北の兄妹
春のやわらかい風が少女の髪を靡かせた。
庭に面した廊下に腰かけた少女は傍らに積まれた書物には目もくれず、眠たげな目でぼんやりと雲を眺めている。
「凰架、また日がな一日ぼんやり過ごしてるのか?たまには勉強をするとか…」
少女の様子を見咎めて彼女の兄である紫鸞が後ろから声をかけた。
「鸞兄はまた日がな一日私に説教して過ごすの?」
「お前なあ」
青みがかった黒髪に灰色の瞳、全く同じ色彩を持つ兄妹だが纏う雰囲気はまるで違う。兄の方は背も高く体つきもしっかりしており溌剌とした印象だが、妹の方は小柄で儚げというか生命力のなさそうな印象を受ける。
「それに父上が寄こしてきたこれを読むより、ぼんやりしてた方が百倍有意義」
「父上?帰ってきてるのか」
楼華国の北部の豪族である風家は由緒正しい軍門の一族斉家の分家筋に当たる。上昇志向の強い父親は都と斉家を行ったり来たりしながら政治的工作にかかりっきりになっており、兄妹は完全に放置されて育ってきた。故に、紫鸞の父親に抱く感情はあまり良いものではない。
「父上が凰架に書物だなんて珍しいな。何の本を…」
本を開いた紫鸞は一瞬硬直すると無言で本を閉じた。
「これ、本当に父上が…?」
「うん。これで勉強しなさいって」
凰架の返事を聞くと同時に柴鸞は大きな足音を立てて歩き去って行ってしまった。
「鸞兄、口を開いても開かなくてもうるさいなあ」
凰架はそう呟くと、またぼんやりと雲を眺めるのだった。
「父上、何を考えておられるのですか!」
挨拶もそこそこに、紫鸞が顔を真っ赤にして詰め寄ってきたのを、父親ー玲烏は冷たい目で一瞥する。
「お前こそ、久しぶりに帰ってきた父を休ませようという考えは思い浮かばなかったのか」
「そうですね。できればお休みいただきたかったです。凰架にふしだらなことを吹き込む前に!」
紫鸞が突き出したのは玲烏が凰架に勉強するようにと渡した書物は、誰向けなのかは分からないが夜伽について図解付きで懇切丁寧に書かれている指南書であった。
「ふしだらとは、お前は生娘か。言ってて恥ずかしくはないのか」
「こんなものを娘に渡す父親に比べれば全く恥ずかしくありません。だいたい、凰架はまだ14ですよ!何の勉強をさせる気ですか」
楼華国の女性はだいたい17歳前後で嫁ぐ。今年15になる凰架に夜伽の勉強をさせるという事自体はそこまでおかしいことでもないのだが、紫鸞は過保護で心配性で妹のことは自分が守らねばという使命感に燃える、少し面倒くさい兄だった。
「すぐに必要になる。今年、選姫の儀を執り行うことが決まったからな」
選姫の儀とは、国の神事や祭事で舞を披露する『舞姫』を決める選考会のことである。
楼華国は神話の時代から舞を尊び、独自の文化として発展させてきた。
国の政治機関の一つに楽舞局という舞に関する部署があるほど、楼華国では舞を重視している。南の彗帝国に比べれば歴史も浅く、学問や技術面では遅れをとっているにも関わらず、芸術文化に置いては帝国からも一目置かれているのは、国を挙げて長きに渡って舞を極めてきたためである。
舞姫は楼華国を代表する国一番の舞手であり、任期の間は王族に次ぐ身分の者として扱われ、王宮のほど近くに舞姫専用の屋敷が用意される。
さて、王宮のーもとい金と権力のある男の屋敷の近くに若く美しい女性が住む屋敷(しかもその女性は特別な存在のため、自分の妻は手出しをすることができない)があったらどうなるか。想像に難くないが、歴代の舞姫はほとんどが王のお手付きとなり側妃として迎えられていた。
「まさか、凰架を?」
「ああ、推薦状はもう提出した」
一族から舞姫を出すというのは豪族の夢である。舞姫を輩出した豪族の長は重臣として出世することが多く、舞姫が側妃となり男子を産めば更なる権力を得ることができる。
「凰架はそれを望んだのですか?」
「聞くまでもないだろう。国王陛下は病状が思わしくなく、近々代替わり予定だ。次期国王の甲覇様はお若く、鼻筋の通った美しい顔をしていたぞ。正妃には四家のうちのどれかがなるのだ。それに次ぐ妃となれるのに何を不満に思うと?」
四家とは東西南北それぞれの地で最も力を持つ貴族のことである。楼華国は国王が治める直轄領と四家が治める四領に分かれており、貴族を名乗ることが許されているのは直轄領の土地を与えられた一族と、四家のみであり、四家から土地を与えられている一族は豪族と呼ばれている。
東の栄家、西の耀家、南の鱗家に北の斉家。ここ数代の王妃は全てこの四家の何れかの出身だった。
「凰架は権力にも寵愛にも興味がないと思います。それに、後宮の争いのような面倒ごとは嫌うでしょう。一度本人の意思を確認してから「くどい」
先ほどより数段冷たい目で玲烏は息子を睨みつけた。
「察しが悪いと今後苦労するぞ。私の娘の処遇は私が決める。お前に口を出す権利はない」
もちろん凰架にも。言葉にこそしなかった玲烏の本心を悟った紫鸞はひっそりと目を伏せる。
「失礼いたしました。少し頭に血が上っていたようです」
頭を下げて紫鸞は父の部屋を後にする。
長い廊下を歩き、梅の花の咲く庭に出ると井戸で水を汲み、頭から思い切り被った。
「私の娘ってなあ…」
紫鸞はそう呟くと大きく息を吸って、井戸の中に向かって叫んだ。
「てめえは種蒔いただけだろうが!手塩にかけて育てたのは俺だー!」
凰架の母親は凰架が五つの時に亡くなった。それから約十年の間、子供のことなど一切顧みない父親に代わって、文字を教え、礼儀作法を教え、唯一興味がありそうだった舞の教師を付け、風邪の時は手ずから看病し、好き嫌いを口やかましく注意して、立派に育ててきたのだ。
そんな娘同然の妹が、本人の意思も確認されずに、複数の妻を持つことが決まっている男のもとに送られようとしている。
紫鸞としては、凰架には互いに心から好きになった凰架のことを何よりも大切にしてくれる相手と幸せになって欲しかったのである。
「鸞兄、声屋敷中に響き渡ってるから。それあんまり意味ないよ」
後ろから少女にしてはやや低い落ち着いた声で告げられ、柴鸞は井戸から顔を上げた。
「屋敷中は大袈裟だろ」
「いや、下手したら外まで聞こえてるよ」
凰架の言葉が事実なら確実に父にも聞こえてるなと紫鸞は遠い目をする。
「父上に何か言われたの?」
「お前を選姫の儀に推薦したって」
凰架は嫌がる様子もなく「ふーん」とだけ返した。
「分かってるのか?舞姫になったら側妃にさせられるかもしれないんだぞ?そしたら後宮で大変な思いをするかもしれないんだ」
「選姫の儀に推薦しただけでしょ?舞姫になるって決まったわけでもないのに、その先の心配までしなくても」
凰架は呆れたように過保護な兄を見上げた。
「あのな、謙虚なのはいい事だけど、謙遜が過ぎると嫌味に聞こえるから気を付けるんだぞ」
困った子を見る目で紫鸞に見下ろされた凰架は意味が分からない様子で首を傾げたのだった。