【第5話】「辛くない? 本当かい?」
異世界生活3日目の朝。
自分が何者かもわからないまま、それでも体は日常の流れを知っている。
今日は初めて一人で市場へ――そして夜には、ちょっと変わった客との出会いが待っていた。
また新しい朝がやってきた。
窓の外は、いつものように市場の呼び声と荷馬車の軋む音で賑やかだ。
――気づけば、この世界に来て三日目。
「二人とも起きなさいよ!」
お母さんの声が部屋に響く。
私とアーちゃんは、まだ布団の中で目をこすっていた。
「それと、ルミ。今日はあんた、買い出しお願いね」
呼ばれた瞬間、頭より先に体が動いた。
着替えを済ませ、籠も持たずに外へ出る。
……持たないのは、空間魔法があるからだ。買ったものは手元の空間に仕舞われ、重くもならないし鮮度も落ちない。これが当たり前のようにできるのが、やっぱり不思議だ。
市場に足を踏み入れると、八百屋、肉屋、香辛料屋――順番も、買うべきものも自然に分かっていた。
旬の野菜を選び、肉屋で竜肉と羊肉を量り売り、香辛料屋では唐辛子と香草を袋いっぱいに詰めてもらう。
顔なじみのように挨拶を交わす自分に、違和感を覚える余裕もない。まるでずっとここで暮らしていたみたいだ。
買い出しを終えて帰ると、ちょうどお母さんが今日の一品を仕上げていた。
荷物をテーブルに並べ、七輪に炭を入れる。
外にはすでに行列ができていて、開店前から賑わいを感じる。
「今日もいくよ、異世界焼肉オープン!」
昼から夕方にかけて、いつものように店内は笑い声と肉の焼ける音で満たされた。
そんな中、一人席に腰を下ろした客がいた。髪をひとつに束ねた強面の男。着ているのは御者服で、皮のベストに長靴。背筋を伸ばして座るその姿は、どこか現代の場末のスナックに似合いそうな雰囲気を漂わせている。
「龍の生センマイ、辛いタレで」
男は短く注文した。それから何度もおかわりを繰り返す。
食べるたびに「辛味が足らねぇな」とぶつぶつ。
するとアーちゃんがニヤリと笑って、唐辛子をどんどん追加していく。
真っ赤になったセンマイを口に運び、額に汗をかきながらも「辛くない、辛くない」と言い張る男。
痩せ我慢しているのは見え見えで、その姿に私は少しほっこりした。
とうとうグラスの水に手を伸ばし、深呼吸をする男。
閉店が近づいた頃、席を立ちながら言った。
「また一週間後にこの街に戻ってくる。その時はもっと辛いもんを用意しといてくれよ」
ふらつきながらも、どこか楽しげに暖簾をくぐっていった。
その背中を見送り、私とアーちゃん、お母さんの三人は顔を見合わせ――
「プハハハハ!」
同時に吹き出した。
「変わった人だね」
「一見怖そうなのに、なんだか憎めない人だったね」
「来週はハバネロ用意しとかないとね」
アーちゃんはすでに頭の中で“デスソース”の研究を始めているらしい。
私はその横顔を見ながら、また一人、忘れられない客が増えたことを感じていた。
第5話、お読みいただきありがとうございます!
今回は、ルミとして初めての買い出しと、“辛さ”に挑む謎の御者とのやり取りを描きました。
こういう一見怖そうで、でも人情味ある客が増えていくと、店の空気もどんどん豊かになりますね。
次回は、この御者が再び現れ……そしてついに、アーちゃんのデスソースが完成します。
どうぞお楽しみに!