春のたまご
コロン様主催『たまご祭り』参加作品。
これは私が、知り合いの風から聞いた話です。
二月になったばかりのある朝、ひとりの娘が職場へ向かっていました。
一昨日くらいから急に寒さが厳しくなり、みぞれ交じりの雨がざっと降ったからでしょう、道路のあちこちで氷がはっていました。
彼女は氷に足を取られてすべらないように用心しながら、できるだけ素早くロングブーツに包まれた両脚を動かし、駅へと向かっていました。
「……やだな、この辺のダイヤも乱れるかもしれない。早めに出かけよう」
コーヒーを飲みながら朝のニュースを流し見、娘はひとりごちました。
雪が降ったり強い風が吹いたりしているせいで、あちこちで電車が止まったり遅れたりしているようです。
社会人になって以来、この町でひとり暮らしをしている彼女。
知らないうちに、テレビに向かってひとりごとを言うくせがついていました。
そそくさと朝食を済ませ、身支度を整えると彼女は、いつもより十五分以上早く家を出ました。
駅の近くの横断歩道で、彼女は足を止めました。
信号が赤に変わったからで、それ以上の深い意味はありませんでした。
止まったタイミングでふと気になり、トートバックのポケットにいれているスマートフォンを取り出します。
(ダイヤの乱れは……大丈夫そう)
鉄道情報を確認し、彼女はホッと息をつきました。その時。
「おねえさん」
と、どこか幼さの残っている少年の声が呼びかけてきました。
娘は思わず、声の方へ顔を向けました。
やわらかそうな栗色の髪の、色白の少年がそこにいました。
この辺りの中学校の制服なのでしょう、紺色のジャケットにスラックス、首にあたたかそうなふわふわの白いマフラーを巻いています。
そこまでは特に変わったことはなかったのですが、彼は何故か、白いたまごがぎっしり並んだかごを両腕にかかえていたのです。
娘と目が合うと、彼は、心からうれしそうに笑いました。
「ああ、よかった。声をかけてもかけてもみんなに無視されるから、いいかげん哀しくなってきてたんだけど。ちゃんと、僕の声を聞き取ってくれる人がいたんだね」
(……んん?『聞き取ってくれる』?)
なんとはない違和感に、娘は内心、首を傾げました。
無視される、だけならわからなくはありません。
朝はそれでなくても忙しい時間帯です、かごにたまごをたくさんつめ、うろうろしている変な男の子と関わり合いたい大人は、ほぼいないでしょう。
しかし、僕の声を『聞き取ってくれる』というのは、なんだかおかしな言い回しではないでしょうか。
聞こえないふりや、邪険にされるというのならまだしも。
(……え? つまり、この子の声、普通なら聞こえない設定……、とか? うわあ、ファンタジックー!)
この年頃の子ってば、なんてことをぼんやり考えていた彼女へ、少年はかごを抱えたまま、軽く頭を下げました。
「急に声をかけたりして、ごめんなさい。あの、実はちょっとお手伝いしていただきたいことがあるんです。お時間は取らせません、どんなに長くなっても5分もかかりませんし……」
「……え?」
娘は引きつった愛想笑いを受かべ、思わず一歩、後退りしました。
「あー、その。悪いけど急いでるの。今から仕事だし」
「でもおねえさん。今朝はいつもよりかなり早い時間に、ここまで来ていますよね?」
妙に真っ直ぐな目で娘を見つめ、彼は言いました。
「具体的には……十五分くらい、かな? いつもならおねえさん、もうすぐ駅へ入る電車の、一本後のに乗っているでしょう?」
娘はぎょっとしました。
初対面のはずの彼が何故、彼女のルーティンを知っているのでしょうか?
口から出まかせに言ったのかもしれませんが、それにしては自信満々です。
「ホントに五分もかかりません」
キラキラした目で彼は、そう言いながら一歩、娘の方へ踏み込んできます。
「さあ、行きましょう!」
軽やかな彼の声が響いた瞬間、娘は、強いめまいを感じてきつくまぶたを閉じてしまいました。
『立春の朝にはたまごが立つ』
そんな、おとぎ話のような言い伝えのような、あるいは都市伝説のような話を聞いたのはいつだったろうか?
確か……まだ小学生だった頃。
おばあちゃんのうちへ遊びに行った時、彼女がいつも聞いているラジオのパーソナリティがそんな話をしていたよう……、な?
きつくまぶたを閉じたまま、前後の脈絡もなく彼女がそんなことを思っていると、
「正確には、立春の朝にたまごが立つ訳じゃないんだよ。この話は、立春の朝に春のたまごを立てると、そこから今年の春が芽吹き始めるってことを表してるんだ」
どことなく幼さが残る声。
でも話しぶりのどこかに教え諭すような、ある種の風格があります。
声とのギャップのせいか、なんとなくムッとしながら彼女は、顔を上げて声の主の方を向き直ろうとして……ポカンとしました。
辺りは一面、白。
まるで雲を敷きつめたようです。
そして上に広がるのは、青い青い、美しくもおそろしい深い空。
晴れた日、雲の上を飛ぶ飛行機の窓から見た景色とそっくりな場所に、娘はいました。
「さて」
少年は楽しそうに、いつの間にか傍らに現れていた、大きくて真っ白なテーブルの上へ、たまごのつまったかごを置きました。
「僕が節分の日に拾えた春のたまごは、これで全部だけど」
少年はにこっと笑いかけてきます。
「あなたが立てられるたまごが、幾つあるのかまではわからない。もしかしたら全部、ダメかもしれないけど……その時はその時だね。今年の春、色々とあきらめなきゃならないことがふえるけど、それでも春自体はやってくるから過剰な心配はしないで」
そもそも立春の行事をやる風は、僕だけじゃないもの。
あちこちで、数えきれない風の仲間がやってるから、世界に産み落とされた春のたまごが全滅、なんて、さすがにありえないし。
にこにこしながら彼は、よくわからないことをさも当然のように言います。
「それじゃあ始めようか、おねえさん。今年のバディがきりっとした綺麗なおねえさんで、僕、嬉しいな。去年の僕のバディはお酒を飲み過ぎて道路で寝ていた、ヨレヨレのおじさんだったんだよ。手元が震えるせいか、去年は結局、ひとつもたまごを立てられなかったし。おまけに去年は僕たちだけじゃなく、全体的に失敗するバディが多かったんだよね。そのせいでうまく春が来なくて、桜とさつきが同時に蕾をほころばせたり、変な時期に虫が大量発生したり。季節の辻褄をつけるのに、いつも以上に大変だったんだよね……」
ブツブツとそんなことを言う彼の様子を、娘はぼんやり見ていました。
(……は? 風? この子、今、自分のことを『風』って言ったよね?)
何が何だかわかりませんが、不思議と焦る気はしません。
あまりにも常識はずれな出来事が立て続けに起きているせいで、かえって冷静になってしまっているのかもしれません。
それに、何故か意味もなく、ドキドキワクワクしてきます。
(この子の髪色。よく見ると、栗色じゃなくて深緑なんだ。着ているジャケットとスラックスも、紺というよりも群青色……かな?)
首を包むふわふわのマフラーは、波しぶきのようにも綿雲のようにも感じられます。
(風……つまり。風の妖精か、精霊? どっちかわからないけど、そういう存在なのかな?)
さあ大変です。
妖精にしろ精霊にしろ、必ずしも邪悪ではありませんが、人間の理屈など通用しない存在なのは確かでしょう。
場合によると、ひどく残酷だったり冷酷だったりすることもあるのだとか。
記憶の底に眠っていた、幼い日、繰り返し年寄りたちから聞かされていた言葉を、彼女は今、はっきり思い出しました。
『万が一、妖精や精霊に何かお使いを頼まれたのなら。とにかく誠実にこなしなさい。嘘やごまかしは、彼らに絶対通用しないから』
彼女は知らず知らず、背筋をピッと伸ばしました。
大事なプレゼンの時よりも緊張しながら、そのくせどこかしらウキウキしながら彼女は、風を自称する少年と目を合わせました。
彼の茶色っぽい目が、楽しそうにゆるんでうなずきます。
ややぎこちなく笑みを返し、娘は、ひとつ大きく息をついて、テーブルの上にあるたまごのかごへ手を伸ばしました。
白いテーブルの上に、たまごをそっと立てる。
いや、立てようとする。
そえていた手を離した途端、くらり、とたまごは横たわる。……また立たなかった。
「それはダメだね」
無慈悲に言うと少年は、テーブルの上でゆらゆらしているたまごをサッと取り上げ、瞬く間に丸飲みします。
一番最初に彼がたまごを殻ごと丸飲みした時、娘は呆気に取られてしまいました。
なんだか蛇みたい、とも思いました。
「あなたとは相性が悪いたまごだったとしても、春のエネルギーはつまってるからね。無駄に出来ないでしょう?」
涼しい顔で彼はそう言い、目顔で次のたまごを示します。
「さ、続けましょう。まだまだ時間に余裕はあるけど、無限にある訳じゃないし」
「ねえ、風、さん」
テーブルの上に慎重にたまごを乗せながら、娘は言いました。
「何ですか?」
じっとたまごを見つめながら、彼は答えます。
たまごが倒れたら即、飲んでやろうと手ぐすねを引いているような感じでもあります。
「聞くまでもないけど。コレ、たとえば、テーブルの上に食塩をまいてから立てるとか、たまごの底をつぶしてから立てるとか、ダメ、ですよね?」
「ダメです、それじゃあ意味がない」
彼はなんとなくだるそうに答えました。
ひょっとすると毎年、バディになった人間から同じ質問をされているのかもしれません。
「そうやってズルをして立てたたまごからも、何かしらは芽吹きますよ? でも結局、強く育たないんです。自立出来ない生き物は、どこか歪なものですからね」
娘はふうっと大きく息をつき、ちょっとだけ苦く笑いました。
「……そっか。なるほどね」
あんなにぎっしりたまごが詰まっていたかごも、底が見えてきました。
今のところ、立ったたまごはふたつ。
すでに50個はチャレンジしてるのに。
「どうして? 去年はゼロだったんだから、悪くないですよ」
たまごを50個近く丸飲みしたせいか、風の少年の顔は妙にツヤツヤ血色がよく、瞳は爛々と輝いています。
「でも。あと一個くらい、ちゃんと立ったらいいんだけどな」
たまごをねらう蛇のような表情をした彼がそう言っても、あまり説得力はありませんが。
春のたまごは風の精霊が飲むためのものではなく、世界に春を生み出すきっかけ、そして順序良く季節が進むための道しるべでもあるのだということは、ただ単にたまごを立てようと努力するだけの娘にも感じられます。
(……ふう。あと一個、か)
さすがに疲れてきました。集中力が切れそうです。
でもこれが最後なのですから、しっかり集中して、彼女は慎重にたまごをテーブルの上へ置きます。
そっと、そっと、静かにそえていた手を離し……たまごは倒れません!
「……やった」
思わず小さくつぶやくと、風の少年も嬉しそうにニコッと笑いました。
「ありがとう、おねえさん。今年はきっと、いい春になるよ」
カッコー・カッコー・カッコー……。
いかにも人工的なカッコーの声。音響式信号機の音です。
通勤途中の娘は、その音にハッと我に返りました。
急いで横断歩道を渡り切り、ふと軽い違和感をおぼえ、彼女は足を止めました。
彼女の首筋を柔らかく包んでいるのは、若草色のストール。
薄紅色の柔らかな素材で出来た手袋は、まるであつらえたように彼女の手にピッタリ。
どちらも極寒の今朝、身に着けた覚えはありません。
もっと言うのなら、買った覚えすらないのです。
でもどちらも彼女にピッタリで、鏡で確認するまでもなく似合っているだろうことがわかります。
そしてこんなに薄手なのに、とてもとてもあたたかいのです。
首を傾げる気分で娘は、半ば無意識でトートバックのポケットからスマートフォンを出し、立ち上げました。
待ち受け画面に表示されている『本日は立春』という情報のすぐそばに、なにやらメッセージらしいものが書かれていました。
『Thank you for your kindness! はしりの恵風より感謝を込めて』
娘が、『恵風』とは生物を育む恵みの風のことと知り、それをきっかけに立春の朝の不思議な出来事すべてを思い出したのは。
ずいぶんと後になってのことでした。