【第4話】「ルミという名前」
気づけば、この世界に来て二日目の朝。
何者かも分からないまま、日常だけは当たり前のように過ぎていく。
――そんな私に、今日は“名前”が与えられることになる。
また新しい朝が始まった。
窓の外からは、朝市のざわめきと馬車の車輪の音が混じって聞こえる。
目を開けると、昨日と同じ木の梁と白い天井。ここがどこかも、自分が何者かも、まだ分からない。
「何してるの、仕込みしないと開店に間に合わないよ」
お母さんが顔を覗き込んできた。エプロン姿のまま、手には包丁。
「今日はアーちゃんが市場に行く日でしょ」
アーちゃん――姉は少し首をかしげた。
「市場? ……ああ、そうだったね」
その反応は、どこか私と似ている。あんまり分かってないような、でも体は自然に動いているような。
「ワタシと一緒なの?」と聞きそうになったけれど、飲み込んだ。
姉は普段通り市場へ出かけ、私はお母さんと二人で開店準備を始める。
肉を並べ、七輪を磨き、野菜を洗う。手は迷いなく動く。
――何だろう、この不思議な日常。でも、確かめる勇気がない。もし聞いたら、全部壊れてしまいそうな気がする。
しばらくして、アーちゃんが戻ってきた。籠いっぱいの肉や野菜、香辛料まで抱えている。
ちゃんと買い出しできている。……気のせいだよね、と自分に言い聞かせる。
七輪に炭が入り、香りが広がると、もう開店時間だ。
外にはすでに行列。今日もここから、一日が始まる。
昼過ぎ、昨日のヨリ坊が友達を連れてやってきた。
男三人に、女の子一人。笑い声とともに席に着き、エールを注文する。
肉が焼けるたびに「うまい!」と声が上がる。見ているこちらも嬉しくなるくらい、楽しそうに食べてくれる。
やがて閉店が近づき、友人たちは順に席を立った。
残ったのはヨリ坊一人。自然とあの一人席へ移り、焼酎をぐいぐいと煽り始める。
「なんだい? 友達と帰らなくてもいいのかい?」とアーちゃん。
「あー……ちょっと一人で飲みたい気分なんだよ」
その時、お母さんが奥から暖簾を早めに下ろした。
そしてヨリ坊の横に腰を下ろし、「暖簾おろしたんだから、しっかり飲んでよ」と笑う。
二人並んでグラスを傾ける姿は、まるで昔からの友人のようだった。
私は少し離れたところから、その様子を見ていた。
ヨリ坊もアーちゃんも、お母さんを「お母さん」と呼び、笑い合っている。
するとヨリ坊がふとこちらを見て、「あの従業員の子は、なんて名前だい?」と尋ねた。
名前――私は答えられなかった。自分の名前すら、知らないのだ。
代わりにお母さんが、何でもないように言った。
「ルミだよ」
……ルミ。初めて知った名前なのに、なぜかすっと胸に落ちた。違和感はなかった。
「ルミちゃんかぁ。可愛いね。俺の嫁になってくれないかい?」
酔いの勢いで言ったヨリ坊の頬は真っ赤だ。
次の瞬間、アーちゃんの平手が炸裂した。
「調子に乗んな!」
ヨリ坊はキョトンとし、お母さんは大笑い。それにつられてヨリ坊も笑い出す。
「調子に乗りました、ごめんなさい。また出直してきます」
そう言って、あっさりとおあいそ。ふらつきながらも満足そうに帰っていった。
こっちもあっちも嫌な気分にはならず、むしろ距離が縮まったような夜。
きっとヨリ坊は、これから常連になる。そんな予感があった。
片付けが終わるころには、体も頭も心地よい疲れに包まれていた。
ベッドに潜り込むと、あっという間に眠りについた。
第4話、お読みいただきありがとうございます!
今日は“ルミ”という名前が明かされ、妹としての主人公が少しだけ自分の存在を知る回になりました。
ヨリ坊とのやり取りも、ただの酔っ払い騒動ではなく、人の距離が近づくきっかけになった夜です。
次回は、ルミとしての自覚が芽生え始める一方で、店に新たな常連候補が現れます。
また少しずつ、異世界焼肉屋の輪が広がっていきます。