混迷
誰かが、呼んでいる気がする。 懐かしい声、陽だまりのような……。そして、茉莉花……。
「―――パブロ?」
「お目覚めかい?」
エマが目を開けると、今、まさに茉莉花茶が入っているであろうカップに、口を付けようとしているパブロが瞳に映った。
「―――」
「どうした?」
彼の、喉仏が上下する。茉莉花の香りが、漂う。
「―――私のじゃないの?」
「飲むの? これ、何杯目だと思う?」
「え?」
起き上がろうとするが、身体が動かない。というよりは、節々が鈍い。 腹部にズキリとした痛みが走る。
パブロの手を借り、枕を背にベッドに腰掛けた。
「お嬢様……」
部屋の角から、涙に濡れるアリスの声が聞こえた。
「お茶の準備をしてくるよ」
パブロが離れると、アリスが崩れるよう、にエマの側に駆け寄った。
「アリス……、ごめんなさいね。あれから、どうなったのかしら?」
―――あの後、意識を手放したエマは、今日まで五日間、眠り続けていた。 腹部は打撲傷のみで、一週間もあれば、痛みは引くだろうと。
テオドロスと、研究所のハズキは、毎日お見舞いに来てくれている。 今日も、夕方に連れ立って顔を出すだろう。
テルセオは、遠征の準備で忙しいらしいが、毎朝、花束と共に顔を見に来ている。
そう言って、窓辺の花瓶のバラを指差した。
「それに伯爵様は、エマはパブロの入れる茉莉花茶が好きだから。 っておっしゃって、わざわざ呼び寄せたんですよ? でも、それで気が付いて……本当に良かった」
「そうだよ、本当に驚いたんだから」
茉莉花茶の香りと共に、パブロが顔を出す。
「聞けば、マルガ海界隈の港全部に、便りを出したらしいじゃん。ちゃんと伯爵にも、謝りなよ」
「そうね……」
エマは、窓辺のオレンジのバラを眺めながら思い出した様に、アリスに尋ねた。
「―――テルセオ様のお相手は?」
息を飲むアリスに代わり、パブロが答える。
「あれ、女性騎士らしいよ。丁度、報告があったらしくて……」
「報告って、人目を避けて二人きりで、微笑みながらするものなの?」
パブロの話を遮ってしまった。忘れていた感情が甦る。 ストールを握る手に力がこもる。
―――これは、嫉妬心……、そう、私は彼女に嫉妬している。
「内密の話なら、人目を避けるんじゃない? 微笑みは……あんた達が、笑わなすぎる」
パブロは、ストールを握りしめている指を、柔らかくほどき、暖かいティーカップを握らせた。
茉莉花茶の香りに、心が落ち着く。
「エマさぁ、テルセオの事、好きになっちゃったんでしょ?」
うつむいたままのエマの頬が、サクラ色に染まっていく。
「俺が思うに、あんた達はもっとお互いを知るべきだ。 ちゃんと話し合いなさい」
パブロは、エマの頭を撫でて部屋を後にした。
※※※
程無くして、主治医と父親が様子を見に来た。
主治医の診察があり、腹部に少し擦り傷が残るかもしれないが、あと数日で痛みも感じなくなるだろう。と、言われた。
「お嬢様、気分はいかがですか? 何をしたか、おわかりですか?」
「―――そうね……、気分は最悪。でも、自分が何をしたのかは……、わかっているつもりよ」
エマは、腹部を撫でながら、返答した。
「エマ……、なぜ、あんなことを……」
父親が、エマに近寄り訪ねると、エマは、微笑みを絶やさずに、答えた。
「お父様、お願いがあります。テルセオ様との婚約の話、白紙にならないでしょうか」
しばらく、沈黙が漂ったが、父の答えは『否』だった。 伯爵の立場で、侯爵家に婚約破棄を申し出ることはできない、と。
「聞いたのではないのか? 夜会での事は、女性騎士から報告を受けていただけだと」
「えぇ、聞きました」
「では、なぜ?」
「私が、勘違いをしてしまったから」
エマは寂しげに微笑み、窓辺に飾られているテルセオからのバラを見つめていた。
―――家同士の決められた婚姻。『愛』なんて必要ない。 お互いの家の為。
そう、割りきっていられれば、今まで通りテルセオと婚姻を結べたであろう。
しかし、私は欲を出してしまった。
愛されたい。愛してほしい。と欲を出してしまった……。
彼は、キチンと役目を果たしているのにも関わらず、私だけなんて……。
そんなのは辛すぎる。 一度、自分の気持ちに蓋をしてリセットしたい。やり直したい。
彼との『冷めたお茶会』が出来るように……。
嫉妬心を持たなくて、済むように……。
※※※
「理由を言うつもりは、ないのだな?」
父親は、声を荒げる。 主治医が、興奮させないように。と助言するが、父の興奮は、収まらない。
「お父様、ごめんなさい。役目を果たすために、一度白紙にしたいのです。 自分の気持ちを落ち着かせる為にも」
「意味がわからないな。話にならない」
父は、そう言い残すと、不機嫌にエマの部屋を出ていった。
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