目覚め
懐かしい唄が聞こえる。良く母が口ずさんでいた、あの歌だ。
私は、まどろみの中で、パブロの悲痛な叫びを思い出した。
(また、彼に迷惑に掛けたわね……)
瞼の裏が、だんだんと明るくなっていくのを感じると、茉莉花茶の香りが、鼻腔をくすぐり出した。
(また、香りで私を起こそうとしているのね……)
クスッと、笑みがこぼれる。
「エマ……起きてるでしょ」
コポコポッ……。紅茶をカップに注ぐ音だろうか……。
「おはよう、パブロ」
ゆっくりと瞼を開けると、逆光に浮かぶパブロがベットサイドに紅茶を運んでくるのが見えた。 手渡されたカップを受け取り、アリスの姿を探した。
「アリスなら、荷造り中」
パブロも、エマの寝台に腰をかけ、カップに口をつけた。
「今回は何日目?」
「今回は優秀。 一日目」
フフッとお互い笑い合う。 パブロが安心しきった、気の抜けた顔を見せる。
「なんか……ダメね。 彼を信用しきって、信じていたのに。全部知った上で、あの女を選んだってわかったら……、なんだか悔しいわ」
ゆっくりと程好い暖かさの紅茶を、喉に流し込む。
カップがソーサーに擦れる音だけが、部屋に響いていた。
「忘れる作業って、苦しいのね……」
また涙が溢れてきそうで、慌てて紅茶に口をつけた。
「それだけど、グロリア・クルーズとテルセオの婚約は認められないかもよ?」
抑揚の無いパブロの声が、私の心をざわつかせた。
「そうなったら、どうする?」
イタズラな彼の黒曜石の瞳が、私を見つめる。
瞬間、嬉しさが込み上げた。
エマの顔を覗き込むパブロの顔が、優しく微笑んでいる。
―――でも、
「止めておくわ。 今度ショックを受けたら、二度と目を覚まさないかも」
カップの水面に映る自分の顔を見つめ、もう、苦しみたくない。と心から願った。
一息に紅茶を飲み干した私は、寝台から立ち上がった。
※※※
カルタシア領へと向かう馬車の中で、セシリアの失踪を知った。 ついで、サラとアンヘラまでも失踪したと聞く。
「クルーズ男爵の主張はおかしい。って、身体を張って抗議をするんですって」
パウラが大衆新聞を読みながら、なんとも言い難い顔をしている。
「それって、大丈夫なの?」
「大丈夫なんじゃない? 騒ぎになってるもの。王家も邪険にできないでしょ」
ほら。と言って、パウラは、大衆新聞の紙面を見せてきた。
そこには『両王子の婚約者候補全滅。全員、発見者の騎士と婚姻か?』などの文字で飾られていた。
「両王子って……」
「あぁ、アレハンドロ殿下の候補者達も、失踪して婚約者候補を辞退を申し出たんですって」
「まぁ……」
大した騒ぎになっているようだ。 王宮の通路で彼女達に「応援してるわ」などと言われたことを、私は思い出した。
(そんなことをされても、テルセオの気持ちは私にないのだから、無駄な事だわ)
そう思いながらも、同様な事故が起きた時に、名誉云々と言い掛かりをつけられ、婚約破棄をせざるを得ない状況を回避できるなら、今後の為になるのだろう
。
何処か冷めた思いで、自分の事が載っている紙面を眺めていた。
ただ、『エギナ公子、名誉毀損で訴える』の小さな記事には、驚きと感謝の念があふれた。
※※※
王都から数週間かけて、エギナ公国に隣接するカルタシア領に入った。 ここから、数日かけグレタ城に入る。
「懐かしいなぁ」
一面麦畑の牧歌的な景色を眺めながら、パブロが呟いていた。
遠くの山々は黄金色に代わり始め、秋の訪れを感じていた。 王都を出た時は、まだ暑さが厳しいように思っていたが、このところは、過ごしやすく感じていた。
テルセオを思い出す回数も、枕を濡らす回数も減ってきた。 徐々に忘れていくのだろう。
ただ、大衆新聞の見出しが、否応なしにテルセオを思い出させた。
『教会により、クルーズ男爵の訴えは却下された』
グロリア・クルーズとテルセオ・アンダクスの婚約は、教会と議会によって早々に決着がついた。
そもそも、アンダクス卿は騎士団員としての任務遂行中であり、それを名誉云々というのは、愚の骨頂だ。
また、エマ・ベニドニアとテルセオ・アンダクスの婚約は継続されており、グロリア・クルーズとの婚約、婚姻は認められない。
そう、判断が下った。
婚約宣言に署名をしていた事が、功を成したようだ。
「良かったわね」
紙面の隙間から、パウラの嬉しそうな顔が覗き見えた。
「いまさら、どうでもいいわ」
興味なさそうに新聞を座面に投げつけた私に対し、パウラが不機嫌になった。
「ねぇ、サラ達がどんな思いで一芝居打ったと思うの?」
(そんな事、頼んでないし、知らないわ)
ツンと顎を上げ、そっぽを向いて窓の外を眺めた。
正直、婚約破棄を提案された事も悲しいが、本当に悔しのは『グロリアの言い分を受け入れた事』だった。
私の名誉より、グロリアの名誉を優先させた事が、許せない。悔しい。
パァーン!!
激しい痛みを感じて、私は頬を押さえた。
いつも穏やかなパウラが、怒りに肩を震わせていた。
「拗ねるのも、いい加減にしなさい。みんな、貴女を心配してるのよ?」
そんな事は知っているし、感じている。 でも、でも……
「心配されたって、テルセオは、あの女を選んだのよ。私より、あの女を尊重したのよ」
「止めて」
馬車の小窓を開け、御者に馬を止めるように命じる。
「エマ?」
訝しげに声をかけるパウラの声を聞き流し、ドアを開けた。
急に止まった馬車を不思議に思ったのであろう、タイミング良くパブロが馬を横付けしてきた。
「私は捨てられたの。もう、愛はどこにもないのよ。ほっといて」
そう言って、パブロの馬に飛び移った。




