乗せた女は、乾くことがなかった
都市に降りしきる豪雨の夜。
本来なら安全なはずの車内に、知らない女が乗ってきた──。
本作は「恐怖は選択の中に潜む」をテーマにした短編ホラーです。
雨、水、濡れた身体、そして視界の曇りが、何を見せ、何を見せないのか。
静かに広がる異常と、答えのない不安をお楽しみください。
ワイパーが間に合っていない。
ガラスに打ちつける雨粒の音が、室内のラジオを飲み込んでいく。
天気予報は「台風の外縁」と言っていたが、実際の空は怒っていた。
視界は濁り、道は混み、信号も滲む。ナビはさっきからフリーズしたままだ。
『……今日はもう終わりにしようか』
俺は、フロントガラスの奥に広がる濁った夜を見ながら、ハンドルを切った。
会社から最後の配車も来ない。
大雨の中を無理して走る理由もない。
後は適当にコンビニでコーヒーでも買って、車を返すだけ……
そう、思っていた。
そのときだ。
**バン!バン!**という音と共に、何かが後部ドアを叩いた。
突然すぎて、俺は思わずブレーキを踏んだ。
暗い歩道、街灯の下に──
ひとりの女が立っていた。全身、ずぶ濡れだった。
白いワンピースが体に張り付き、髪は顔にまで垂れている。
目元ははっきり見えない。でも、あれは……怯えの表情だった。
「……お願い、乗せて……追われてるの……っ」
ガラス越しでも、声が震えていた。
雨に打たれながらも、必死にドアを叩く彼女の手は細く、冷たそうで……
それでも、俺は一瞬、迷った。
この雨の中、何が起きてるかなんて、誰にもわからない。
だが──
『……どうぞ』
ドアロックを外す音が、車内に響いた。
「……この先の、郊外にある学校……小さな坂を登ったところにあるの……そこまで、お願い……」
後部座席に座ると同時に、彼女は息を整えぬまま、震える声で行き先を告げた。
「学校」とは言ったが、時間はすでに夜の九時を回っていた。
しかもこの雨の中、そんな場所に行く理由が──
『……わかりました』
俺は疑問を飲み込み、静かにギアを入れた。
雨脚はさらに強まり、信号の赤が、濡れた路面に歪んで広がっていた。
ルームミラー越しに、後部座席の様子を確認する。
……が、クリアだったはずのアクリル板に、うっすらと霧が立ちはじめている。
エアコンは乾燥モードにしてある。なのに、なぜ。
指で軽く触れると、内側から湧いてくるような湿気が、板の下部からじんわりと広がっていた。
『エアコン、効いてるはずなんだけど……』
言いかけたが、やめた。
今、俺に必要なのは沈黙だ。
何かが違う。そう思いながら、俺はただ、ハンドルに集中した。
──そして、彼女の姿。
バックミラーのわずかな視野に映る、彼女の輪郭。
暗がりの中、フロントライトが反射するたびに、白い服が淡く浮かび上がる。
ワンピースは、まるで水に沈んだ布のように、肌にまとわりついていた。
細くて小さな肩、その上を絶え間なく水滴が伝い落ちている。
不自然なのは、その「濡れ方」だった。
車に乗ってから、すでに数分が経っている。
それなのに、彼女の髪先からは未だにぽたり、ぽたりと水滴が落ち続けている。
それは、服の裾からも、膝の上からも。
雨に濡れた、というよりも──彼女自身が水でできているかのようだった。
俺の目線に気づいたのか、彼女は微かに体を縮こまらせた。
顔の半分を濡れた髪で隠し、前を向いたまま、声を漏らす。
「……もっと……もっと早く……お願い……」
『そんなに……追ってくる人ってのは、危険なんですか?』
思わず口に出してしまった。
しかし、彼女は何も言わない。ただ──
「……こっちを……見ないで……」
それは懇願のようで、拒絶のようでもあった。
俺は反射的に視線を逸らし、前方に集中する。
タクシーの中は静かだった。
ラジオは雨音に負けて聞こえず、エンジンの振動だけが微かに伝わる。
『……』
彼女が誰に追われているのか、本当に誰かがいるのか──
俺にはわからない。ただ、確かに感じていた。
彼女の声が震えるたび、この車の中の空気が、じわじわと冷たく、重くなっていく。
ルームミラーには、もはや彼女の顔は映っていない。
霧が広がりすぎて、アクリルの隔離板の向こうは、濁った水のような曇りに包まれていた。
それでも、後ろから声は届く。
「……まだ、ここじゃない……もっと先……山の上……そこまで、行かないと……」
その声は、まるで水面に浮かぶ小舟のように、かすかで、不安定だった。
俺は知らぬ間に、スピードを上げていた。
ハンドルを握る手に力が入る。
バックミラーを見ることをやめた。
窓の外では、街の光が水に溶けるように、滲んで流れていく。
交差点を抜けたあたりで、急にワイパーの動きが追いつかなくなった。
フロントガラスに叩きつけられる雨は、まるでバケツをひっくり返したような激しさで、
車体全体が水圧に押されるような感覚すらあった。
側道にはすでに水が溜まり始め、縁石が見えなくなっている。
コンビニの前を通り過ぎるとき、ガラスの向こうに立ち尽くす客たちの姿が一瞬見えた──
が、その後すぐにすべてが水の膜に包まれ、消えた。
『……こりゃ、本格的にやばいな……』
俺はアクセルをゆるめ、横目で後部座席を確認しようとした。
だが、ルームミラーはすでに完全に曇っていた。
アクリル板の内側から広がった霧は、ミラーにも達し、もはや後方は一切見えない。
それなのに──
「……お願い……止まらないで……」
声だけは、はっきりと聞こえていた。
いや、はっきり……ではなかった。
どこか、水中から聞こえるような、こもった響きがあった。
ちょうど、風呂場で話しかけられたときのような、あのくぐもった感じ。
『なあ……その、誰に追われてるって言ってたけど……』
俺は、意を決して口を開いた。
『誰なんだ? さっきからずっと……外、見てるけど……何が見えてる?』
返事はない。
『君さ、どこから来たんだ? こんな夜に、こんな場所で、ずぶ濡れになって……』
返ってくるのは、ただ──
「……ダメ……ここじゃ、まだ……全部来る……逃げなきゃ……っ」
彼女の声が、次第に震え、掠れていく。
ラジオは、砂嵐のようなノイズしか流していなかった。
周波数を変えても、どのチャンネルも同じ。
まるで、この街の電波そのものが水没したかのように。
そして、そのときだった。
「……ッ!」
車内に、明らかに異質な湿気の匂いが立ち込めてきた。
雨に濡れた服の匂いとは違う。
もっと生臭く、もっと重い。
それは、川沿いの遊歩道の隅に置き去りにされた傘の中のような、
あるいは──数日放置された濡れたタオルのような、そんな匂い。
『……っ、なんだこれ……』
不快な臭いが鼻を刺し、思わず咳き込む。
と同時に、背中に冷たいものが触れた。
振り向くことは、できなかった。
代わりに、視線を下げると──
運転席のフロアマットの端が、しっとりと濡れている。
いつのまにか、助手席の足元から水が染み出してきていた。
まだ、水溜りというほどではないが、確実に──「そこ」から、何かが広がっている。
俺はブレーキを踏みながら、肩越しに声をかけた。
『なあ、……今、何が起きてる? 君、……本当に人間なのか?』
答えはない。
ただ、「じゅっ……」という微かな音が耳元で聞こえた。
それは──
彼女の体から滴り落ちた水が、アクリル板の内側を這って落ちる音。
視線を前に戻すと、ミラーの中で、ほんの一瞬だけ、
自分の首筋に何かが垂れたような幻覚を見た。
『……っく、くそ……!』
俺は思わず、エアコンを最大出力にした。
でも、それでも霧は取れない。
いや、むしろ濃くなっていくようにすら思える。
「……もうすぐ……でも、まだ……早く……」
その声が、水面から顔を出す直前の、溺れている人のようなか細さで届く。
俺は、後ろを振り向けなかった。
車内の温度は下がり続けているのに、背中にはじんわりと汗が滲んでいた。
ドアポケットに入れていたスマホがバイブ音を鳴らすが、画面は真っ黒。
どれだけタップしても点かない。
ラジオはまだ、ざあ……ざあ……という音を鳴らしている。
『……俺、どこ走ってんだ……?』
気がつけば、標識も信号も、店の灯りすら見えない。
フロントガラスに映るのは、ひたすらに、揺れる水の影と、滲んだ街の明かりだけ。
そして、今も──
後ろの座席では、誰かが、確かに、呼吸していた。
『……まだか……』
喉が詰まるように、言葉が出なかった。
呼吸が、うまくできていない。
顔は濡れていないのに、まるで水の中にいるかのように、肺が重い。
ハンドルを握る手も、じっとりと濡れている。
雨ではない。
いつの間にか、車内そのものが「沈んでいる」ような感覚だった。
ふと、ブレーキを踏みたくなった。
「ここで降りてもらおうか」と。
でも、それを口にすることが、どうしてもできなかった。
後部座席にいる彼女が、次に何をするのか。
何を思ってここまで来たのか。
なぜ、あの夜に「俺」を選んだのか。
わからない。
だが、言えることがある。
──怖い。
本能的に、後ろの存在を「見てはいけない」と感じていた。
だが、そのときだった。
「……見えてきた……あそこ……」
彼女の声が、微かに震えながら届いた。
前方に、微かな灯り。
風に揺れる電灯の下、坂道が続いている。
登った先には、黒い影がうっすらと立っている建物──学校か、あるいは古い集会所か。
俺はハンドルを切り、坂道を登る。
すると、不思議なことに、息が少しずつ楽になっていった。
肺に入ってくる空気が、明らかに軽くなっている。
さっきまでの圧迫感が、嘘のように薄れていく。
喉の痛みも、いつの間にか消えていた。
坂の上に到着したとき、彼女がぽつりと呟いた。
「……ここなら、もう大丈夫……」
車を停めた俺は、思わず大きく息を吸い込んだ。
冷たい空気が喉を通り、肺を満たす。
咳が止まり、手の震えも消えた。
『……助かった……のか……?』
そう思いながら、メーターを見て、料金を確認する。
通常よりも走っていないはずなのに、数字はなぜか妙に高い。
頭がぼんやりしていたせいか、記憶が飛んでいる部分もあるのだろう。
『あの、着きました。料金は……』
言いながら、ようやく後ろを振り返る──
そこには、誰もいなかった。
いや、正確には、「人の形をした何か」も、もう存在していなかった。
後部座席には、ただ──水の跡だけが残されていた。
座面の中心に、水がたまったような円形の染み。
その周囲に、水滴がパラパラと散り、窓の内側に髪の毛が一本、貼りついている。
長く、黒く、そして濡れていた。
俺は思わず、助手席に視線を移した。
そこも濡れていた。
座面がじんわりと水を含んでいる。
そして──助手席側のドアの内側から、ポタリ、ポタリと水が滴っていた。
『……嘘、だろ……』
車内には、もう声も足音もない。
ただ、風の音と、車のルーフを叩く雨の音だけが続いていた。
そのとき──
「ピピッ……」
無線から、突如として音が鳴った。
「おーい、聞こえてるか? まだ市街地にいるのか?」
『……!』
「さっきのニュース見たか? 市区の下の方、海水が逆流して一階分まるごと浸かったってよ!」
『……は?』
「お前のとこ、大丈夫か!? おーい、返事しろ!」
……だが、何を返せばいいのかわからなかった。
俺は無線機を握りしめたまま、言葉が出なかった。
市街地が……? 海水が……?
じゃあ、あの時、俺がいたのは──
あの「彼女」がいた場所は──
本当に、まだ地上だったのか?
車外では、風が唸りを上げていた。
でも不思議と、ここには水の気配がない。
ただ、どこか遠くの方で、波の音のようなものが聞こえた気がした。
俺は深く、ゆっくりと呼吸する。
生きている──そのことを、身体の奥でようやく実感した。
もう一度だけ、ルームミラーを見た。
そこには何も映っていない。
だが、鏡の端に、うっすらとした水滴が一つ、残っていた。
それは、まるで──
「ありがとう」の代わりのしずくのように、そこにあった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「乗せた女は、乾くことがなかった」は、
見た目には何も起きていない“日常の隙間”に潜む恐怖を描いたつもりです。
彼女は誰だったのか? 本当にいたのか?
あのとき、ドアを開けなかったら──主人公はどうなっていたのか。
すべてを語らず、何かが残るような読後感を目指しました。
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