始まり ー4-
ふたりと共に家に戻ったあと、お母さんは着替えを用意したりお風呂の支度をしたりと忙しなく動いていた。
ナタネおばさんは緊張がとけていないようで、険しい顔をしながら、お母さんの手伝いをしている。
僕はその姿をぼんやりと眺めながら、お父さんのことを考えていた。
きっとあの手紙は王様とか貴族からのお手紙で、なにか悪いことがあったのかもしれない。
物心ついたときから王都への出張はたまにあるが、ここから遠くにあるから半年は帰ってこれない。
お父さんが半年もいなくなることを考えると、胸の奥が締めつけられた。
そんな嫌なことが頭の中を駆け回っていると、準備を終えたお母さんが隣に座り、何も言わずに僕の頭を優しく撫でてくれた。
傍に居てくれるだけで安心してしまって、いつの間にか眠ってしまっていた。
夢を見た。
お父さんとお母さんがどこかへ行ってしまう。
追いかけても追いつけない。
手を伸ばしても届かない。
嫌だ、行かないでと叫ぶと現実に戻ってきた。
目を開けるとナタネさんが心配そうに僕の顔を覗いていた。
湯船に浸かって落ち着いたのか、いつものナタネさんに戻っていた。
髪から水が滴り落ちていて、逆に風邪をひかないか心配になった。
あれ、お母さんがいない。
僕が寝る前までは傍にいたはずなのに。
さっき見た夢のこともあって黒い靄が胸の辺りを包み込み始める。
「ナタネさん、お母さんは?」
「おはよう、フジ。お母さんは先に薬屋へ戻ったよ。」
「先に戻ったんだ、……よかった。」
本当に居なくなったのではないかと心配になったけど、そうじゃないと知って安心する。
黒い靄は少し晴れたが、曇った表情をしていたようでナタネさんが心配そうに僕の手を優しく握った。
温かくてお母さんよりも少しだけ小さい手が、ほんの少しだけ震えていた。
「さっきは雰囲気悪くしちゃってごめんね。怖かったでしょう。」
「ううん、大丈夫だよ。ナタネさん、いつもお父さんを前にするとあんな感じだもん。……お父さんのこと怖いの?」
「あはは。そうだよね、そう思っちゃうよね。うーん、怖いか怖くないかで言ったらちょっと怖いかな。……フジが産まれる前に色々あったからね。」
「僕が産まれる前になにがあったの?」
「それは……。うーん、フジがもう少し大きくなったらわかると思う。意地悪だけど、あたしからはどうしても話せないんだ。……ごめんね。」
「ナタネおばさんが話せないことなら仕方ないよ。ちゃんと話してくれてありがとう。」
「お礼を言われる立場じゃないよ。フジも起きたし、そろそろ薬屋に戻るね。ヒイラギさんたちも待ってるから。」
「うん、行ってらっしゃい。」
寂しそうに口元をあげると、いつの間にか乾いていた髪をひとつに結いて、薬屋へと戻って行った。
僕が大きくなったらわかることって一体なんだろう。
もっと僕が大きければ。
そんな思いが胸いっぱいに広がり、まだ幼い自分を恨めしく思った。
ナタネさん薬屋に戻ってから数刻が経ち、外が暗闇に染まり始めた頃、三人は戻ってきた。
「おかえりなさい。……また出張行くの?」
お母さんは静かに僕の横に座り、お父さんは目の前で膝をついて海の底のような暗く悲しそうな目で僕を見た。
悟ってしまった。
今回の出張はいつもと違うことを。
お父さんが口を開く瞬間がスローモーションに見えて、同時に涙が溢れてくる感覚が胸いっぱい広がってくる。
「うん。父さん、遠くへ行かないといけなくなってしまったんだ。急を要するみたいで、明日ここを発たないといけないんだ。……父さんとはしばらく会えないし、連絡を取ることもできなくなる。でも必ずふたりを迎えに来るから。それまでここで母さんと待っていてくれないかい?」
「しばらくって?連絡取れないって……なんで?」
「うーん……3年は帰って来られないかもしれない。父さんがいないとできないお仕事なんだ。行くところが遠すぎて、手紙を出すことができないんだ。……フジ、大事な時期なのに父さん一緒に居てあげられなくてごめん。」
そう言いながらお父さんは僕のことを抱き締め、お母さんも僕とお父さんを包むように手を広げた。
「行かないで!やだよ。」
泣きながら大声で訴えるが、お父さんは何も言わなかった。
僕は暫く駄々をこねて、たくさん泣いた。
そうすると意識が遠のいてきて、泣き疲れて眠ってしまった。
気づくとベッドの上で、窓の外を見ると降っていた雨はすっかり止んでいて、星空が見えていた。
まだ夜だということにホッとしてベッドから出て、お父さんを探す。
リビングに行くと、お母さんとナタネさんがココアを飲みながら雑談をしていた。
「お母さん、お父さんはどこ?」
お母さんは僕の方に駆け寄ると、真っ直ぐ僕を見つめた。
「お父さんは外にいるわよ。……お父さんね、フジのことが大切でとても心配しているの。本当は出張も行きたくないのよ。でもお父さんじゃないとできないお仕事なの。だからお父さんのことを応援してあげて欲しいの。……お母さんがお父さんの分もたくさんフジのことを見てるから。それでもだめかな?」
「……お母さんは寂しくないの?」
「とっても寂しいよ。でもね、お母さん以上にお父さんの方が寂しいと思うから、笑顔で送り出すのが私の役目なの。」
潤んだ瞳の中に決意の色が見えたように感じた。
いつもこういう気持ちでお父さんを送り出していたのかもしれない。
お母さんもみんな寂しくて不安なんだと思うと、心が少し軽くなった。
「僕も、お父さんのこと笑顔で送り出したい。」
「うん、そう伝えてあげて。お父さんは玄関出たすぐ側にいると思うから。……行ってらっしゃい。」
靴を履いて玄関の戸を開けると、庭の真ん中にお父さんが立っているのが見えて、この世界の誰よりも早く走った。
「お父さん!」
「おお、フジ。起きたんだね。」
「うん。……さっきはわがまま言ってごめんなさい。」
「いいんだよ。子供はわがままを言うものだからね。フジは大人しいから、ちゃんと気持ちが言えて偉かったよ。」
「そうやって僕のこと褒めるんだから。」
「あはは。まぁ隣に座りなさい。」
地面にはいつも森に持っていくレジャーシートが敷いてあった。
ふたりで座ると少し狭いけど、安心感がある。
「……父さん暫く帰ってこれないけど、フジとお母さんのことをいつも想っているよ。必ず帰ってくるから。この星と月にかけて誓うよ。」
「うん。お父さんのことずっと待ってるから。……寂しくなったらこの星空を思い出すね!」
「フジは本当にいい子に育ったなぁ。」
お父さんの顔は暗くて見えなかったけど、優しくて温かい大好きな声が僕の心を包み込んで、不安を全てかき消してくれたような気がした。
次の日の早朝、お父さんは家を出た。
それから7年経ったが父さんはいつまでも帰ってこなかった。