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乗せた女は、乾くことがなかった

作者: syubi02

都市に降りしきる豪雨の夜。

本来なら安全なはずの車内に、知らない女が乗ってきた──。


本作は「恐怖は選択の中に潜む」をテーマにした短編ホラーです。

雨、水、濡れた身体、そして視界の曇りが、何を見せ、何を見せないのか。


静かに広がる異常と、答えのない不安をお楽しみください。

ワイパーが間に合っていない。


ガラスに打ちつける雨粒の音が、室内のラジオを飲み込んでいく。

天気予報は「台風の外縁」と言っていたが、実際の空は怒っていた。

視界は濁り、道は混み、信号も滲む。ナビはさっきからフリーズしたままだ。


『……今日はもう終わりにしようか』

俺は、フロントガラスの奥に広がる濁った夜を見ながら、ハンドルを切った。


会社から最後の配車も来ない。

大雨の中を無理して走る理由もない。

後は適当にコンビニでコーヒーでも買って、車を返すだけ……

そう、思っていた。


そのときだ。

**バン!バン!**という音と共に、何かが後部ドアを叩いた。

突然すぎて、俺は思わずブレーキを踏んだ。


暗い歩道、街灯の下に──

ひとりの女が立っていた。全身、ずぶ濡れだった。


白いワンピースが体に張り付き、髪は顔にまで垂れている。

目元ははっきり見えない。でも、あれは……怯えの表情だった。


「……お願い、乗せて……追われてるの……っ」


ガラス越しでも、声が震えていた。

雨に打たれながらも、必死にドアを叩く彼女の手は細く、冷たそうで……

それでも、俺は一瞬、迷った。


この雨の中、何が起きてるかなんて、誰にもわからない。

だが──


『……どうぞ』


ドアロックを外す音が、車内に響いた。


「……この先の、郊外にある学校……小さな坂を登ったところにあるの……そこまで、お願い……」


後部座席に座ると同時に、彼女は息を整えぬまま、震える声で行き先を告げた。

「学校」とは言ったが、時間はすでに夜の九時を回っていた。

しかもこの雨の中、そんな場所に行く理由が──


『……わかりました』


俺は疑問を飲み込み、静かにギアを入れた。

雨脚はさらに強まり、信号の赤が、濡れた路面に歪んで広がっていた。


ルームミラー越しに、後部座席の様子を確認する。

……が、クリアだったはずのアクリル板に、うっすらと霧が立ちはじめている。


エアコンは乾燥モードにしてある。なのに、なぜ。

指で軽く触れると、内側から湧いてくるような湿気が、板の下部からじんわりと広がっていた。


『エアコン、効いてるはずなんだけど……』


言いかけたが、やめた。

今、俺に必要なのは沈黙だ。

何かが違う。そう思いながら、俺はただ、ハンドルに集中した。


──そして、彼女の姿。


バックミラーのわずかな視野に映る、彼女の輪郭。


暗がりの中、フロントライトが反射するたびに、白い服が淡く浮かび上がる。

ワンピースは、まるで水に沈んだ布のように、肌にまとわりついていた。

細くて小さな肩、その上を絶え間なく水滴が伝い落ちている。


不自然なのは、その「濡れ方」だった。

車に乗ってから、すでに数分が経っている。

それなのに、彼女の髪先からは未だにぽたり、ぽたりと水滴が落ち続けている。

それは、服の裾からも、膝の上からも。

雨に濡れた、というよりも──彼女自身が水でできているかのようだった。


俺の目線に気づいたのか、彼女は微かに体を縮こまらせた。

顔の半分を濡れた髪で隠し、前を向いたまま、声を漏らす。


「……もっと……もっと早く……お願い……」


『そんなに……追ってくる人ってのは、危険なんですか?』


思わず口に出してしまった。

しかし、彼女は何も言わない。ただ──


「……こっちを……見ないで……」


それは懇願のようで、拒絶のようでもあった。

俺は反射的に視線を逸らし、前方に集中する。


タクシーの中は静かだった。

ラジオは雨音に負けて聞こえず、エンジンの振動だけが微かに伝わる。


『……』


彼女が誰に追われているのか、本当に誰かがいるのか──

俺にはわからない。ただ、確かに感じていた。

彼女の声が震えるたび、この車の中の空気が、じわじわと冷たく、重くなっていく。


ルームミラーには、もはや彼女の顔は映っていない。

霧が広がりすぎて、アクリルの隔離板の向こうは、濁った水のような曇りに包まれていた。


それでも、後ろから声は届く。


「……まだ、ここじゃない……もっと先……山の上……そこまで、行かないと……」


その声は、まるで水面に浮かぶ小舟のように、かすかで、不安定だった。


俺は知らぬ間に、スピードを上げていた。

ハンドルを握る手に力が入る。

バックミラーを見ることをやめた。

窓の外では、街の光が水に溶けるように、滲んで流れていく。


交差点を抜けたあたりで、急にワイパーの動きが追いつかなくなった。

フロントガラスに叩きつけられる雨は、まるでバケツをひっくり返したような激しさで、

車体全体が水圧に押されるような感覚すらあった。


側道にはすでに水が溜まり始め、縁石が見えなくなっている。

コンビニの前を通り過ぎるとき、ガラスの向こうに立ち尽くす客たちの姿が一瞬見えた──

が、その後すぐにすべてが水の膜に包まれ、消えた。


『……こりゃ、本格的にやばいな……』


俺はアクセルをゆるめ、横目で後部座席を確認しようとした。

だが、ルームミラーはすでに完全に曇っていた。

アクリル板の内側から広がった霧は、ミラーにも達し、もはや後方は一切見えない。


それなのに──


「……お願い……止まらないで……」


声だけは、はっきりと聞こえていた。

いや、はっきり……ではなかった。

どこか、水中から聞こえるような、こもった響きがあった。

ちょうど、風呂場で話しかけられたときのような、あのくぐもった感じ。


『なあ……その、誰に追われてるって言ってたけど……』


俺は、意を決して口を開いた。


『誰なんだ? さっきからずっと……外、見てるけど……何が見えてる?』


返事はない。


『君さ、どこから来たんだ? こんな夜に、こんな場所で、ずぶ濡れになって……』


返ってくるのは、ただ──


「……ダメ……ここじゃ、まだ……全部来る……逃げなきゃ……っ」


彼女の声が、次第に震え、掠れていく。


ラジオは、砂嵐のようなノイズしか流していなかった。

周波数を変えても、どのチャンネルも同じ。

まるで、この街の電波そのものが水没したかのように。


そして、そのときだった。


「……ッ!」


車内に、明らかに異質な湿気の匂いが立ち込めてきた。


雨に濡れた服の匂いとは違う。

もっと生臭く、もっと重い。

それは、川沿いの遊歩道の隅に置き去りにされた傘の中のような、

あるいは──数日放置された濡れたタオルのような、そんな匂い。


『……っ、なんだこれ……』


不快な臭いが鼻を刺し、思わず咳き込む。

と同時に、背中に冷たいものが触れた。


振り向くことは、できなかった。

代わりに、視線を下げると──


運転席のフロアマットの端が、しっとりと濡れている。


いつのまにか、助手席の足元から水が染み出してきていた。

まだ、水溜りというほどではないが、確実に──「そこ」から、何かが広がっている。


俺はブレーキを踏みながら、肩越しに声をかけた。


『なあ、……今、何が起きてる? 君、……本当に人間なのか?』


答えはない。

ただ、「じゅっ……」という微かな音が耳元で聞こえた。


それは──


彼女の体から滴り落ちた水が、アクリル板の内側を這って落ちる音。


視線を前に戻すと、ミラーの中で、ほんの一瞬だけ、

自分の首筋に何かが垂れたような幻覚を見た。


『……っく、くそ……!』


俺は思わず、エアコンを最大出力にした。

でも、それでも霧は取れない。

いや、むしろ濃くなっていくようにすら思える。


「……もうすぐ……でも、まだ……早く……」


その声が、水面から顔を出す直前の、溺れている人のようなか細さで届く。


俺は、後ろを振り向けなかった。

車内の温度は下がり続けているのに、背中にはじんわりと汗が滲んでいた。


ドアポケットに入れていたスマホがバイブ音を鳴らすが、画面は真っ黒。

どれだけタップしても点かない。

ラジオはまだ、ざあ……ざあ……という音を鳴らしている。


『……俺、どこ走ってんだ……?』


気がつけば、標識も信号も、店の灯りすら見えない。

フロントガラスに映るのは、ひたすらに、揺れる水の影と、滲んだ街の明かりだけ。


そして、今も──


後ろの座席では、誰かが、確かに、呼吸していた。


『……まだか……』


喉が詰まるように、言葉が出なかった。

呼吸が、うまくできていない。

顔は濡れていないのに、まるで水の中にいるかのように、肺が重い。


ハンドルを握る手も、じっとりと濡れている。

雨ではない。

いつの間にか、車内そのものが「沈んでいる」ような感覚だった。


ふと、ブレーキを踏みたくなった。

「ここで降りてもらおうか」と。

でも、それを口にすることが、どうしてもできなかった。


後部座席にいる彼女が、次に何をするのか。

何を思ってここまで来たのか。

なぜ、あの夜に「俺」を選んだのか。


わからない。

だが、言えることがある。


──怖い。


本能的に、後ろの存在を「見てはいけない」と感じていた。


だが、そのときだった。


「……見えてきた……あそこ……」


彼女の声が、微かに震えながら届いた。


前方に、微かな灯り。

風に揺れる電灯の下、坂道が続いている。

登った先には、黒い影がうっすらと立っている建物──学校か、あるいは古い集会所か。


俺はハンドルを切り、坂道を登る。

すると、不思議なことに、息が少しずつ楽になっていった。

肺に入ってくる空気が、明らかに軽くなっている。


さっきまでの圧迫感が、嘘のように薄れていく。

喉の痛みも、いつの間にか消えていた。


坂の上に到着したとき、彼女がぽつりと呟いた。


「……ここなら、もう大丈夫……」


車を停めた俺は、思わず大きく息を吸い込んだ。

冷たい空気が喉を通り、肺を満たす。

咳が止まり、手の震えも消えた。


『……助かった……のか……?』


そう思いながら、メーターを見て、料金を確認する。

通常よりも走っていないはずなのに、数字はなぜか妙に高い。

頭がぼんやりしていたせいか、記憶が飛んでいる部分もあるのだろう。


『あの、着きました。料金は……』


言いながら、ようやく後ろを振り返る──


そこには、誰もいなかった。


いや、正確には、「人の形をした何か」も、もう存在していなかった。


後部座席には、ただ──水の跡だけが残されていた。


座面の中心に、水がたまったような円形の染み。

その周囲に、水滴がパラパラと散り、窓の内側に髪の毛が一本、貼りついている。


長く、黒く、そして濡れていた。


俺は思わず、助手席に視線を移した。


そこも濡れていた。


座面がじんわりと水を含んでいる。

そして──助手席側のドアの内側から、ポタリ、ポタリと水が滴っていた。


『……嘘、だろ……』


車内には、もう声も足音もない。

ただ、風の音と、車のルーフを叩く雨の音だけが続いていた。


そのとき──


「ピピッ……」


無線から、突如として音が鳴った。


「おーい、聞こえてるか? まだ市街地にいるのか?」


『……!』


「さっきのニュース見たか? 市区の下の方、海水が逆流して一階分まるごと浸かったってよ!」


『……は?』


「お前のとこ、大丈夫か!? おーい、返事しろ!」


……だが、何を返せばいいのかわからなかった。

俺は無線機を握りしめたまま、言葉が出なかった。

市街地が……? 海水が……?


じゃあ、あの時、俺がいたのは──

あの「彼女」がいた場所は──


本当に、まだ地上だったのか?


車外では、風が唸りを上げていた。

でも不思議と、ここには水の気配がない。

ただ、どこか遠くの方で、波の音のようなものが聞こえた気がした。


俺は深く、ゆっくりと呼吸する。

生きている──そのことを、身体の奥でようやく実感した。


もう一度だけ、ルームミラーを見た。


そこには何も映っていない。

だが、鏡の端に、うっすらとした水滴が一つ、残っていた。


それは、まるで──


「ありがとう」の代わりのしずくのように、そこにあった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「乗せた女は、乾くことがなかった」は、

見た目には何も起きていない“日常の隙間”に潜む恐怖を描いたつもりです。


彼女は誰だったのか? 本当にいたのか?

あのとき、ドアを開けなかったら──主人公はどうなっていたのか。


すべてを語らず、何かが残るような読後感を目指しました。


感想、評価などいただけると嬉しいです!

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