私たちは明日死ぬ
初投稿であるため、至らぬ点ばかりではありますが、よろしくお願い致します。
「ついに明日だな。」
妻の美香にぼそりと呟いた。私たちは、故郷から遠く離れた有名な旅館にいる。電車を乗り継ぎ、駅からはタクシーを利用した。バスでもすぐに行くことができるのだが、金に糸目をつける必要はもう無い。部屋に用意されてある少し小さな天然湯を満喫して浴衣に腕を通した。少し暖かくなったためか薄い生地の浴衣はとても心地よかった。現在私たちは、食事を楽しむために、何畳かも分からない広々とした大宴会場の隅にいた。3個並んだ小鉢に、牛肉のステーキやお造りなど、食指の動く料理が並んでいた。
「明日のことは考えないって言ったでしょ。」
美香は鯛の造りを箸で拾い上げながら不満げに言う。言葉を借りると、今日は最後の晩餐になる。だからこそ楽しく終えたいのだろう。ともかく、私たちは明日心中する。
「どうやって死ぬのが楽なんだろうね。」
「さあ。」
締め切った部屋で練炭に火をつけるであるとか、電車が通り過ぎるホームから身を投げ出すであるとか、漫画で見た通りに死ぬことはできるのだろうか。そういえば、百合の花を敷き詰めた部屋で寝ると、その花に含まれる成分によって死に至るなんて聞いたことがある。私は正直、死に方はどうでもよかった。死ぬことができるのなら何でもいい。神様がふらふらとやってきて、「このボタンを押したら世界が終わる。」と言われたなら、間違いなく押すだろう。それも、何度も連打するだろう。
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私たちには6歳の娘がいた。私たちはお互いが24歳の頃に結婚し、12年経っている。8年前、サクラの木が誇らしく桃色の華を付け出した頃、娘は産湯に浸かりながら、病院中に響き渡るような産声をあげていた。その声は生まれてきたことを喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも聞こえた。ただ、窓の奥に見えたサクラから溢れた花弁は、私たちを祝福していた。「名前は桜にしましょう。」それは提案ではなく、決定だったのだろう。奇遇にも、私もその名前を提案しようとしたところだった。産湯から白く柔らかいタオルに抱えられたその子の頬は、サクラのような美しい色をしていた。
親馬鹿であることを承知で、桜は本当によくできる子だった。4歳になった桜は、もうひらがなを全て読み書きできて、簡単な計算ならすることができた。おそらく頭の良さは美香譲りなのだろう。美香はいわゆるお嬢様で、小学生の頃から塾はもちろん、ピアノや書道、さらには乗馬の習い事までしていた。黒縁の分厚いメガネをしていなければ、他の男が見逃していなかっただろう。その可愛らしさは、桜もしっかりと引き継いでいる。中学生になる頃には、周りを惹きつけているのだろう。彼氏を連れてきたら私はどのような顔をすればいいだろうか。そんなことを考えていたのを覚えている。
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「手は尽くしましたが...」
意味を理解するのに必要な言葉はなかったが、その意味を理解することはできた。桜はもういないのだ。正確に言えば、頬を桃色に染め、満開に咲いた華のように笑う桜が、である。
ふつふつと黒く醜いものが私の中に溢れていることに気がついた。それは怒りでも後悔でも悲しみでも、何ともつかないものだった。何かに形容するとすれば、それは絶望だった。現実を受け入れることすら出来なかった私を嘲笑うかのように、時計の音だけが病院に響いていた。
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サクラの木がそのピンクの花弁を散り終えた頃に、美香と桜と温泉旅行に行った。6歳になった桜は電車が好きだった。澄んだ空と対照的な赤色の電車が来るたび、自分のものであるかのように自慢げな顔をしていた。旅館に向かうまでの電車でも、桜は楽しそうにしていたので、電車で移動して良かったと、私も自慢げな顔をしていた。向かう温泉地は、電車を3本乗り継いで2時間と少しかかる場所にあった。1度目の乗り換えを無事終えて、最後の乗り換えをすれば、二駅で到着する。遠いところにあるが、急行が停車しないため、各駅停車の電車に乗り換えるため降りる必要があった。駅のホームにはほとんど人はおらず、自動販売機でジュースを買っていると、背中に電車が通り過ぎる風を感じた。しかし、その風は爆発したかのような、大きな音を伴っていた。
そのすぐに、美香は絶望という言葉を表したかのような、頼りなく、弱々しい声を出していた。何を言っていたかは、覚えていない。私の後ろを通ったその急行電車は、桜を跳ね飛ばした。電車が好きな桜は、近づく電車に向かって、ホームから走り出したそうだ。ホームに落ちた桜は、その紅く重たいその無機物に弾き飛ばされた。夢であることを祈り強くつねった左の頬は、現実であることを教えるためか強く痛んでいた。私の全ての細胞が、事実と向き合おうとしていた。しかし私の脳の大部分は、それを認めようとはしていなかった。ブレーキをかけて、やっと止まったその電車はピカピカと輝いて、命を奪ったことをまるで感じさせなかった。その綺麗に磨かれた窓に映った私の左の頬はサクラのように桃色に染まっていた。
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私が来ている旅館は、美香と桜と行く予定だった場所だ。私たちは今日を満喫し、最後の締めのプランとして、心中をするのだ。
桜が死んでから私たちはまともな会話をしたことがない。惰性でふらふらと生きていた。一応仕事は続けていたが、手につかず叱責される日が続いた。ただ、それは絶望するにはほど遠いものだった。一年の月日が経とうとしても、私は、桜の死を受け入れることができていなかった。それは美香も同じで、桜の写った写真を一日中ぼーっと眺めている美香を見るのが嫌で、仕事がない日も用事があると外出していた。美香は、その理由を聞くことも、引き止めることも一切なかった。顔を合わせたくないため、美香が寝たであろう深夜に私はいつも帰っていた。サクラが蕾を見せ始めた頃に、いつも通りの時間にマンションの前についた。部屋の電気がついていることに気付き、部屋に帰ることを躊躇った。美香に久しく会っていなかったが、言いたいことがあった。私の足は勢いよくマンションの階段を上がり部屋に帰っていた。久しく見た美香は、三席の椅子が設けられた机に突っ伏すように座り、私を睨むように見ていた。その机は新聞やらペットボトルやらで散乱しており、桜と美香が幼稚園の門の前で撮った写真がアクリルのケースに入れられてぽつりと置かれていた。そこに写っている美香と桜は、眩しい笑顔を見せており、その度に胸を締め付けられる。その表情を見ることはもう出来ないと悟っていた。私の目に写っている今の美香と、写真に写る美香は、別人であるとしか思えない。写真に写っている美香と、その別の美香は軽々と口を開いた。
「桜が死んだ日覚えてる?もうそろそろなの。だから、一緒に死にましょう。」
美香は冗談が好きで、私を驚かせたり笑わせるために、よく冗談めかしくおかしなことを言っていた。ただ、久しく聞いたその声は、冗談ではないと念押しをしていた。その顔は覚悟を決めていて、見たことない程、たくましい表情だった。もちろんそれは提案ではなく、決定だったのだろう。奇遇にも、私も同じことをずっと考えていた。
「その前に行きたいところがあるんだ。」
「あの旅館でしょう。」
全てを見通していたかのように言う美香に私は圧倒されながらも、旅行のプランをそのまま決め始めた。さっきは死にましょうと言っていた人と同じであるとは思えないほど、楽しそうに考えている美香を見て、私は少しほころんだ。ただ、旅行を終えてその後に死ぬというプランは、普通ありえないだろう。ただ、思ったよりはやく笑顔を見ることができたのは嬉しかった。
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「ごちそうさま。すごく美味しかった。」
満足げにそう言う美香は、明日死ぬようには見えない。もちろん、それに同意する私もだ。死ぬ必要があるかは分からないが、それを否定する必要もないと思っていた。部屋に戻ると、私は柄にもなく飲んだお酒のせいか、美香を愛おしく感じていた。首元に手をかけ、唇を見ると、美香は目を瞑った。その頬はお酒を飲んだせいか、サクラ色に染まっていた。
目を覚ますと、甲高い鳥の鳴き声とともに、朝日が差し込んでいることに気付いた。美香は私の腕を抱いていた。薄い浴衣は乱雑に置かれていて、夫婦としての時間を過ごせたことを満足に思っていた。それとともに、私は次の眠りにつくと、もう目を覚ますことがないということを実感していた。少しでも長く、美香を寝かせてあげたいという気持ちからその腕を動かすことはできなかった。
「おはよう。」
私が起きたことに気付いたかのようにふっと目を覚ました美香に言った。こだまする様に帰ってきたその言葉を、もう聞くことはないのだろう。
「これも最後なんだよな。」
「何回言うのよ。」
顔を洗った時も、歯を磨いている時も、モーニングで部屋に運ばれてきた朝飯を食べている時も、何度も同じことを言う私に美香は笑いながら答える。「朝になるのも最後になるんだよな。」私はそう言おうとしたが、次は怒った声で同じことを言いそうなのでやめておいた。
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「バーベキュー楽しみだな。」
「そうだね。野菜も買いに行かなくちゃね。」
私たちは一度家に帰り、大きな荷物を乱暴に部屋に投げ捨て、くつろぐこともなく近くのホームセンターで七輪と練炭を買いに行った。心中することが目的であり、それを悟られると店員に止められそうな気がしていた。もちろんそんなことはないのだろうが、バーベキューグッズを買う客を装うことにしていた。一応トングとチャッカマン、アルミ製の網を買っておいた。バーベキューをするということをアピールしたかったからだ。私は、そのままバーベキューに行っても良いとさえ思っていた。しかしそんな僕を強かに見つめる美香の目は、バーベキューを楽しみにしている人のものとは到底思えなかった。買い物を終えて、家に帰る時に美香にこう投げかけた。
「私たちが死んだら桜は喜ぶのかな。」
「まだ、6歳よ。死ぬことが悪いことなんて思わないでしょ。会いたいと思ってるに決まってる。」
サクラの木を見つめながら答える。その木は役目を終えたようにサクラの絨毯を作っていた。誰も踏んでいないのか、それはまだ春を忘れさせないために息をしているように見えた。衣替えをしたかの様に緑の葉をもう見せている。
「今日で7歳だろ。」
「そんなに変わらないじゃない。」
サクラの木は一年経てば、その花を散らせ、新しい花を咲かせる。それは、全く別のものなんじゃないかと思っている。一年前と同じサクラの木であると呼べるのだろうか。ただ、そんなことはもう、どうでもよかった。
家に着くと窓を閉め切った。まるで、この世界には2人しかいないようだった。せっせと七輪を出して中に炭を放り込む姿はやはりバーベキューをすると錯覚させた。ここがマンションの一室であることを除けば、だ。用意が整い、着火剤も放り、あとは火をつけるだけだった。それだけで、全てが終わる。机にあった写真の入ったアクリルケースを見て、美香は泣いていた。その涙の理由は分からなかった。
「どうして泣いているんだ。」
「桜に会いたいからよ。」
咽びながら言うそれは、真実であるとは思えなかった。
「早く、火をつけてよ。もう終わりたいの。それと、ありがとう。愛してる。」
詰め込むかのように伝えられた言葉に、私も涙を流していた。愛してる。私もそれを伝えながらチャッカマンのボタンを押した。なかなか付かず、連打した。
黒い炭が少しずつ灰色になっていく様子を見ていると、いつの間にか四角い部屋に黒い煙が充満していた。その煙は逃げ場を探すかのように辺りをうろついていたが、結局は諦めたかのように沈む。桜が死んだ時に感じた黒く醜いものは、こんな色をしていたと思う。少しずつ薄れる意識の中、私は美香の手を握っていた。
「あ、忘れてた。」
美香が振り絞って呟いた。それと同時に、言葉をかき消す高く耳をつんざくような音が鳴り響いた。火災報知器が鳴り響いた。そりゃそうだ。私は正直、それが鳴ることは予想していた。ただ、それを言うと、もっと綿密な自殺プランが練られそうで言えないままでいた。ただ、少し遅かった。もう私には生き残るために何かするような元気はもうなかった。自殺をしようとしているのだからそんな努力をする必要はないのだが、私の心臓は、いつもよりも強く鼓動していた。握った手も、強く握りしめていた。遠のく意識の中に、美香と桜が浮かんだ。それは写と同じく、眩しい笑顔を見せる2人だった。
———
「目を覚ましました!」
嬉々という女の声は美香のものではなかった。朝を迎えていた。私は一日中寝ていたらしい。生きていたのか。2度と迎えるはずのなかった朝日に照らされ病院の窓際で、天井を見つめていると白い服を着た看護師が嬉しそうに、医者を呼びに行った。枕のそばにある簡易的なパイプ椅子に座り、私を安堵したように見つめる人もいた。大家の崎山さんだ。崎山さんは白髪をいじりながら言う。
「おい、家の中でバーベキューなんかするんじゃない。危ないだろうが。私が部屋の鍵を持っていたから助かったものの、死んでたぞ。お前ら。」
きつく言う崎山さんは、怒りながらも少し嬉しそうであった。ただ、それはバーベキューをしようとしたんじゃなく、自殺しようとしたんだと否定しようとした。でもやめることにした。崎山さんは全部知っていたのだろう。バーベキューをしていたことはもちろん、自殺しようとしていたことも。
「次からは俺も呼んでくれよ、屋上が空いてるからよ、そこ使わせてやるよ。そんなことより...」
私が安心した表情を浮かべた時に、それを裏切るかのように崎山さんは言った。
「美香さんは、危ないみたいなんだ。」
私よりも小柄で、多く煙を吸い込んだ美香は、私よりも危篤な状態にあるらしい。別室で、慎重な治療がされている。嘘であることを祈っていたが、それが嘘だと分かっても、私は崎山さんを殴っていたに違いない。
——
私は美香の手を握っていた。自殺しようとしていたのに、2人で生きたいと思っていた。その握った手は弱々しく、別の手で美香の手を包み、無理やり私の手を握りしめさせた。その寝顔は、桜と再会したかのように、優しい表情だった。もう起こさない方がいいのかもしれない。その反面、私の手はより強く美香の手を握っていた。
「痛いよ。」
その声は私が知っている声で、笑っていた。少し前に目を覚ましていたようだ。ずっと名前を呼んで、美香の手を握る私をからかっていたのだろう。そんな嘘なら、大歓迎だった。よく生きていた。本当に危ない状態だった。と医者と崎山さんは話していた。医者は嬉しそうに、窓を開けながら言う。
「本当に良かったです。」
私たちからすれば、温泉旅行最後のプランを邪魔されたわけではあるが、その言葉は本当に嬉しいものだった。
「生き残っちゃったね。」
「そうだな。」
この先の会話が出てこなかった。何を言えば正解なのかが分からない。そもそも正解なんてないのだろう。美香も強く私の手を握っていた。窓から吹き込む少し暖かくなった風は心地よかった。それと一緒にサクラの花弁が舞い込んできた。美香の髪についたサクラの花弁を指で摘み、2人で眺めた。そのサクラの花弁は木から溢れ、弾き出されたとは思えないほど生命を感じさせた。窓の奥に見えたサクラの木は季節外れにも満開だった。
「やっぱり、まだ生きましょう。」
サクラを見つめながら言う美香は少し笑っていた。
もちろんそれは提案ではなく、決定だったのだろう。奇遇にも、私も同じことをずっと考えていた。