たとえあなたが知らなくても
私は毎日、黒塗りのベンツで登校し、下校も同じ車が迎えに来てくれる。運転者は決まってこう言う。「行ってらっしゃい」「おかえり」と。運転者は全く私の家族でもなければ、親戚でもないし、恋人でもない。しかし、一年半前に私をさらってから、彼は私を人形のように丁寧に扱い、食事も、部屋も、何不自由なく暮らすことができ、学校でさえこうやって送り迎え付きで行くことができる。彼の仕事は分からないが、私が住んでいた家より、はるかにお金があり、そして、孤独である。
私は何のためにここにいるのだろう。こんな生活をすでに一年半近く続けている。
それは、私が中学の卒業式の帰りのことであった。彼は、黒いスーツを着て、私の前に突然現れた。そして、こう言った。
「一緒に来てほしい」
私は、彼の優しい声に導かれて、車に乗り込み、学校から離れた場所にある見知らぬ花屋の前に停まった。花屋の中に入ると、綺麗な色とりどりの花が置かれ、花のいい香りがしていたことを覚えている。そして、花が置かれている場所を通り過ぎ、中に入ると、下へ続く階段があった。彼は、私の手をとり、その階段をおりて、地下の部屋に誘った。そこには、大きな部屋があり、天蓋付きのベッド、大きな丸いテーブルとキッチン、ウォーターサーバー、本棚、床はすべてふかふかした絨毯が敷かれていた。私は呆気に取られていると、彼は耳元でささやいた。
「ここに居てね」
それはつまり、ここに住んでねという意味だったことを、その時は分からなかった。私がここに来た理由も分からなかった。私は、そのときに引き返すこともできたのに、しなかった。あり得ないことが、事件になる可能性の高いことが自分の身に起きているというのに、声を出さなかった。出すことを忘れていた。
そして、その日から、私と彼との不思議な生活が始まった。彼は、最初に約束を提示してきた。
ここから出ないこと
君の学校生活やそのほかの希望にはできるだけ支障のないようにしてあげること
ここから外に出るときは必ず僕と一緒であること
この生活をほかの人に言わないこと
僕を愛すること
この5つを守ってほしい。それだけだった。守らなければ罰があるなど、何も言わなかった。私にとっては、それくらいのことだったら、守れると思った。しかし、僕を愛することというのは、約束できるかどうか分からなかった。
「最後のは、約束できるか分かりません」
正直に言うと、彼は優しく私の肩を抱き、おでこにキスをした。
「ゆっくりでいいよ」
彼はそういうと、階段を上り、消えてしまった。螺旋を描く階段の向こう側でドアを施錠する重い音がした。私は、一人で、ぼんやりと部屋を見回すと、そこには自由が広がっているような気がした。壁にかかっている大きな時計は、午後三時を過ぎていた。部屋の冷蔵庫には、飲み物やそのほか食べ物も少し入っていた。机の上のバスケットにはお菓子もいくつか入っている。部屋を歩くと、ドアが二つあった。一つはトイレ、もう一つはシャワールームだった。家のより広く、まるで中世の貴族が使っていそうな、装飾の凝った作りだった。私はベッドに座り、改めて部屋を見回した。この部屋は私のための部屋なのだろうか。広すぎる部屋に、大きすぎるベッド。でも、今はそんなことはどうでもいい。私はそのままベッドに横になって眠ってしまった。
私が、ふと目を開けると、部屋は真っ暗だった。電気をつけたいが、スイッチの場所が分からない。ベッドから立ち上がると優しいダウンライトが付いた。すると、ベッドの端には彼が座っていた。驚いて、後ずさりすると、彼は言った。
「驚かせてごめんね。君の寝顔が可愛くて起こさなかったんだ」
「あなたは……誰なのですか」
今更、変なことを聞いた。彼の車に乗り、怪しげな地下室に連れていかれ、しかもそこで眠った後に聞くことではない。これは出合い頭に聞くことだ。
「僕は風間という者だよ。君のことは良く知っている。茂柳木朱音、1991年5月26日生まれ、天日中学3年生で今日卒業したばかり、部活はなにも入っていない。高校は学区内でもトップの天日高校に進学予定。両親は離婚していて、父親に引き取られた。違うかい」
彼の言うことは、すべて当たっていた。名前も、素性もすべて。でも、私は風間というこの男を知らない。知らないどころか、見かけたこともないし、こんな黒いスーツを着ている人は葬儀屋くらいしか心当たりがない。この口調ぶりからすると、他にも私のことは知っているように感じた。
「そうですけど、風間さんは、なぜこんなことをするんですか」
彼は少し考えてから、ベッドから立ち上がり、大きな丸いテーブルの椅子に腰かけた。
「君が好きだから、かな」
それはたぶん、誘拐にあたる。それに青少年保護育成条例にもひっかかると思う。彼は、知的そうに見えるし、そんなことは承知で私をここへ連れてきたと思うが、やり方が余りにも突拍子がなく、とんでもなく私のために注ぎ込み過ぎている。彼は、右ひじをテーブルについて、頬杖をつきながら、私を見ていた。
「私、まだ何のことかよく分からないんですけど」
「慣れるまで混乱すると思うけど、これからは、ここで過ごしてもらう。大丈夫、高校へはちゃんと行かせてあげるし、何かしたいことがあれば言ってくれ。きっと、ここは君の素敵な家になるはずだよ」
彼は立ち上がって、階段のところまで歩いて行った。
「部屋の説明するのを忘れていたね。ここに電気のスイッチがある。部屋の電球はここでも付けられるし、このリモコンでも付けられるよ。ダウンライトも付けられる。夜中にトイレに行くとかは便利だと思う。あと、この部屋は日の光が入らないから、一応、日中はずっと電気が自動的についていて、夕方になると薄暗くなって、夜には消える。これはただ自動的ってだけだから、リモコンで制御すれば、自由にできるよ。ベッドのそばにある茶色いボタンを押すと、上から人が来る。何か用があれば押せばいいよ。ご飯は時間になると、人が持ってきてくれる。心配しているかもしれないから一応言っておくと、ここには監視カメラも盗聴器もないから」
彼は、そう言って部屋を案内すると、私の所に来てふわりと肩を抱いた。
「僕も時々来るからね」
彼はそう言い残して、階段を上って行った。時計は午後8時を指しており、少しお腹がすいたなと思った。サーバーから水を飲んでいると、扉が開く音がした。降りてきたのは、花屋で店番をしていた男の人だった。お盆に乗せられたご飯を持っていた。
「ここに置いておきます。あと、朝食は洋食か和食が選べますがどうされますか」
この人は、なぜ私のような年下の人間に敬語を使うのだろう。
「洋食でお願いします」
私はぎこちなくお願いすると、彼は一礼して階段を上って行った。そして、また重い施錠音がした。私の今夜のご飯は、ハンバーグとスープ、サラダ、ご飯だった。久しぶりに食べるハンバーグに少し嬉しくなった。私は小声で、いただきますと言うと、誰が作ったかもわからないご飯を食べ始めた。風間さんもさっきの花屋の人も、どこか丁寧で、優しく、とても私に危害を加えるような気がしなかった。それに、風間さんは、私のことを好きと言ったが、好きではないもっと何か違う感情があるような気がしてならなかった。それにしても、ここはとても静かだ。地表を通り過ぎる車の音もしない。階段の長さからすると、地表まで5mもないと思われるが、音がしないということは、私がいくら叫んでも外には聞こえないということだ。私は、そういえば、鞄の中に携帯が入っていたはず。床に置きっぱなしの鞄から、携帯を取り出そうとしたが、鞄の中には携帯は入っていなかった。確かに入れたと思ったが……もしかしたら彼らに取られたのかも。それに、私は確か、制服のまま眠ってしまったはずなのに、上着がハンガーにかけられていることに気が付いた。風間さんが脱がしたのだろうか。私は、ご飯を食べながら、次に来た時にお願いすることをいくつか整理しておいた。ご飯を食べ終わると、本棚を見た。その本棚は、私の部屋の本棚をそのまま持ってきたように、私のお気に入りの本が並んでいた。松本清張の山峡の章、森博嗣の数奇にて模型、有限と微小のパン、米澤穂信の古典部シリーズ、儚い羊たちの祝宴。それに、何も書かれていない日記帳が一冊。めくってみたが何も書かれていないのに、なぜか年季の入った体裁だった。すると、再び、風間さんがおりてきた。
「あぁ、それは日記帳だよ。書きたくなったら何か書いてくれ」
風間さんはベッドに腰かけると、黒いスーツに合わせた黒いネクタイを緩めた。そして、微笑みながら私を見た。目が合ったので、そらしてから尋ねた。
「私、着替えとか欲しいんですけど」
違う。こんなことが聞きたかったわけじゃない。頭の中で整理したことが、言葉がバラバラに展開されてしまって、聞きたいことが聞けなかった。
「着替えなら、僕の好みで選ばせてもらったけど、クローゼットに入っているよ。新しい高校の制服も入っているからね。好きに着て。それとも今、着るかい」
風間さんはクローゼットを開けて、服をいろいろ出してきた。到底、外では着られないようなネグリジェとか、綺麗なワンピースなど、私の好みをよく分かっている。こんな服を着たことはなかったから、着てみたいと思った。今すぐにでも。でも、風間さんの前で脱衣はできない。
「あとで、着てみます」
「着たら見せてね」
風間さんは服を眺めながら言った。
「あの、私の携帯を知りませんか」
風間さんは服のポケットから、私の携帯を取り出した。
「少しいじる必要があったから借りていた。返すね」
私は無言で携帯を受け取ると、ロック画面が出た。そうだ、私はロックを掛けていたはず。どうやって開けたんだろう。
「何をいじったんですか」
「みれば分かると思うけど、連絡先は僕しかない。そのほかのアプリも必要なもの以外は消させてもらったし、他のアプリも好きにはダウンロードできない。インターネットも少し制限させてもらっている。ニュースなんかは見ても構わない。あと、今までの写真やメールなども消させてもらった」
私はロックを解除して、見てみると、メッセージアプリや写真なども一切残っていなかった。やり取りができるのは、風間さんだけ。どうやってこんなことができたのか。風間さんはいったい何者なの。
「困ります」
私は今までの大切な写真もいくつかあったし、友達とメールもしたかった。ここまでされると、さすがに言い返した。
「ごめんね。でも、これが一番なんだ。これが一番、最短なんだ」
風間さんの表情は辛そうだった。何が彼をそうさせるのか、辛い顔になる顔になるのは私の方なのに。
「あの……」
私は何かを言いかけたが、風間さんが遮った。
「今日はシャワーを浴びて、ゆっくりお休み。また明日会おう」
階段に消えていく風間さんを見ながら、私はなんとも言えない気分になった。
それから、2週間が過ぎ、高校の入学式になった。この2週間は一度も外に出ず、勉強したり、新たに用意してもらった本を読んだり、毎日、やってくる風間さんと話したりしてすごした。彼の素性はほとんど分からなかったが、おそらく、あまりいい仕事をしているようには思えなかった。来るのは不定期だし、いつも黒のスーツ。欲しいものはすべて揃えてくれる財力を持っていながら、私をどうにかしたい訳でもないらしい。ちなみに言うと、彼は私と体の関係を持つことはなかった。なにより、触れることはあっても、触れる以上のことは決してしなかった。私を誘拐しても、なにも特になることはなさそうだが、好きというだけでここまでするのも、些か異常すぎる。なのに、その異常さは彼と話しても全く感じられなかった。しかし、入学式の日に、久しぶりに日の光を浴びると、私の現状がいかに不思議か理解した。私は誘拐されて監禁されている。その上、学校に行こうとしている。彼は私の手をとり、車に乗せた。黒塗りのベンツで入学すれば、かなり目立つことになりそうだったので、風間さんに学校の少し手前で降ろしてほしいと頼んだ。彼は、渋ったが、私の恥になるようならと了承した。そして、学校の人には決してこのことは話さないことを、念押しされた。私は分かっていますと答えて、風間さんが車の扉を開けた。
「行ってらっしゃい」
私は、遠い昔の記憶がよみがえった。昔、外に行くときは母に行ってらっしゃいと言われていた。
「行ってきます」
私は学校まで歩いて、新たな高校生活を迎えた。でも、何不自由なく自由な生活。
新しいクラスでは、友達を作りたかったが、私の携帯は交友が一切遮断されている。そんな不思議な生徒を、周りは変だと思うだろう。グループから外されない程度に、ひっそりと過ごすべきだろう。入学式が済むと、クラスに戻り、必要書類を担任が配った。数枚にわたる、必要書類の中にドキッとさせるものがあった。家庭調査表。これは、書けない。私は、誘拐されている身。父は、私のことが邪魔だったから、たぶん家出してそのまま帰って来なくて、それで何も思ってないだろう。だから、世間は私を探しておらず、当然、入学もすんなりとできた。私は2週間もいなくなってもいい存在。でも、風間さんは、私を必要としてくれる存在。家庭調査表は風間さんに任せよう。私はまだ16歳で保護者が必要な年なのだから、仕方がない。
「ねえ、茂柳木さんって彫り深いね。ハーフなの」
クラスの女の子が話しかけてきた。私の前の席に座っている、おそらく浜口さん。
「ハーフじゃないわ。茂柳木朱音っていうの。よろしく」
「そうなんだ。彫り深くて綺麗だから、ハーフかと思っちゃった。私は浜口佳子。よろしくね」
私の最初の友達になりそう。彫りが深いっていうのは、初めて言われた。最近、あまり鏡を見てなかったからか、急に自分の顔を見たくなった。朝は、身支度するときに特に何も思わなかった。でも、日の光に浴びてなかったから、色白にはなった気がする。そういえば、風間さんも彫りが深い気がする。もしかしたら、彼こそハーフなのかもしれない。帰ったら聞いてみようかな。ホームルームが終わると、私は鞄を持って、帰る用意をした。すると、浜口さんに声を掛けられた。
「茂柳木さんってどこらへんに住んでいるの。方向が一緒だったら一緒に帰らない」
どこらへんかは分からないが、車で30分以上はかかるところに住んでいる。住所は分からない。入学早々、変な子扱いは受けたくない。どう答えたらいいんだろう。この高校の場所と家の場所の地理は入っているものの、学校より南の場所としか言えない。
「結構遠いから、車で送ってもらっているんだ。ごめんね、でもありがとう」
浜口さんは、そうなんだと答えて他の子に声をかけていた。私は、帰る前にトイレに寄って、鏡に映る自分の顔を眺めた。確かに、こんなに彫りがあったか、と違和感を覚えた。こんな顔だったか思い出せない。ただ、整形を受けたほど明らかに違うわけではないから、気にせず学校を出た。行きと同じ場所に黒塗りのベンツが停まっていた。風間さんは、運転席から降りると、にっこりと笑いかけた。
「おかえり」
すらりと背の高い風間さんの顔は、やはり彫りが深かった。でも、外国人というほどでもなく、ハーフと言われればそうかもしれないと思う程度だった。
「ただいま」
私は、風間さんが開ける扉に乗り込み、花屋の地下にある自分の家に向かった。
家に着くと、風間さんに書いてほしい書類を何点か渡した。風間さんは、そのまま椅子に座ると、その場で必要事項を書いてくれた。
「風間さんはハーフなんですか」
私は答えてもらえないだろうと思ったが、聞いてみた。
「どうしてそう思うんだい」
「いえ、今日クラスメイトに彫りが深いねって言われて、そういえば風間さんも深いなあと思ったので聞きました」
風間さんは嬉しそうに口角をあげた。
「僕はハーフじゃないよ」
そういって、返された家庭調査表には保護者の欄に、風間樹と書かれていた。住所は前の家の住所で、その他私のアレルギーなども書かれていた。教えた覚えはないが、風間さんはたぶん私以上に私を知っている人だということは、この2週間で分かっていた。そして、この人は、なぜか私を大切に思っている人だということも。ただ、風間さんの情報がもっと欲しかった。この人が何者なのかは掴めないまま過ごしている。
「風間さんは、どこに住んでいるんですか」
風間さんは、よく私の部屋にはやってくるが、夜は必ず帰っている。だから、どこかに風間さんが寝ている場所があるはず。
「近くに家があるよ。でもここの方が落ち着くね」
こうやって、いつも質問はそらされてしまう。私のことはどこから情報を得ているのだろう。父は絶対にありえない。私には兄弟はいない。母は離婚して以来、どこに住んでいるかもわからない。風間さんへの疑問は日に日に増していく一方で、反比例して信頼も増していった。
クラスの友達ともなんとなく打ち解け、一応、クラスから浮くことはなくなった。ただ、黒塗りのベンツの話は、どうしても隠すことができず、クラスメイトからは凄い家のお嬢様なんじゃないかと噂されてしまっている。いつも、迎えに来る男の人が、父でもなく恋人でもないように見えるため、運転手だと思われており、仕方なく、運転手ということで話している。あの人が、保護者だと思われると、一体どんな家庭なのかと思われるのも困る。そうして、目立つこともなく、なんとなく、本当に何となく、1学期が過ぎた。テストも真ん中の上くらいという、凡人の結果をとり、先生からも目をつけられず生活した。夏休み前になると、みんなは旅行の計画を立てていた。勿論、誘われたが、答えに困り、親戚の家に行くと言って断った。本当は、もっとクラスメイトと居たかった。楽しく夏を過ごしたり、満喫したいことは沢山あった。でも、風間さんと天秤にかけると、風間さんが重くなっていた。
「夏休みには、イギリスに行こうか」
風間さんは唐突に誘った。
「イギリス、ですか。私は、パスポートもありませんし、それにイギリスって、どうしてですか」
「どうしても見てほしいものがあってね。駄目かな」
私には断る権利はない。
「分かりました」
風間さんの考えていることは、数か月たってもよく分からなかった。イギリスへは、花屋の男性と、風間さんと私の三人で行くことになったが、なんと自家用ジェットを借りて行くことになり、ますます風間さんが恐ろしく見えてしまった。ジェットは借り物だそうだが、そんなものを借りられるほどの地位と権力の持ち主だということらしい。私には到底、そんな世界に入れそうにもないけれど、彼の監視下にある今の状態では、その世界になんとなく入っているのかもしれない。いや、それはないか。
そして、突然やってきたイギリスへの旅行日。パスポートもなぜか私の分が用意されていて、車で飛行場まで移動し、飛行士と風間さんが話した後、私は飛行機に乗り込んだ。中は、部屋をそのまま持ってきたような安定感があり、飛行機の中とは思えないほど、豪華であった。私は言われるがまま、椅子に座り、横に風間さんが座った。
「イギリスで滞在したいだけ滞在していいよ」
「そんな、私は……」
行ったこともない場所で、何をしたいかもわからない。私はただただ、風間さんに連れられるところへ行くだけ。飛行機は滑走路を走り、日本を発った。8月6日のことであった。飛行機の中で一夜を過ごして、イギリス時間の朝に到着予定となっている。飛行機の中で眠れるかしらと思っていたが、ご飯も素敵で、実に快適なフライトであった。飛行機の光が落とされ、暗くなると、風間さんは耳元でささやいた。
「おやすみ」
そして、私の右手を握った。強くもなく弱くもない、大きな彼の手で私の右手が包み込まれた。私は、少し心が揺れたが、そのまま眠ることにした。最初は、胸の鼓動が大きくて眠ることはできなかったが、昼間の飛行機の興奮で、疲れて眠ってしまった。起こされたのは、イギリスまで残り2時間ほどになったとき。風間さんに肩を優しく揺さぶられた。
「おはよう」
目を開けると、風間さんの顔があった。優しくて、素敵な笑顔だった。私は起き上がって、身支度を済ませると、軽い朝食をとり、イギリスに到着した。初めての海外だったのに、なぜか、心が穏やかで、むしろ自家用ジェットの時の方が興奮していたように思えた。ジェットの中で、風間さんに用意された服を着た。どうしてこんなドレスみたいな服を用意したのか分からないが、イギリスっぽいなと鏡を見て、ふふっと笑った。服やそのほか必要なものはほとんど風間さんや花屋の男性が用意してくれた。普段着ではないけれど、少しおしゃれというドレスは嬉しかった。飛行場に来ていた移動用の車に乗り込み、風間さんは言った。
「行くところは決まっているんだ。チャッツワースだよ」
「チャッツワースですか。聞いたことありません。どこですか」
「庭園が美しいマナーハウスだよ」
マナーハウスって誰かの家だったということかしら。庭園が美しいなら、私も行きたい。こんなところに連れてきてくれる風間さんを、やはり不思議思った。チャッツワースに何か意味でもあるのか、風間さんの思い出の場所とか。
私は、移動中のイギリスの風景にも嬉しくなった。日本の外ってこんなところなんだ。普通の家からも花が溢れ、レンガ造りの道を走っていく。そして、車で幾分か時間が経つと、そのチャッツワースというところについた。
「今は、入園料がいるんだ」
風間さんは流暢な英語で入り口の人と話し、入園料を払い、中に入った。すでに、色とりどりの花や木々がある。これが庭園なのかな、と考えていると、急に目の前に広大な土地が広がった。ただ広いだけじゃない、丘のようになだらかな坂もあり、どこまでも、芝生がひろがっている。向こうには、木々が生えて、湖でもありそうなほど広かった。
「すごい……」
私は立ち止まり、美しい庭園を眺めた。
「とても、この風景に似合うよ」
風間さんは私を褒めた。私はここで芝生の上をかけて行きたいと思った。昔、こんな広場を走って、母に一人で勝手に行かないで、と怒られたことがあった。庭園は長く続き、その途中にマナーハウスがあった。中には入れるが、ロープが引かれ、廊下しか歩けないようになっている。豪華な玄関、というかホールがもう吹き抜けの信じられないくらい高くて、立ち止まってしまう。風間さんは、庭では案内をしてくれたが、マナーハウスの中は英語表記の場所を翻訳してくれるだけで、案内はしてくれなかった。もしかしたら、入ったことないかもしれない。でも、風間さんは、私ほど興奮していなかった。きっと、一度は来たことあるんだろう。部屋も豪華で、こんなところに住むのは、逆に住みにくいのではないかと思うほどだった。壁や天井、それに椅子や机、すべてに凝った装飾がしてあって、現代の日本のようにシンプルな家具からはかけ離れたものだ。そして、どこも天井が高く、赤いふかふかの椅子がある部屋には、窓のそばに座る場所があり、そこから広大な庭を眺めることができた。その眺めが、きっとここに住んでいた人を、朝日も夕日も眺められる素敵な日々を送らせていたことだろう。風間さんは、静かに私のそばで庭を眺めていた。3時間ほど過ごして、今夜のホテルに向かった。ホテルも五つ星で素敵なところだった。私は、てっきり一人で部屋を過ごすのかと思っていたら、なんと三人とも同じ部屋だった。と言っても、1泊何十万かするであろう部屋にはベッドルームが3つ。3人には十分な部屋だった。部屋と言ってもほとんど壁はなく、何部屋か続いている。私は、部屋に入ると、窓から暗闇に光るイギリスの街があった。街頭に照らされて、行き交う車を照らし、遠くにはビッグベンが見えた。私は、いつものネグリジェに着替えると、ベッドに腰かけた。ふと、母が寝る前に教えてくれたことを思い出した。寝るときには、ドアを閉めて、ドアの隙間からもれる外の電気が動いたら、ベッドの下に隠れるのよ、と。今思えば、なんでそんなことを教えてくれたのだろう。この部屋にはドアもないから、今夜は安心して眠れるけれど、逆に言えば、ドアがないほうが怖い。母が、それを教えてくれた意図は分からない。私は、それを教えてもらった後は、起きている限り、ドアの隙間から見える光をじっと見ていたものだ。
「今夜は眠れそうかい」
風間さんが、黒のスーツではない、普通の服を着て部屋に入ってきたので驚いた。風間さんが、スーツ以外を着ているところは見たことがない。
「風間さんも普通の服着るんですね」
私は笑った。すると風間さんも笑って、今日は特別だよ、と答えた。
「今日のチャッツワースはどうだった」
風間さんは私の横に座った。こんな風に私の横に座るのも初めてだった。
「素敵なところでした。母のことを思い出しました。あんな芝生の上を走っていたら、向こうまで行かないでって怒られたものです」
風間さんは嬉しそうな顔をした。
「そうか。それは僕も嬉しいよ。母上のことはよく覚えてないのだろう」
「は、はい。離婚したのが小さいときでしたから」
風間さんは、窓から見える夜空に目をやると、左手で私の左肩を抱いた。どきっとした私の心を見透かすように風間さんは続けた。
「これからもっと思い出すと良いね。いろんなことを」
温かい風間さんの腕を感じながら、私は目を瞑り、頭を風間さんに傾けた。この数か月で私は変わった。風間さんに対しての思いは、誘拐されてきた時と、確実に違う。この人は、絶対に信じていい。この人は、私に必要な人。
「風間さんはここに来たことがありますよね」
私は体を委ねたまま、質問した。
「あるよ。何度も来ている。ここは本当にいい場所だね」
やはり、来ていた。しかも何度も。では、今回は私を連れて行ったのはなぜだろう。流暢な英語を話せるのも、何度も来ているからだと納得できる。もしかしたら、イギリスに留学とかしていたのかもしれない。
「今日はここで眠るよ」
風間さんは私が眠る予定のベッドに視線を動かした。はっと我に返り、私は頭を戻した。気が緩み過ぎていた。
「では、私は向こうで……」
私がベッドから立ち上がろうとしたとき、風間さんが腕を掴んだ。それは、今までのふわりとした触り方ではなく、ぎゅっと力が入っていた。
「一緒に、眠ろう」
風間さんは私の腕を掴んで、ベッドに横にさせた。私は、何かされるのではないかと不安にかられたが、風間さんは私のそばに横になると、手を握った。そして、そのまま私は眠りに落ちた。それは、深い眠りで、どこか心地よく、懐かしい気分にさせてくれた。夢で母をみかけたような気がした。
明け方に目が覚めると私は風間さんに背を向けて眠っていた。風間さんはまだ眠っていたが、私と同じ方向を向いており、近くもなく遠くもない距離で、本当に一晩を共にしたらしい。私は、起きた時に衣服の乱れなどを確認したが、眠ったときとなんら変わりはなかった。風間さんは本当に、眠りに来ただけだったようだ。私はベッドから出ると、窓から見える少し顔を出した朝日を浴びながら、伸びをした。風間さんは私を誘拐し、監禁して、監視して、明らかに普通じゃないのに、手を出さない。誘拐した日に、好きだからと答えていたが、あれ以来、私のことを好きだと言ったことはないし、体を求められもしない。プラトニックなだけだろうか。でも、私は風間さんと結婚することはおそらくないし、きっとどこかでこの生活にも終止符が来るはず。ただ、それを望んでいない自分も少なからずあった。
「起きていたんだね。おはよう」
風間さんは起き上がると、少し寝癖のついた髪を触っていた。
「おはようございます」
「よく眠れたかい」
「ええ。ベッドが心地よかったもので」
「僕もよく眠れたよ」
風間さんは、ベッドから立ち上がると、私の所へ来て、優しく頭を撫でてこう言った。
「きっともうすぐだよ」
私がその意味を考えているうちに、風間さんは自分の部屋に戻って行った。
その日は一日、イギリス観光をした。主に、午前中はマカロンなどのお店に行き、お菓子を食べて、午後は大英博物館に行った。彫刻がたくさん置いてあるところは、美しさと不気味さが混ざった空気があり、あまり私には彫刻の良さは分からないな、と思った。絵画のところでは、本物の迫力を味わい、錯視の絵では何分もそこで階段を上ったり下りたりして楽しんだ。風間さんは、私の後ろをただついてくるだけで、昨日のように、どこかに誘う気はなさそうだった。大英博物館は、かなりの大きさでもちろん一日で回ることは不可能。なので、午後を一日つぶして見て回れるだけ見て、その後、夕食を近くのレストランでとって、その後ロンドンアイに乗った。私が一番イギリスでしたかったことは、もしかしたらロンドンアイに乗ることだったかもしれない。風間さんも同行したが、花屋の男性は下で待つと言い、私たちの邪魔はしませんといった風だった。私たちは恋人ではない。でも、この男性は、風間さんのお付きの人で、このイギリスにもただ単にお世話役として同行しただけ。楽しむことは目的ではない。
「ロンドンアイには僕も初めて乗るよ」
風間さんが初めて、自身の初めてを語った。風間さんのような人にも初めてがあるのかと感慨にふけった。
「私も初めてなので楽しみです」
観覧車と言ってしまえばそれで終わりなのだが、カップルやほとんどが観光客の中で、日系人の男女はきっとカップルに見えるだろう。本当は違うのに。風間さんは恋人とは違う。そう、きっと違う。
ロンドンアイで眺めるロンドンブリッジやビッグベンを眺めて、再び外国の美しさを目にした。日本にもこんなに素晴らしいところがあればいいのに。日本の和風建築も悪くはないけれど、やはり英国式のものにはどこか惹かれる。素敵な庭園や石造りの建物、アフタヌーンティーや、目にも美味しいお菓子たち。私は風間さんと話すことなく、外を眺めたまま、あっという間に下まで降りてしまうと、風間さんは手をとり、私が観覧車から降りるときにリードした。その時に、風間さんがイギリス紳士のような人間だから、私は安心できるのだと感じた。紳士的な人間であることがにじみ出ている。だから、一緒のベッドで寝ても大丈夫だとどこかで信じていたんだ。
「風間さん、どうしてそんなに私にしてくれるんですか」
風間さんは夜風に吹かれる通りを歩きながらため息をついた。
「長い旅なんだ」
「それはどういう意味ですか」
風間さんの言っていることの意味が分からない。
「今日も一緒に眠ろう」
また質問をはぐらかした。
その日も一緒に眠ったが、何もなく、次の日イギリスを発った。
私は、残りの夏休みを、あの地下室で、夏休みの宿題をしながら過ごした。風間さんに、音楽プレーヤーを頼んで買ってもらい、イギリスから帰ってからなぜかハマってしまったオペラを聞いていた。プッチーニ、トスカの、歌に生き恋に生きが最近のお気に入りだ。オペラには風間さんも見識があって、何枚かCDを持ってきてもらい、リピートして聴いていた。おかげで宿題も順調に終わり、夏休みもあと一日で終了という日にあることに気が付いた。シャワーを浴びて、外に出ると鏡にうつる自分の髪が明るくなっていることに気が付いたのだ。少し茶色くなっている。日の光にもほとんど浴びていないというのに、ドライヤーで熱を与えすぎたのだろうか。それにしては少し明るいような。地下の光だからそう見えるだけかと思い、その時は流したのだが、次の日、登校して、担任に一番に言われた。
「茂柳木、髪染めたのか。校則違反だぞ」
私は、うろたえた。
「髪は染めていません」
「じゃあ、なんでそんなに明るいんだ。夏休み前はそんな色じゃなかっただろ」
みんなが私を見ている。浜口さんも疑いの目で私を見ている。私は、自分の長い髪を見た。確かに茶色い。どうしてか分からない。日の光を浴びてなさ過ぎてメラニンの生成が少なくなったとか。いや、そんな短期間でなることはない。ここでの言い訳が思いつかない。
「先生、茂柳木さんは染めてないと思います。夏に海にでも行ったせいじゃないかと思います。色白の人は日光に浴びすぎると、すぐに色が変わってしまいますから」
浜口さんが救いの手を差し伸べてくれた。
「そうだとしても、元に戻らなければ、黒く染めろ。さすがにそれは茶色すぎるぞ」
先生はなじった。その上、休み時間にはクラスメイトや浜口さんにも聞かれてしまった。
「絶対染めたでしょう」
みんなはきっと信じてくれない。染めてないが、この色は確かに染めたとしか言いようがないかもしれない。周りの黒い髪に比べると、余計にそれが目立つ。
「染めてないんだけどね。私にも分からないよ」
「生え際から茶色いから、最近染めたってことよ」
クラスメイトは言った。私は、みんなに信じてもらえずしょんぼりしながら、いつもの黒いベンツまで歩いた。
「おかえり」
私はその言葉にすら反応せず、開けられたドアに黙って乗り込んだ。すると風間さんはすぐに反応した。
「どうしたの。何があったんだい」
風間さんが、昨今の女子高校生の悩みを聞くような人には思えない。でも、今、相談する人は風間さんしかいない。
「髪が茶色いって言われたんです。染めた覚えはないんですが、確かに自分でも茶色いなとは思っていて」
風間さんは、笑うとも困るとも違う妙な顔をした。
「じゃあ美容院に行こうか」
風間さんは車に乗ると、家ではなく別の道を走りだし、私を美容院に連れて行った。そういえば、髪を切るのは数か月ぶりだった。
「この子の髪をカットしてください」
風間さんが連れてきた美容院は、意識高い系とでも言おうか、お高くとまった感じで何の意味があるのか、部屋の中に噴水がある美容院だった。担当してくれた男性は、病院のように問診すると、カタログを持ってきて、どんな髪型にしたいかなどを聞いてきて、私はロングのままでいいと伝えた。担当は私の髪を見ると不思議そうに聞いてきた。
「染めてないよね」
やはり、美容師には分かってもらえた。
「はい。でも学校で染めているって言われて、困っていたんです」
「それは私も不思議に思います。茂柳木さまの髪は染めた形跡がないのに、日本人にしてはかなり明るいですよ。彫りも深いし、もしかして、外国の血流れていますか」
また同じことを聞かれた。考えたことがなかったが、思いつく限り、祖父母は日本人であった。その前は分からないが、私の茶色い髪はごく二日前に発生したものだった。とりあえず、黒く染めてもらわなければ、学校には行けない。
「とりあえず黒く染めてください。カットは10㎝ぐらい切って前髪も揃えてほしいです」
美容師は、私の髪を自然な黒に染め上げ、胸の下まであった髪を胸の上まで切り、ボリュームを抑えるために髪をすいてくれた。前髪は眉まで切ったので、別人のようになった。美容師さんは、黙ってするのは気まずいのか、なにかと話しかけられた。中でも、一番気になっていただろうことを聞いてきた。
「お連れ様はお兄さんですか」
そうか、兄という手があったか。私は、まぁと答えを濁したため、それ以上の詮索はされなかったが、もし兄ならば、妹の美容院についてきて、入り口の待合いのところで座って待っているというのは、あまりにもシスコン過ぎる。恋人だったとしてもやり過ぎ感が残る。まるで、親が小さい子供を連れてきているようだ。
髪を切り終わると、会計のところへ戻った。風間さんは、私をじっと見た。
「すごく似合うよ」
私は照れくさい気がして答えが見つからなかった。風間さんは、お金を支払うと、手をとり、初めて助手席の扉を開いた。私は一瞬乗るのを躊躇したが、そのまま、車に乗り込んだ。
「黒い髪も似合うね」
風間さんは駐車場で私を見つめた。
「ありがとうございます」
私はサイドミラーに映る自分を見て、これで明日からの学校は大丈夫だと安心していた。
「行きたいところがあったら、連れて行ってあげるよ」
風間さんは車を発進させると、初めて外に誘ってくれた、私は行きたいところはなかったが、ふとイギリスの庭園が頭をよぎった。また、あんな素敵な芝生で走ってみたい。
「芝生のあるところに行きたいです」
風間さんはいいよと答えると、どこかの公園へ連れて行ってくれた。家からは少し離れているようだが、芝生のある広い公園だった。イギリスの庭園ほど素晴らしくはないし、平坦だったが、私は芝生の上で走ると、芝生の真ん中あたりで仰向けに横になると、視界いっぱいに広がる夕暮れになった空が美しかった。風間さんは、側で座ると、私の顔に手を当てた。
「綺麗だよ」
昔にもこんなこと言われた記憶がよみがえった。でも、誰に言われたのか、思い出せない。デジャヴだろうか。
「芝生は気持ちいいですね」
風間さんは私をずっと見ていた。私は目をそらしていたが、風間さんの目は私から外れることはなかった。目が合うと気まずい。でも、いつの間にか、私は風間さんを見ていた。彫りの深い顔に、少し濃いめの眉毛、色白で髪は黒く斜めに上へ流している。まつ毛が長く、どこから見ても、綺麗な顔立ちだった。風間さんは、こんな顔をしていたのか。
「帰りましょう。遅くなるといけませんし」
私は上体を起こした。すると、風間さんは、そっと私のあごに手を当てると、私の唇に唇を重ねた。それはとても優しく、でも、風間さんの情熱が伝わった。そして私のファーストキスであった。
「ごめんね、あまりにも綺麗だったからつい。気分を害したなら申し訳ない」
風間さんは謝ったが、私はどちらかというと嬉しかった。誰かにキスをされるというのは、こんなにも愛があり、心が安らぐものだったのか。誰もいない広場の時間が止まったような気さえした。私は髪を耳にかけると正直に答えた。
「なんだか、嬉しかったです」
風間さんは家に帰ると、私を部屋まで送り、いつものようにネクタイを緩めた。私は、制服のリボンをほどき、静かになった。私は、何を期待しているのだろう。いや、何も期待していない。私は、おそらくさっきのキスで舞い上がっているだけだ。初めてだったし、それが年上の素敵な紳士だったから。風間さんは椅子に座って、水を一口飲んだ。
「今日は僕も嬉しかったよ」
風間さんは水を飲み干すと、おやすみと言って階段を上がって行った。
私は、動悸が治まらぬまま、服を脱いだ。
次の日、学校に行くと、黒く染めた私の髪よりももっと大きな噂が広がっていた。昨日、私が公園で男性とキスをしていたという噂だった。きっと誰かが見ていたのだろうが、こればかりは否定をしようがなかった。私は、誰とも交際していなかったと言っていたこともあり、クラスメイトはこぞってこの噂の真偽を確かめるために、私を囲って質問攻めにされた。相手は誰なの、彼氏なの、昨日どうしてあんなところにいたの、女の子の質問は絶えない。私は、答えに困ってしまった。彼氏ではない、あえて言うならば保護者。でもキスはした。だが、そんなことを言えば火に油を注ぐがごとく、噂が広がるだけだろう。彼氏、というのは抵抗がある。なんだかんだ言いながら、質問をはぐらかし、噂が静まるのを待った。
「茂柳木さんって男子にモテるから意外だったわ」
浜口さんはにっこり笑いかけた。
「別に人気なんてないわよ」
私は答えたが、人気あるんだからと浜口さんは反論した。確かに、クラスの男の子から視線を感じたことはある。それは、私が一風変わった子だからだと思っていた。浜口さんは、茂柳木さんのことを好きな男子がいるのよと続けた。
「誰なの」
私が気になって聞くと、
「このクラスの子だけど、言えない。本人から口止めされているから」
と教えてくれなかった。
よもや、私を好きになってくれる男の子がいようとは。私は美人ではないし、このクラスで特に目立ったことはしていない。カーストで言えば下の方に属すと思う。浜口さんの言ったことが本当なら、私はもう少し身だしなみに気を遣って、他人に見られていることも考えなくてはならない。今までは適当にしていた髪型のレパートリーを増やしたり、ちょっと緩んだリボンにしてみるとか、靴下も可愛らしいワンポイントのものを履いてみようかな。ようやく、私にも普通の高校生らしい生活を送れることができそうだ。
家に帰ってきて、風間さんにこのことを話した。女子高校生としては嬉しいニュースだったし、最近、私の部屋での滞在時間が長い風間さんに一番に話したかった。しかし、風間さんは話を聞き終わると、今までにない悲しい表情をみせた。そして私の所に来ると、私を抱きしめた。
「僕に嫉妬させないで」
風間さんの腕は、さらに強く私を抱きしめた。私は誰かにこんな風に抱きしめられたことがある。風間さんのように、母ではない誰かにこんなにも強く。
「嫉妬だなんて」
私は答えたが、風間さんは私を離してくれなかった。でも、私は安心した。風間さんは私を心配してくれて、きっと私のことが好きなのだと思う。私はこんなにも誰かに愛されたことがない。母は私のことを愛してくれたが、離婚すると私を置いて行ってしまった。その後、連絡のやり取りさえしておらず、時々、母が教えてくれたことを思い出す程度でしか記憶にない。父は私を愛してくれなかった。友達はいたが、心の底から許せる相手はいなかった。
「大丈夫です。私はその男の子のことは誰かも分かりませんし、付き合うつもりはありません」
風間さんは腕をほどくと、ベッドに座り込み、私の手を掴んで、風間さんの膝の上に座らせて、後ろからぎゅっと抱きしめた。首筋に風間さんの熱い息がかかる。首に数回キスをした。私は鼓動が速くなり、快感が体を走った。そして、強くキスをすると私を立たせて、風間さんの方へ向かされた。
「信じているよ」
風間さんの言葉は、撫でるように耳にやさしく届く。心地よい声は耳を通り、脳から体全体に染み渡る。風間さんは階段をのぼって去って行った。私は、その日、夕食もろくに口に入らず、ベッドで横になったまま、今日の出来事を反芻して小さく縮こまった。
問題は次の日に再び起こった。首の後ろにキスマークがあるとクラスメイトが騒いだことが発端だった。自分でも全く気付かなかったが、昨日のことを思い出し、顔が赤くなった。ヘアアイロンで火傷しただけよ、言い訳をしたが、見知らぬ男性との公園でのキスに加えてキスマークとくれば、どんな鈍い人でも交際相手がいることは一目瞭然だろう。みんなは、例のごとく、やっぱり彼氏がいたのね、教えてよと問いただされたが、もう彼氏ということで通した方が、話は手っ取り早いと思い、適当にあしらった。浜口さんは黙っていたが、見せつけるように首筋にキスマークがあることを良く思っていないようだった。風間さんは、私のことを好きだと思っている男の子に、誇示するかのように付けたことは、明らかだった。私は風間さんのものではない。でも、風間さん以外のものでもない。私は、一体、誰のために嘘をつき、誰を守っているのだろう。
その後は、何も起こらないまま、冬が過ぎた。髪は定期的に黒く染めなければ、明るくなる一方だった。高校2年生に上がるころには、背が伸びて再び成長期を迎えた。胸も大きくなり、女性らしい体に変化していった。それに比例して、私の体には不思議なことが起こり始めた。生えてくる髪は一段と明るくなり、一か月ごとに黒く染めないと追いつかなくなり、一層、顔は彫りが深くなったように思った。ある日、浜口さんに言われた。
「茂柳木さんの目って黒じゃないのね」
私は手鏡で確認すると、黒ではなく、茶色に変化していることに気が付いた。こんな色だったかな。でも、日本人でも茶色い人はいるし、私は気にしないそぶりをみせたが、髪の件といい、自分の体に起きている現象が怖くなって風間さんに相談した。
「私、なんか変なんです」
風間さんは、ゆっくりほほ笑んだ。
「大丈夫だよ。君は特別だからね」
私の頭を撫でて落ち着かせてくれた。
「君は学校の校則に縛られて、自分を出せなくなっているだけだよ。受け入れれば大丈夫になるよ」
風間さんはそう言ってくれたが、学校で悪目立ちすることを恐れ、私は、なんとか誤魔化して過ごすしか手はなかった。大学に入れば、自由にできるが、高校生活はどうにか穏便に過ごしたい。その思いとは真逆に、私の虹彩は色が変わっていった。どんどん黒からは離れていき、次はカラーコンタクトをしている疑惑まであがってしまった。担任はなんとも言えない様子で、怒るわけにもいかないようだった。なぜなら、コンタクトをしていない証拠として、私の目を間近で見てもらったからだ。明らかに色素が薄くなってきている。担任は病院に行くことを勧めた。皮膚も白くなってきており、成長期だからという一言では済まされないところまできている。担任や保健の先生にも相談したが、答えは得られなかった。髪の件に関しても、どうしようもないところまで来ていた。そこで担任は言った。
「もう黒染めしなくていい。病気かもしれない茂柳木を無理矢理、たかが校則で縛る必要はない」
と判断し、私は、ついに黒染めをやめた。二年に上がった春にようやく、自分を受け入れることを決意した。病気かもしれないと不安にかられもしたが、これが私の姿だと鏡の中の自分が言ってくれた。
夏には、私はブロンドになった。目はブルーに変化し、彫りが深く、背も高くなり、一見すると外国人であった。学校でも有名人になったが、私は学校の花形だった。誰もが一度は羨む、外国人のような透き通った肌に、綺麗な髪、美しいブルーの瞳。私が歩けばみんなが振り返り、私が制服をいじると真似するものが続出し、ファッションリーダーのような存在になった。何がこうさせるのか、私には理解できなかったが、風間さんは毎日、私を、綺麗だよと褒めてくれた。
「17歳になったね」
ある夏の日に風間さんは突然言った。私の誕生日は5月。特にお祝いもしなかったから忘れていたが、私は17歳になって大人になった。
「プレゼントがあるんだ」
そう言って渡された、箱は綺麗に包装され薔薇が一本リボンにくくられていた。一階の花屋の薔薇だろうか。私は、箱を開けるとそこには、髪飾りが入っていた。貴族がつけていそうな豪華な髪飾りで、おそらく宝石がちりばめており、見た目よりずっと重い。光の角度で色が変化し、とても綺麗だった。
「ありがとうございます」
「付けてごらん」
私は鏡がある洗面台まで移動をすると、風間さんが後ろに立った。そして、風間さんの大きな手が首筋を這い、私の髪を救い上げ結ってくれた。そこにゆっくりと、風間さんの手によって髪飾りが差し込まれた。髪飾りをつけた鏡の中の自分と目が合った。その瞬間、突風が吹いたように大量の記憶がよみがえった。イギリスのあのガーデンを走る私、綺麗なドレスに身を包みあのチャッツワースで過ごした日々、窓から外を眺めながら悩みを憂いでいた毎日、そして、社交界で出会ったあなたのこと。
「戻ってきてくれたかい」
風間さんは鏡の中の私に話しかけた。
「はい」
私は、18歳になる前にデヴォンシャー家に嫁ぎ、歳の離れた公爵の夫人になった。子供は儲けたが、私は夫を愛せず、また愛されず、愛を求めて社交界に出て、社交界の華になった私が見つけた本当の愛。
「生まれ変わっては何度も君を探した。神はいつも僕たちを近くに生まれ変わらせてくれた。でも、一度もうまくいかなかった。今度こそはと思って、時間をかけて君を振り向かせた。戻って来てくれて嬉しいよ、ジョージアナ」
この人は風間さんじゃない。私は茂柳木朱音ではない。この人は私が本気で愛した、チャールズ・グレイ、私は公爵夫人ジョージアナ。あの時、結ばれなった私たちは何代にもわたって生まれ変わりを繰り返し、彼は私を探して愛を伝えてきた。私は何度、彼のことを思い出し、彼の愛に気づいただろうか。そして、忘れて行ったのだろうか。
「ジョージアナ、今度こそはどこにも行かないで」
彼は、私を抱きしめると彼の思いが伝わってきた。彼は何度も転生し、記憶が受け継がれながら私を探していたというのに、私は記憶が書き換えられ、何度、彼を失望させたことだろう。
「チャールズ、あなたは何度私を探したの」
チャールズは私を抱きしめたまま答えた。
「何度も。ある時は君のいとこに、ある時は街の大道芸人に、ある時は盲目のピアニストに。そして、今は世には出ないお金を管理する裏の人間に。でも、どの自分も君を見つけられた。君に愛は伝わらなかったけれど、今回は伝えられる自信があった。最初に会った時から、すでに僕を信頼してくれていた気がした」
私は、知らない男性の車に乗り込んだときに声を出さなかったのは、彼をどこかで知っていたから。私の体に変化が起きたのは、自分のことを取り戻しつつあったから。私はイギリスに生まれ、イギリスに渡った夏に、忘れていた記憶を刺激されたことで、本来の自分が目覚め始めた。自分を受け入れて、この思い出の髪飾りをつけてすべてを思い出した。この髪飾りは、お互いのことを忘れるために、そして忘れないために最後に彼が贈ってくれたもの。私は、居場所のないデヴォンシャー家で生涯を過ごし、彼との間にできた唯一の子供はほとんど血の繋がりのない家庭に渡してしまった。彼は政治家になり、国を動かした。その彼を遠くから眺めて、私の生涯は終わった。
「チャールズ、私を探してくれてありがとう。私のためにここまでしてくれてありがとう。私のために長い間、命を削ってくれてありがとう」
その夜、私たちは深く愛し合った。彼は情熱的で、今までの隠してきた思いをぶつけるように、時に激しく、時にガラス細工を触るように私の肌を撫でた。彼の愛に包み込まれ、私は彼に心の底からの愛を誓った。あの、隠れた別宅で愛し合った日を思い出す。あの時、私は彼にすべてをかけて、あの場所に出向いた。あれから300年が経った今、ようやく何の隔たりもなく私たちが結ばれたのは、やはり私の愛する人はチャールズ・グレイだったのだ。あの時、自分たちの立場を守るばかりに、一生を無駄にした。でも今、結ばれたのなら、この300年は無駄ではなかった。彼は私に優しくキスをしながら、身を寄せた。
「愛しているよ、ジョージアナ」
ジョージアナはその後、4人の子供を儲けた。しかし、男は生まれなかった。それでも、二人は幸せに過ごすことができた。ようやく愛する人と生涯を共にできたから。ジョージアナは病気にかかり、45歳の若さでこの世を去ったが、生涯の全てを日記に書き記し続け、チャールズや子供たちに見守られながら、愛に包まれた生涯に幕を下ろした。
私がある日、夢で見た光景と史実をつなぎ合わせました。あまりにも衝撃的な夢をみたもので、二日間で書き上げた作品です。ジョージアナは、実際にデヴォンシャー家に嫁ぎ、公爵との間に子供を儲けますが、公爵との愛は育まれず、公爵は愛人をつくりその間に子供を作ってしまいます。そんなジョージアナは社交界の華となり、多くの男性を魅了しますが、チャールズ・グレイという男性と恋に落ちます。しかしその恋は叶わず、ジョージアナは公爵夫人のまま生涯を閉じてしまいます。そんなジョージアナの愛をもう一度、読んでくださったあなたに贈りました。