湖の水はおいしい。
遅刻する覚悟もできたところで、改めて黒い羊を見る。牛を通り越して象くらいある、いやもっと大きいか?
(夢とはいえ大きすぎじゃないかな…)
「さて、人の子よ。一つ確認したいことがある。なに簡単なことだ、汝の名を思い出せるか?」
「…はい?あ、そうか!名乗っていませんでしたね。失礼しました、私は…」
(私は…ん?あれ??嘘だろなんで!?自分の名前がわからないなんてことあるか?!)
落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせてみても、手の震えは止まらない。苗字もわからなければ、最初の文字だとか読みだとか、全くこれっぽっちも思い出せなかった。例え夢の中であっても自分の名前を忘れるはずはない。
「どうやらわからぬようだな。これではっきりした。汝はこの世の神々とは別の、時の異なる神の元で生きていた人の子だ。」
衝撃としか言いようがない。その羊の言葉は、とてもすぐには理解できなかった。理解したくもなかった。
私は一人暮らしをしている社会人だ。仕事にもなれて後輩もできて、職場の同僚とお昼は一緒に食べようねなんて話をしていた。でも、会社名もみんなの名前も思い出せない。
そして、親や友人の名前も。友人とは昨日仕事終わりに飲みにいったし、親とはちゃんと食べてるか仕事はどうだってちょっと前にメールをしたばかりだ。そんなことは覚えているのに、、
知らぬ間に泣いていたらしい。一度認識して仕舞えば、堰を切ったように涙が溢れた。嗚咽が止まらない。羊は静かに寄り添ってふわふわの毛並みで包んでくれた。
ふと顔をあげると、泣き疲れて寝てしまっていたらしく、西陽が眩しい。
「湖の水を飲むといい。気が落ち着くだろう。」
黙って枕になってくれていたらしい羊は、そう言って湖の方を見た。涙でだいぶ水分を失っているし、喉も痛い。羊の言葉通り、ふらふらと湖の側へ行きしゃがむ。
(こんな時にみても綺麗なものは綺麗なんだな…)
ちゃぷんと手を入れると、ゆっくりと波紋が広がる。少し冷たい水を両手で掬い口に含む。そのまま飲み込むと、スーッと喉を通る感覚が痛みを癒してくれた。
(…おいしい。けど、柑橘系のサイダーみたいな味がするのはなんでだ。)
心の中で、ここは桃源郷かなにかか!と思わず突っ込む。桃源郷のはお酒の滝だって話だからちょっと違うか。
ついでに、涙でぐしゃぐしゃだったので顔も洗った。少し腫れた目に冷たい水が気持ちいい。すると羊がどこからか真っ黒なハンカチを出して、手渡してくれた。
「落ち着いたか?」
「はい、すみません、いきなり泣き出して、しかも枕にしてしまって…」
「かまわぬよ。我にとっては瞬きするような時間だ。」
気遣いか本気かわからないことを言う羊を見ながら、まだ少し残っていた涙を拭う。泣いてスッキリしたのか少し楽になった。こうなったらきちんと話を聞かねば。
「一応、念のためお伺いしたいのですが、夢、ではないのですね?」
「ああ、夢ではない。ここは現実だ。だが、安心するといい。汝が我が主人となったからには、この命ある限り主人を護ると誓おう。証として名をつけてくれ。」
「いやいやいや、待ってくださいっ!!情報量が多すぎる!」
ダメだ、早くも心が折れそう。夢じゃないのね、そうなのねって簡単に流せるものじゃないよ!そこを詳しく説明してくれるんじゃないの!あと主人とかいつ契約したのさなんの説明もなく!悪徳商法かな!?いや落ち着け、慌てちゃダメだ。