。
でも、“正しい距離”って、こういうことなのかもしれない。
画面を閉じたあと、
ふと、朝の黒いコーヒーの跡が頭をよぎった。
完璧に拭いたつもりでも、
テーブルの角には小さな染みが残っていた。
その“染み”みたいなものが、
私の毎日にも、
たぶんちゃんと、あるんだと思う。




