剣舞(2)
紅莉と果梨が考えた候補曲の中から『蒼天』を選んだセンナは、紅莉に数回舞を見せてもらうとあっという間に一通りの振りができるようになった。
春鈴が体調が悪いと風の館に戻り、果梨が楽舞局から呼び出されたため、楽器を演奏してくれる者がいなくなったのでセンナと紅莉は休憩することにした。
「本当にセンナって天才なのね。うちの若い子が衝撃を受けて帰っちゃったのも分かるわ…春鈴のこと、悪く思わないであげてね。今、伸び悩んでいる時期なのよ」
センナはかぶりをふった。
「そんな、私が厚かましく紅莉さんに舞を教えてもらっているから、気分を悪くされるのは当然です」
「あら、私が単に好意だけで教えてると思った?ちゃんと下心があるのよ」
紅莉は悠然と微笑んだ。
「二次試験で鱗翠廉の舞を見たでしょ。正直剣舞じゃ私は彼女に太刀打ちできない。彼女は本選では最高難易度の剣舞を用意してくるわ。本選の採点方法だと、三回のうちどれか一回で五票総取りすれば、その五票だけで舞姫になれる可能性もあるからね。少しでも良い舞をする者を増やして票を割れさせたってのが本音」
センナは採点のことまで考えていなかったので、感心してしまった。
「確かに、翠廉様の剣舞は素晴らしかったです」
「黎明は神楽の要素が強いから、純粋な剣舞になったらたぶんもっとすごいわよ。太刀打ちできるとしたら…」
そこで言葉を切った紅莉は何かを思い出したかのようにセンナに向き直った。
「そういえば、センナは二次試験で風凰架の舞を見た?私は出番からあまり間がなかったから見れなかったのよ」
紅莉は順番の関係で凰架の舞を実際に見たことはなかったが、二次試験に連れて行った踊り子達の反応を見れば、彼女が只者ではないことは予想できていた。
「実は私も着替えに手間取ってしまって、凰架様の舞は見れてないんです」
センナの言葉に紅莉はニヤリと笑った。
「じゃあ、覗きに行きましょう」
「え、それはいけないのでは…」
センナは部屋の両角に立つ護衛の様子を伺う。
彼らがセンナ達の身を守るためにいるということは理解しているのだが、どうしても監視されている様にセンナには感じられた。
「何も悪いことじゃないわよ。私たちがわざわざ同じ敷地で生活させられているのは、お互いに切磋琢磨するため。敵情視察だって楽舞局の想定内よ」
紅莉が堂々と言い放つのでセンナもそんなものかなと納得してしまった。
「一応ばれたときの為に手土産は持っていきましょう」
いそいそと菓子の入った重箱を風呂敷で包む紅莉を見て、センナは苦笑した。
***
大殿を通って花の館へと繋がる中の廊に出ようとすると、話し声が聞こえてきた。
「庭にいるのかしら…」
紅莉はそう呟くと身を低くして、柱の陰に隠れるように花の館の庭を覗き込む。
紅莉が予想した通り、春麗と凰架は庭に、正確には庭が見渡せる部屋の扉を開け放って縁側に腰掛けていた。
「じゃあ、凰架って楽器は何も習ってないの?」
「箏だけ。でもあんまり上手くないよ」
二人の会話を盗み聞きしていることについては多少申し訳なく思うものの、紅莉はしばらく様子を見ることにした。センナが落ち着かない様子で立っているので、目配せしてしゃがむように促す。
「変わった教育方針ね。箏と縦笛、横笛は最低でも習わされると思ってた」
「うちは教育とかあんまり考えてないからだと思うけど、春麗は何でもできすぎな気がする」
「そう?」
「箏だけでも食べていけると思うよ」
春麗は首を傾げた。
「これくらい然るべき教育を受ければ誰でもできるわよ」
そう言いながら、春麗は弄ぶように傍らにある箏の弦を弾く。それを見た凰架はふらりと庭の真ん中に飛び出した。
自分たちの姿が見つかるのではないかと思い、紅莉は一瞬身を引いたが、その心配はなかった。
凰架は紅莉達に背を向けて、ごく自然な動作で舞を始めた。
(これは、天泣…?)
春麗も凰架が何の舞を始めたのか気づいたらしく、振りに合わせて箏を奏で始めた。
(なるほど、これは確かに…)
紅莉が見学席に戻った時の、踊り子達の魂の抜けたような顔を思い出す。おそらく凰架が舞を終えた直後だったのだろう。
天泣は爽やかな旋律と軽やかな振りが特徴的な舞である。芸館では前座や繋ぎに使われることが多い、比較的簡単で受け手も軽い気持ちで見れる舞、そのはずだった。
しかし、凰架の舞は全く違っていた。降りしきる雨粒が心の繊細な部分を刺激してくるようで、見れば見るほど感情が波立つ。箏の音の一音一音が胸を締め付けるようだ。
(間違いなく上手い。なのに目が技術にいかない、理性じゃなくて感覚で舞を受け止めたくなる。…いやいや、素人じゃあるまいし)
紅莉は頭を振って思考を切り替える。
凰架が特に秀でているのは表現力だ。おそらく体の使い方が上手いのだろう、一つ一つの動作が壮大でそれでいて繊細だ。
そして、春麗の箏も見事である。『箏だけでも食べていける』というのは凰架のお世辞でも何でもなかったらしく、高等奏法が必要となる部分も難なく弾きこなし、さらに凰架の舞が表現したいことを汲み取った演奏をしている。
(全く、これだから天才は)
紅莉は先ほどの春麗の『誰でもできる』という発言を思い出し、内心で毒づいた。
これほどの奏者は栄麗館にも一人いるかどうかだ。
曲の盛り上がりに近づき箏の音が一瞬途切れる所で、凰架が袖を翻して回る。その拍子に見えた凰架が一瞬口の端を上げたのに紅莉は気づいた。
春麗が次の音を弾くよりも一瞬早く、凰架は一歩前へ足を踏み出す。それに気づいた春麗が演奏の速度を早めるが、凰架は更に振りを早くそして大胆なものにしていく。
弦を弾く音が、降りしきる雨音の様に止めどなく紡がれていった。
青空から降りしきる雨、雨粒によって瑞々しく輝く木々が紅莉の脳裏に浮かんだ。
(何だか、いいわね。舞が一番楽しかった頃を思い出すわ)
曲が終わると、凰架はおどけて春麗にお辞儀をした。弾かれたように春麗が笑い声を上げる。
「もう、途中から急に早くしたでしょ。弾く身にもなってよ」
「春麗なら楽勝でしょ」
軽口を叩きあう二人をどこか微笑ましい気持ちで眺めた後、紅莉はセンナに感想を聞こうと彼女の方を見て、怪訝な顔をした。
センナは全くの無表情だったのだ。基本的に朗らかで、選姫の儀の本選では新しい発見が多いのか常に表情をころころ変える、素直で純真なセンナが今まで見せたことのない顔をしていた。表情には何の感情も表れていないが、何処か冷徹な怒りを抑え込んでいるようにも見える。
そして、センナが無意識に呟いた言葉を聞いた紅莉は、早めにこの場から去ろうと腰を上げた。
「センナ、差し入れはまた今度にしましょう。今邪魔するのは気が引けるわ」
紅莉が小声で声をかけると、センナは我に返って頷く。
雪の館へ戻ろうかと考えた紅莉だが、今戻ってもまだ果梨はいないだろうと思い、立ち止まった。
「せっかく手土産を用意したんだから、他の候補者も見に行きましょうか。運がよければ二人が選んだ曲も分かるかも」
「そうですね」
微笑むセンナはいつも通りの、朗らかで穏やかな少女の顔をしていた。
***
鳥の館に向かうには花の館をまた通らなければならないので、二人は先に月の館にいる詩琳の元を尋ねる事にした。
運が良ければ中の廊から舞が見えるかもと思っていた紅莉だが、鳥の館は一番大きい部屋が庭に面していないらしく、楽器の音は聞こえたが、廊下から見える部屋には誰もいなかった。
流石に勝手に館の中には入れないので、外から声をかけると詩琳が身の回りの世話のために連れてきたらしい女性が、丁寧な態度で二人を招き入れた。
「ようこそおいで下さいました。すぐに詩琳様をお呼びいたしますので、こちらでお待ちください」
月の館には詩琳が持ち込んだらしい調度品が置かれており、殺風景な雪の館に慣れているセンナは緊張して身を固くした。その横で紅莉は嬉しそうに出された菓子を頬張る。
「お待たせいたしました。紅莉様、センナ様、わざわざお越しいただきありがとうございます」
使用人の女性が言ったことは本当で、すぐに詩琳が顔を出した。
「急にお邪魔してしまってすみません。せっかく本選に残った者同士、挨拶のひとつでもしておこうかと思いまして」
紅莉の言葉に詩琳は微笑んだ。
「そうだったんですね。私もお二人と話がしてみたいと思っていたんです」
二人があまりにも自然に会話をするのに驚いたセンナだが、自分が詩琳に言わなければならないことがあると思い出し、慌てて口を開いた。
「あの、私も!詩琳様にお礼を申し上げたくて…。一次試験で助けていただいてありがとうございました」
センナは声を上ずらせながら何とかそう告げた。
「当然のことをしたまでです。あの時は他家の者とはいえ豪族の人間がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
詩琳が床に手をついて深々と頭を下げたのでセンナはますます慌てる。
「そ、そんな。詩林様は何も悪くないのに謝らないで下さい。私がこうして本選に出れたのは本当に詩琳様のおかげなんです」
センナの慌てふためく様子に詩琳は微笑んだ。
「センナ様が本選に残ったのは実力があってこそですよ。二次試験の舞、素晴らしかったです」
二人が知り合いらしいことに紅莉は驚いた。
「一次試験で何かあったのですか?」
口ごもるセンナに代わり、詩琳がありのままの出来事を紅莉に説明した。
「まあ、そんなことが…。じゃあセンナは春麗様とも知り合いなのね」
センナは苦笑した。
「はい。二次試験の衣装を買うときに春麗様にいただいた簪は売ってしまったので、後で改めてお礼に行かないと」
「でも、ついてたわね。東の豪族に絡まれなければ、二次試験の衣装が買えなったんでしょ」
紅莉の率直すぎる物言いにセンナはあたふたしたが、詩琳は気にした様子もなく衣装の話を続けた。
「センナ様の二次試験の衣装はとても似合ってましたね。ご自分でお選びになったのですか?」
「いいえ、都で知り合った武官様に選んでいただいて…」
そこまで言ったセンナは、ライのことは話したらまずいのではないかと思い至り言葉尻を濁した。
「なんだか物語みたいね」
紅莉はからかうような表情でそう言った。一方の詩琳は驚いた様子で目を見開いている。
「あの、これって不正になったりは…」
センナの言葉に詩琳は我に返った。
「不正になんてなりませんよ。審査員である楽舞局の人間なら多少問題視されるかもしれませんが、それでも審査への影響は少ないでしょうから、不正とは言われないと思います」
詩琳の言葉にセンナはほっと息をつく。
その後三人は和やかに話を続けたが、詩琳の本選に関する情報は何も得られず、紅莉とセンナは月の館を後にした。
***
再び風の館に戻った二人は花の館を通らずに、大殿から大庭園を横切って鳥の館に向かうことにした。
いよいよ忍び込むかのようになってきたのでセンナは気が引けたが、なぜか紅莉が楽しそうなので黙ってついて行くことにした。
「それにしても、大きな池ですね」
大庭園の池はセンナの実家がまるまる沈んでしまいそうなほど広い。
「これくらい貴族の家なら普通よ」
都の踊り子をしているだけあって紅莉はまったく動じる様子がない。
池をぐるりと回り込むと、花の館と鳥の館を繋ぐ廊下が見えた。
紅莉が花の館の壁に隠れながら廊下の向こう側の様子を伺うと、鳥の館の庭には一心不乱に剣を振る翠廉の姿があった。
(楽器の音が聞こえないから期待してなかったけど、まさか練習風景を見れるなんて、ついてるわね)
かなりしっかりした造りの長剣を体の軸を保って大胆に振る様子は、良家の令嬢には見えないが、芯の通った美しさを感じさせる。
回転しながら剣を横凪ぎに振り、そのまま膝をつき仰向けに体制を低くしたかと思うと、瞬時に起き上がり、目の前の敵を仕留めるように素早く剣を突き出す。
「すごい…」
紅莉の横でセンナは思わず声を漏らしていた。
紅莉達の後ろにいる護衛も感心するような目つきで翠廉を見ている。
(やっぱり、強敵ね…)
しばらく剣を突き出した体制で目を閉じて止まっていた翠廉だが、ゆっくり息を吐き出すと、呆れたような顔で紅莉達のいる方を見た。
「覗き見なんて、感心しませんね。隠れてないで出てきてください」
凛とした良く通る声に紅莉とセンナは顔を見合わせると、おずおずと建物の陰から姿を現した。
「すみません。ご挨拶に伺ったのですが、熱心に稽古されていたので声をかける機会を失ってしまいました」
堂々とそう言い放つ紅莉を翠廉は胡散臭そうに見る。
「挨拶ですか、ありがとうございます。わざわざ庭を通ったということは、花の館には行かなかったんですか?」
「ええ、まあ…」
笑って誤魔化す紅莉の図太さにセンナは妙に感心してしまった。
「せっかく来て下さったのですから、朗報を差し上げます。私は舞姫になりたいとは思っていません。剣舞以外は貴女方の敵になれる程の実力もありませんから、私のことはお気になさらないで下さい」
翠廉の言葉に紅莉は意味深な笑みを浮かべた。
「あら、そうなのですか?本選の課題に剣舞が出るなんて初めてだから、てっきり鱗家が自慢の剣姫で勝ちに来ているのかと思いましたわ」
センナはギョッとして紅莉を見た。
「そちらこそ、随分内情に詳しいんですね…楽舞曲にお知り合いでもいるのですか?私は、今まで剣舞が課題になったことがないなんて、今初めて知りました」
翠廉は怒った様子はなく、ただ面倒くさそうにそう言い返した。
(鱗家が仕掛けたとしても、彼女の本意じゃなさそうね。それでも強敵には違いないけど)
「失礼しました、ちょっとした冗談です。あ、これどうぞ」
紅莉が手に持った菓子を手渡そうと一歩前に出ると、紅莉の前に風のように背の高い男が現れた。
暁明やセイと同じ服装をしているので、翠廉の護衛なのだろう。
「お預かりします」
紅莉は菓子をセイに手渡した。
「じゃあ、これで失礼しますね。また今度お茶でもしましょう」
紅莉はひらりと手を振ると、後ろを向いて歩き出した。センナも翠廉に軽く会釈をすると慌ててついていく。
「あの子、雪の館の候補者か。…存在感なさすぎて気づかなかったわ」
翠廉の呟きは、もちろんセンナの耳には届かなかった。
***
「翠廉様の剣技、素晴らしかったですね!」
雪の館に戻る道中、自身が『存在感がなさすぎる』と言われていることを知らないセンナは、興奮したように紅莉にそう言った。
「ええ、想像以上だったわね」
紅莉はそう答えながらセンナの表情を観察したが、センナの目はいつも以上に輝き、浮かべる笑顔も無垢なものに見える。
(あの言葉は聞き間違いだったのかしら…)
あの時、凰架の舞を見た時に溢れたセンナの言葉。
「あんなの、舞じゃない」
紅莉の耳に届いた、老成した底冷えするような声には凰架の舞への拒絶が滲み出ていた。
自分には手の届かない才能を見た時に自分を守るために相手を拒絶する者はいる。しかし、センナの拒絶はそうではないように紅莉には感じられた。
センナは凰架を恐れてはいない。恐らく、ただ心底理解できないのだ。
それは彼女の中で舞というものの確固たる美学が存在する証だ。
(一体この子は何者なのかしら…)
紅莉は自分がセンナを恐れはじめていることに気づき、頭を振るとそのことを考えるのを一旦止めることにしたのだった。




