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二次試験(3)

 春麗の母は舞姫を目指していたらしい。


『見てごらん、春麗。とっても素敵でしょう?』


 春を迎える祭事に両親に連れられて初めて参加した春麗に母はそう言って目を輝かせていたが、朝早く起きて移動してきた春麗は眠い目をこじ開けるので精一杯だった。


(あの日の舞姫は彼女たちより上手だったのかしら)


 二次試験で一番手というハズレを引いた春麗は、それに特に気負うことなく、課題の中から一番得意な『薫風』を披露した。

 二次試験では他の参加者の舞を見ることのできる場所が設けられており、せっかくなので春麗は見学することにしたのである。

 一次試験で五色院が認めた者たちだけあって、全員なかなかの舞である。


(二次試験通ったら本選かあ)


 春麗は舞が嫌いではない。

 音楽に身を任せるのは気分が良いし、その姿を美しいと褒められるのも嬉しい。

 でも、それだけだ。


(芸術の良し悪しって好みだと思うのよね。寄ってたかって順位をつけるのって無粋じゃない?)


 舞に対する執念もない上に、選姫の儀そのものについては思うところのある春麗が参加しているのはひとえに母の強い希望のためである。

 昔舞姫を目指していた母は、家の都合で結婚が早まり、選姫の儀に参加できなかったらしい。

 娘に夢を託した母は、選りすぐりの教師を春麗に付けた。幼い頃からの稽古の積み重ねと元来の華やかさで春麗はかなりの舞手になったと自負している。

 しかし、そこに春麗の意志はないのだ。


(仮に舞姫になったとして5年も頑張れるかな)


 ぼんやりと舞台を見ている春麗の意識を次の参加者の真っ赤な衣装がやや覚醒させた。内衣も、奏衣も、裳も、羽衣にいたるまで、色の濃さの違いはあれど、全部赤である、


(すごい、真っ赤だ)


 特に内衣は目の覚めるような赤なのだが、不思議と下品だとは感じないのは、着ている者の堂々とした振る舞いのおかげだろうか。

 舞台上に現れた彼女ー紅莉が選んだ曲は『紅葉』、比較的新しい舞曲で今までの参加者で選んでいた者はほとんどいなかった。


(なるほど、それであの着物ね)


 最近の舞曲は演奏者にも舞手にも高度な技術を要するものが多い。それだけ舞が発達してきた証拠なのかもしれない。


(うわ、巧いなあ)


 春麗は紅莉の素性は知らなかったが、それでも彼女が本職の踊り子だと確信する。舞に迷いがなく、積み重ねてきた経験を感じるのだ。


(あとは、あの金の扇か…)


 『紅葉』は翻る扇の動きで舞い落ちる紅葉を思わせる舞なので、扇の色は赤か橙を選ぶものが多い。しかし、そこをあえて着物を赤、扇を金色にすることで自分自身を舞い踊る紅葉に見せた。扇の輝きが秋の木漏れ日を連想させ、自然の美しさをより連想させる。


(これでお金稼いでるんだもんね。やっぱり、良家の習い事とは訳が違うわ)


 自分も参加者でありながら、春麗はどこか他人事に紅莉を評価する。


 そこに対抗意識は一切ない。

 裕福な生家、優しい家族、恵まれた容姿、舞の才能、生まれながらに全てに恵まれた春麗は、他人と自分を比べて優越感に浸ったり、逆に落ち込んだりしたことはない。他人への優位を感じなくても、自分を肯定できる材料をいくらでも持っていたからである。

 それは彼女が他人から傲慢だとか生意気だとか言われる原因でもあるのだが、それらの言葉を気にするほど春麗は繊細な娘ではなかった。


 紅莉が堂々と舞を終えると春麗は心の底からの賛辞をこめて拍手を送った。


(今のところこの人が一番ね)


 自分の出番が終わってから着替え終わるまでに舞った数人は見れていないが、紅莉に敵う者はいなかっただろうと春麗は考える。


(あの濃紺の衣装の子も良かったけど、同じ曲だと技術の差が浮き彫りになるなあ。さっきの子も足運びはすごく綺麗だったけど、扇の扱いはこの人の方が上手い)


 紅莉の後に見た二人も彼女には遠く及ばず、実力は似たり寄ったりで『良家のお稽古ごと』の域を出ない。


 残りの参加者は僅か五人だ。


(これなら本選までは残れそうかな)


 母はきっと喜ぶだろうと春麗は微笑する。

 自分の大体の位置も把握できたし、良い舞いが見れたのでもう帰ろうかと腰を上げようとした春麗は次の舞台の準備の様子を見て、立ち上がるのを止めた。

 笛が二人に太鼓が一人。この編成をするのは今回の課題曲の中では『薫風』だけである。せっかくだから、最後に自分と同じ曲を選んだ者の舞を見て帰ろうと思ったのだ。


 舞台上に浅黄色の衣装を纏った少女が現れる。

 まっすぐ舞台を歩む少女の足取りに春麗はなぜか引き寄せられるような感覚に陥った。


 笛の音がひっそりと鳴り始める。


 少女はスイと手を扇を前に出す。決して力強い仕草ではなかったのに、まっすぐ突き出された扇が空間を切り裂いた気がした。


(風が)


 実際に風が吹いたのか、そう錯覚したのかは春麗にはもう分からなかった。

 確かに言えるのは目の前の少女が只者ではないこと。


(同じ舞なのに、全然違う)


 爽やかで清涼感があるのに情熱的。一つ一つの所作に意味が、言葉が、情景が詰まっているのに、決して重たすぎることがなく、どこまでも軽やかだ。


 生まれて初めて、心臓の音が邪魔だと感じた。

 もっと全神経を集中させて音を拾いたいのに、舞を見たいのに、心ばかりがはやって上手くいかない。


(どうしてあんなに大きく描けるの?)


 舞台上の少女は春麗よりも小柄だ。大きく見せようと振りを大袈裟にしようとすれば下品になるのに、少女は舞に求められる品の良さを保ったまま、大自然に吹き抜ける風そのものを見事に体現していた。


(緩急と…音?)


 笛の音にただ合わせているのではないのだと春麗は気づく。楽部曲に所属する奏者は、舞に合わせて演奏することに長ける。試験のような即興の場でも、舞手の癖に合わせて演奏を変えているのは春麗も気づいていた。舞台上の少女は奏者に合わせてもらっているのではない。明確な構想を持ち、自らの舞によって奏者に彼女の望む演奏をさせているのだ。 

 その結果として、笛の音がより少女の持つ世界を広げていく。舞台だけでなく、観覧席の方まで隅々に音が届き、空間を支配していく。


(薫る、風)


 広い草原に立って、夏の訪れを感じる。春麗の脳裏に子供の頃の記憶が鮮明に蘇った。

 あの独特の、苦くてしっとりした匂い。頬を撫でるやわらかい感触。


(どうして、忘れていたんだろう)


 同じ舞を舞ったのに。

 言葉の意味は知っていた。夏の訪れを告げる舞だと理解して表現したつもりだった。

 それでも春麗の舞は心を刺激できていなかったのだと、初めて気づいた。


 最後の笛の音がだんだんと小さくなる。

 広げた真っ白な扇を、胸元に当てて止まった少女を春麗は呆然と見つめていた。


 音の余韻が完全に消え、居直った少女と春麗の視線が一瞬だけ交差した。

 その瞬間、春麗は顔を赤くしてうつむく。


(恥ずかしい)


 あの程度の舞で芸術の良し悪しは好みだと宣っていた自分が、偉そうに他人の舞を評価していた自分がとてつもなく滑稽に思えたのだ。


(舞姫になったら頑張れるかなんて、どうして考えてたんだろう。私が、あの子に勝てるわけがない)


 舞台上の少女は間違いなく天才だった。神様に愛されているのは彼女だと春麗の目と耳が訴えていた。


「今の方は…」

「風家のご息女ですって。初めて見たけど…名前はたしか、凰架様」


 ちょうど真後ろに座っていた婦人たちの話し声が耳に入る。


(風家の凰架様…)


 初めて聞く名前だった。

 そのまま立ち上がる気にもなれず、残りの舞をすべて心ここに在らずで眺める。

 他の観客たちも同じようで、凰架の後に舞った者は少し可哀そうではあった。


「春麗様、全ての舞が終わりましたし、帰りましょう」


 付き添ってくれた侍女の言葉に春麗は頷く。


(私も本選まで残れれば、またすぐにあの子の舞が見れるけど…)


 初めて舞に完全に心を奪われた興奮で冷静に考える力すら残っていない春麗は、もう自分が本選に残れるかどうかすら自信がなくなっていた。


「凰架様、宿はそっちじゃありませんよ!」


 春麗が慌てて声がした方を向くと、そこには舞台衣装から普段着に着替えた風凰架がいた。凰架を呼び止めたのは彼女の侍女らしい春麗と同じ年くらいの娘だ。


「あれ、そうだっけ?」


 舞台を降りた凰架は目立つところのない、ぼんやりとして頼りなさそうな女の子だった。

 

 あれがあの神々しかった少女かと、春麗が凝視していたせいだろう、視線を感じたらしい凰架が春麗の方を見る。


(あ、まずい)


 気づかないフリで目をそらそうかと思った春麗だったが、凰架の眠そうな目が丸く見開かれたのを見て、驚いて目を逸らすのを忘れてしまった。

 凰架はまっすぐ春麗に歩み寄ってきた。


「舞、すごく綺麗でした。天女様かと思ったけど、本当に人だったんだ」

「へ?」


 思いがけない言葉に目を白黒させている春麗に凰架は楽しそうに笑った。


「本選、楽しみだね」


 凰架はそれだけ言うと自由な足取りで去っていく。

 

 凰架の侍女が「だから宿はこっちです」と必死に訴えるのを遠くに聞きながら、春麗はその場に立ち尽くしたのだった。


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