1。nōscitō
「ねえ、聞いた?」
城のメイドが一人、仲間に囁いた。
「今日の舞踏会で、『あれ』を使うって。」
「へえ、マジでやるの?」
「公爵閣下はかなり本気。だってどれだけ頑張っても報われなかったし。」
「まあ、うちの陛下、変わってるから。」
「しーっ!それは言わない約束でしょ?」
「嘘ついたわけではないし。」
「バレたら殺されるよ!」
「そんなことで人殺しなんて、全く勝手な女王さまだな。」
「ちょ、声が大きすぎる!」
メイドたちが過ぎ去った後、身を隠していた少女が壁からそっと顔を出した。小さな女の子は人よりも砂糖で作られた人形みたいだった。伸ばしかけの前髪が揺れると大きな瞳や真っ赤な唇が現れた。
(ど、どうしよう…。)
少女は迷っていた。暴君の女王さまが好きなわけではない。しかし人の心を惑わされるのは見ていられない。
(助けなきゃ…。)
ーとは言っても、シャイな少女には友達も味方もない。生まれたばかりで捨てられた運命に家族の愛情さえ求められない。唇を噛んでいた少女は、今夜の当番だったメイドの代わりに皿洗いをする約束をして、ようやく舞踏会のおもてなしができた。
(なんとか、入りましたけど…。)
たかがメイドに過ぎない少女に、未来を変える力はなかった。ただワインとシャンパンを運び、空のグラスを満たせるだけ。
打ち続く無力な時間の中、エリック公爵が女王に近づき、一方的な話を始めた。彼は女王の目を引くため一所懸命だったが、女王は興味なさそうな顔で頬杖をついた。すぐそっぽを向く女王の無神経な態度に、公爵は片手を握り締めた。歯を食いしばった彼は突然、指パッチンをした。すると、向こうでぼーっとしていた一人のメイドが近づいた。
(あの子、様子がおかしい。)
彼女の目は、焦点が合わないと言うか。果てしなき幸せに沈んでいると言うか。なにかに気をとらわれているような、もはやこの世のものではない感じ。
(まさかー。)
なんとなく、メイドが持っているワインの色に気が付いた。城で見たことのない緑の色。
「そこのきみ!」
「は、はいっ!」
誰かの叫びに驚いた少女は、慌てて後ろを振り向いた。
「何をしていますか?」
「その、わたくし、心配で…。」
「何を言ってますか?しっかりしなさい!」
「も、申し訳ございません…。」
「まったく、アンナってこんな未熟者を代わりとして…。」
少女は頭を下げたままメイド長の小言を聞いた。数分後、メイド長は他の獲物を探しに行った。やっと一人になって少女が顔を上げた時、女王は公爵からもらったワインを口にした。
(このままでは…!)
初めて味わうワインに首をかしげる女王とその目を奪おうとする公爵。少女は急いで前に出ようとした。だが、ただのメイドに主役は許せなかった。
「きゃーっ!」
足先をハイヒールに突き当てて、少女は躓いた。ガラスが割れる音がボールルームに響いた。
「ーっ。」
幸か不幸か。ガラスの欠片は、手の先や頬だけ掠めた。だとしても驚いた心ー恥や恐ろしさーは抑えられないから、体は動けない。
倒れた少女は軽蔑的な視線を浴びた。大きくなっていくあざ笑いが突然姿を消したのは、誰かの足音がしたすぐ後。
「ねえ、きみ。」
ハイヒールの音は、少女の前で止まった。どうにか顔を上げても、シャンデリアの光に目が霞んだ。
「なにをしている?」
聞こえる声は、確かな追及。ただのメイドが幸せなパーティを、その笑顔を踏み荒らした責任を責めつける音。
「へえー。」
だが、追いつめられる怖さはすぐ感動となる。女王の指で持ち上げられた少女の顎が軽く震えた。いずれ二人の目が合って、少女は女王を見てしまった。目で確かめた女王は、冷たいけど熱い視線は、言葉なんかで表現出来なかった。世界中の修辞を全て使っても足りないほど致命的な美しさ。その笑顔に心を奪われて、目を離さない。
「ねえ、これ、誰のもの?」
なにげなく人を物扱いする女王に、だれも文句を言わない。だって、それが人間、環境に適応する生き物だから。
「持ち主、ない?」
誰も答えなかった。皆、女王の笑顔は怒りのあまり歪んだ表情だと思っていたから。きっとこの沈黙の先、少女は死にたどりつく。ここにある全員、そう思っていた。顔を青ざめた公爵を除いて。
女王は指先で少女の頬を触った。微弱な快感に鳥肌が立った。指が動くたび、感電されたようにぞっとするから、知らぬ間に喘ぎ声が漏れてしまう。その時、女王の目が満足に満ちた。
「そう、ならー。」
顔が近すぎて息遣い一つさえ聞こえてくる。頬に触れるたび、微熱が出る。
「儂がもらう。」