西の姫
四家の一角、西の耀家の屋敷には春になると見事な八重山吹が咲き誇る。
耀家が代々受け継ぐ瞳の色になぞらえて植えられたというこの花を、全く同じ色の瞳を持つ少女が物憂げに見つめている。
焦茶色の髪を後ろで緩く束ね、室内用のゆったりとした着物を着ているにも関わらず、しゃんと伸びた背筋としっかりと結ばれた口元が堅い印象を与えるこの少女が、耀家の一人娘の詩琳である。
西の姫と謳われる彼女は、容姿端麗で教養も深く、芸事も完璧にこなす。耀家の現当主である雲栄は優秀な人物で現国王の信頼も厚く、詩琳と王太子である甲覇は幼い頃から顔を合わせていた。
本人の資質、後ろ盾、王との関係のどれをとっても不足ない彼女は、まさに次期王妃候補筆頭と言えるだろう。
しかし、彼女は現状に満足してはいなかった。
「詩琳様、旦那様がお呼びです」
侍女が詩琳に声をかける。
「今行きます」
呼ばれた理由は分かっていた。先日の打診の答えを返してくれるのだろう。
雲栄の私室に入り父の顔を見た詩琳だが、その表情から父の答えは読み取れなかった。
「かけなさい」
雲栄の言葉に従い、詩琳は腰をおろした。
「父上、私にお話があるのですよね」
「ああ、選姫の儀の件だ。まず、もう一度聞くがお前の考えは変わらないんだね」
詩琳が打診したこと、それは近々開かれる選姫の儀に自分を推薦してほしいということだった。
「はい。私はどうしても舞姫になりたいのです」
詩琳は力強い瞳で雲栄を見つめ返す。
「以前も言ったが、選姫の儀に参加して舞姫になれなければお前の箔が下がる。舞姫になっては、勢力均衡を理由に王妃に選ばれなくなるかもしれないぞ」
雲栄は困ったような顔で言葉を紡いだ。
「舞には自信があります。それに、四家のどの家も王妃候補ではない息女や縁者を舞姫に推薦しているのでしょう。どの家も勢力を均衡させようなんて思ってはいませんよ」
詩琳の決意は変わらないらしい。彼女の膝の上に置かれた手が着物を堅く握りしめているのを見て雲栄は苦笑した。
「お前の決意は分かった。本当に後悔しないな?」
そう言うと雲栄は懐から一枚の書状を出し、詩琳の前に置いた。
「これは…」
「開けてみなさい」
詩琳がその三つ折りにされた書状を手に取って開くと、それは選姫の儀へ参加するための推薦状だった。被推薦者の名は『耀 詩琳』と書かれている。
「父上、ありがとうございます」
推薦状をそっと胸に抱き寄せて詩琳は深く頭を下げた。
「お前の頼みを断れる訳がないだろう」
雲栄は娘に甘いのだ。それに、彼は優秀ではあるが権力の拡大にそこまで意欲的な人間でもなかった。本音を言えば耀家は今のままで十分、詩琳も西の豪族に嫁がせてなるべく近くで暮らして欲しいと思っていた。しかし、当の詩琳が甲覇に惚れてしまっているのだ。どうしてみっともなく反対できよう。
「私、是が非でも舞姫になってみせます」
「その心意気は大切だが、あまり気負いすぎないように。舞姫になれずとも王妃になればいいのだからね」
「父上、私は両方掴んで見せます」
詩琳はいたって真面目な顔でそう答えた。
選姫の儀に備えて衣装を選ばなくてはと詩琳が意気揚々と部屋を出ていくと、雲栄は使用人を呼び茶を頼んだ。
「失礼いたします」
茶を持ってきたのは使用人ではなく、妻の麗月だった。北領から嫁いできた麗月はほっそりとした美人で、しなやかな強さを持っている。
「ありがとう。君が来たってことは詩琳の話はもう知っているんだろうね」
「ええ。あの子の足取りの軽さで分かりましたわ」
微笑む妻に雲栄は少し眉を下げた。
「本当にこれで良かったのだろうか。選姫の儀には国中から指折りの舞手が集まってくる。あの子は確かに優秀だが、この世には優秀なんて言葉では片づけられない天賦の才の持ち主がいる」
「だからこそ良いのではないですか。詩琳は自慢の娘です。でもあの子の見てきた世界はとても狭い。多くの人と関わって、己の育った場所の小ささを知る良い機会です」
麗月の直球すぎる言葉に雲栄は苦笑した。
「君のほうがよほど貫禄があって父親に向いていそうだ」
「世の母親は父親よりも貫禄があるものですわ」
淑やかに微笑む麗月を見て、雲栄は自分は良い妻を貰ったともう数十回は繰り返した言葉を心の中で呟く。
(願わくば、詩琳が甲覇様とそんな結婚ができると良いのだが)
父の願いが神に届いたかどうか、それを知るすべは未だない。
***
自室に戻った詩琳は「一回自分だけで考えてみたい」と言って侍女をさがらせると、目の前に広がった衣装を眺めて小さく溜息をついた。
(両方なんて手に入らない)
父を心配させたくなくて自信満々に言い切った詩琳だが、自分が甲覇の正室に選ばれないのは分かっていた。家柄も教養も後ろ盾も本当の問題ではないのだ。正室を決めるのは甲覇自身なのだから。
(どうして、こうなってしまったのだろう)
幼い頃は間違いなく仲が良かった。甲覇は兄のようにいつも優しく、詩琳を守ってくれた。男の子なのに人形遊びにも付き合ってくれて、箏や舞を見せれば褒めてくれた。
しかし、大きくなるにつれて王太子である甲覇とは簡単には会えなくなり、久々に妃候補として会いに行けるようになったかと思えば、甲覇はどこか詩琳を遠ざけたがっているように見えた。
父王の病気のこともあり、憔悴しているだろう甲覇を少しでも慰めたいと、力になりたいと思っていたのに甲覇は自身の心を詩琳には見せようとしなかった。
会えなかった数年のうちに何かが変わってしまったのか。
(それとも、あの方に会ってしまわれたのかな)
幼い頃から時々、甲覇は詩琳と話していてもどこか別の人を見ているような、必死で何かを探しているような目をしていることがあった。
最初は詩琳も甲覇が誰かを探しているとまでは思っていなくて、どうしてそんな切なそうな顔をするのか幼心ながらずっと気がかりだった。
甲覇の乳兄弟である瞬義と三人で本を読んでいた春の日に、詩琳はその存在を知った。心地よい気温のせいか眠ってしまった甲覇が珍しくて、顔を覗き込んだ詩琳は息を飲んだ。しっかりと閉じられた甲覇の目から涙が流れ落ちたからだ。
『甲覇様?』
思わず声をかけた詩琳の声が届いたのか、甲覇は目を開けて詩琳を見た。
『必ず、必ず、見つけるから』
縋るような、泣き出しそうな、必死な声だった。
そして、甲覇はまた眠ってしまった。
『甲覇様、どうされたんです?』
横で様子を見ていた瞬義が首を傾げて聞いてきたが、詩琳にも何が起こったのかは分からない。
『寝言、かな』
瞬義は瞬きをすると「甲覇様も寝言を言うのか」と言って笑った。
詩琳はつられて笑うと、少しだけ心が落ち着いたような気がした。
『貴方はだれ?』
呟いた声は小さすぎて横にいた瞬義には届かなかった。
その日から詩琳は甲覇にはきっと探している誰かがいるのだと思っている。その誰かが女性なのではないかとも。
例えば、魂の伴侶のような生まれる前から決まっている運命的な存在に甲覇が出会ったとしたら、妃の条件を全て揃えた上に甲覇に浅からぬ慕情を抱いている詩琳は邪魔だろう。
(そうならそうとはっきり言ってくれればいいのに)
少し冷たくされたくらいで覚める想いならこんな馬鹿げたことはしない。でも直接言葉で「迷惑だ」と伝えてくれれば、ちゃんと諦めるくらいの分別は持っているつもりだ。
正室にはなれなさそうだからといって舞姫になって振り向いてもらおうなど、浅ましいにも程があると、詩琳は自分に呆れていた。
(でも)
『詩琳は舞が上手だね』と笑う甲覇の顔が脳裏に過る。
(また、笑って褒めてもらえるかもしれない)
「よし」
そう声に出すと、詩琳は背筋を伸ばして再び衣装選びを続ける。
方々から完璧と謳われる、西の姫の名に恥じぬ舞姫になるために。